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2022年にこの作品を届ける意味〜何者かになれるお前たちに告げる〜

10年の時を経て帰ってきた「輪るピングドラム」

やはり、すごい。テレビシリーズを見たときも衝撃を受けたが、スクリーンで見る「輪るピングドラム」にはそれ以上の感動があった。私はテレビシリーズを2年前に見た。その時、私は「放送された2011年に見たかった」と心底思った。2011年混沌の中で生きていた年、その当時リアルタイムで見た人にしか感じることのできない何かがあると感じたからだ。
しかし、リアルタイムで見るからこそ意味のある作品だと思っていたが、そんなことはなかったのだとこの映画で感じさせられた。時を経たからこそ、この作品の持つメッセージが熟成され強く胸に刺さった。むしろ、時を経て改めてこの作品のメッセージを発する必要があったのではないかと考える。2011年の作品が2022年を生きる私たちを再び救ってくれたのだ。

 
「輪るピングドラム」を見ていると、エンタメ作品を作る意義を認識させられる。地下鉄サリン事件や酒鬼薔薇事件などのタブー視されがちな社会的事件を扱い、それでいて、エンタメとして昇華できている。最初から結末を見据え、物語の展開・台詞・演出が作り込まれていて圧倒される。

10年前に作られた作品だが、2022年の今見ても古さを感じない。それは、おそらく「愛」というテーマを軸に置いているからだろう。いつの時代でも、人は「愛し」「愛される」ことを求めている。
カルトを信仰する親を持った子供、身体的虐待を受けていた子供、ネグレクトを受けていた子供。そういった問題はむしろ、10年前より、今現在の方が増えているのではないか。10年前、覆われていたそのような問題が表に出てくるようになった現在。現実世界が10年前よりピンドラの世界に近づいているのではないかとすら思える。
 
だからこそ、「今」この作品を世に放つ意味がある。
 
親の行いにより罪を背負うことになった子供たち。
そんな子どもたちは存在意義を見失い、「何者にもなれない」はずだった子供たち。一度この世で透明な存在になりかけるが、愛を与え、与えられることによって、自分の存在意義を見つける。

「禁断の果実を一緒に食べる」
この行為は自分の愛を相手に分け与える行為である。
愛を分け与え、そして誰かに分け与えられ、そうすることで、愛が循環する。
誰かを愛して愛されることで存在意義を見つけることができる。ここで大事なのは、それが、血の繋がる相手でなくてもいいということだ。実際に、この作品において、愛の循環を完成させた、3人は誰一人として血の繋がりはない。そこに、私は大きな救いがあると思っている。
 
「何者にもなれない」はずだった私たちに10年越しに「何者かになれる」というメッセージをくれた。
自分の存在意義を見失う人たちは、10年前も今も沢山いる。
だからこそ、この作品は今でも私たちの胸に刺さり、そして救いの手を差し伸べてくれる映画なのだと思う。
 

きっと何度でも、彼らは運命の乗り換えを成功させるだろう。

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