見出し画像

アンナチュラル7話【殺人遊戯】~生存者の罪悪感~

アンナチュラル7話について考察していきたいと思う。今回は4話の「誰がために働く」以上に感動しました。綺麗ごとだけではなくとても考えさせられる内容でした。「いじめ」って社会の中で私たちの可視化できない所にあるんですよね。むしろ、見ないようにしてる。そんな「いじめ」をリアルに描いてたと思います。


1.生存者の罪悪感

「生存者の罪悪感」 

六郎「ミコトさんはどう思ってるんですか?中堂さんが殺したって。」
ミコト「え、殺してないよ。その話どこで聞いたの?」         ミコト「生存者の罪悪感を感じてる。災害とか悲しい事件に巻き込まれた人が亡くなった人と自分を分けたものは何か、どうして自分だけが生き残ったのか。」

 事件や災害に巻き込まれた人が亡くなった人と生き残った自分を何が分けたのかという罪悪感に苛まれている。どうして自分が生き残っているのかわからないからこそ抱いてしまう「生存者の罪悪感」。これに対して、ミコトは残された人が前を向いて生きてほしいと考えている。
ミコトも一家心中で生き残った側の人間なのでこの「生存者の罪悪感」というものを感じたことがあるのかもしれない。(母親はともかく、父と弟はミコト同様巻き込まれた人間なので。)       

また、白井くんも事件に巻き込まれて残された生存者である。自殺した生徒と白井くんはどちらもいじめられていたのだ。とすると残された側の白井くんは「生存者の罪悪感」を抱いていると考えれる。そして罪悪感に苛まれた白井くんは自殺をしようとする。もちろんミコトはそれを止めようとする。

ミコト「あなたが死んで何になるの?あなたをいじめた人たちは新しい人生を生きていく。あなたの人生を奪ったことを忘れて生きていくの。あなたの人生はあなたのものだよ。」

また、中堂も

白井「僕だけが生きていいのかな?」
中堂「死んだやつは答えてくれない。許されるように生きろ。」

「生存者の罪悪感」に対してどのように生きていけばいいかを中堂に言わせることに私は驚いた。
ミコト「生」中堂「死」という対比が多かったなかで、中堂に「生きろ」と言わせることには大きな意味がある。中堂もミコトと同様残された側の人間で「生存者の罪悪感」に苛まれているからこその言葉である。よってこの生き方は中堂自身にもあてはまるのである。中堂は死んでしまった人に【許されるように生きている】のである。また一方で、中堂と同じ捉え方をすると、ミコトは【自分の人生は自分のもの】という考えで生きている。             

現に2話で

「(親は)自分と子供が違う人間だということを理解していない」

親が子の人生を所有物と捉える一家心中に嫌悪を抱いていることからも、そのような考えに至ったのは幼少期に一家心中で残された側の人間になったのが理由であると考えられる。ここでも近いようにみえてミコトと中堂の違いが明確に描かれている。

よって、5話で出た「永遠の問」は【自分と亡くなった人を分けたものは何だったのか。】を意味しているのではないかと私は考えた。中堂の言う通り”死んだやつは答えてくれない”のだ。

2.殺人遊戯というタイトル

【殺人遊戯】というタイトル
いじめとはいじめてる側にとっては、一時の欲望を満たすための快楽、加害者側は軽い遊びとしか思ってない。でもそれは遊戯でも何でもないいじめはただの殺人である。という意味が込められていると捉えた。これは根拠がないので私の推測ということで置いとく。

3.アンナチュラル における食事

「食事」                                       
食事は1回ミコトがおにぎりを食べているシーンがあった。



今回のミコトの【法律ではさばけない。いじめによる殺人。】というセリフはいじめの皮肉さの的を射たフレーズだったと思います。

個人的にはここが好きです。

中堂「協力しろ。さんざん協力させられたんだ。少しは返せ。」
ミコト「了解。」

中堂が自分から心を開いている感じがしますね。

今回の高校生役の2人はアンナチュラルの後、3年A組にも出演してましたね。そちらでも良い演技をしてました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?