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『エル・トポ』に視るサイコマジックの萌芽

導入

今日よりアレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画に関して数日まとめたいと思います!

アレハンドロ・ホドロフスキーの長編デビュー作『ファンドとリス』に次ぐ二作目『エル・トポ』は、彼の名を世界に知らしめました。
熱狂したジョンレノンはこの『エル・トポ』とホドロフスキーの次作『ホーリー・マウンテン』の配給権を買い取ったそうです。

現在彼の最新作『ホドロフスキーのサイコマジック』の先行オンライン上映がやっており、また5/22からは劇場上映も始まります。その映画の中で、彼が行っているサイコマジックという精神療法について詳しく話されていました。
自分はそれ以前に、彼が前作『エンドレス・ポエトリー』とその前の『リアリティのダンス』において彼自身を癒やし、そして映画によって行われるその行為によって救われました。

この映画は、ミッドナイトムービーの社会現象を巻き起こした代物で、展開、セリフ、演出と明らかに通常の物語としてはおかしなところばかりで、よく分からんとんでも映画として消費されることが多い印象です。
勿論絵面だけでもクソ面白くて、意味なんて分からなくてもギャハギャハ言いながら「傑作じゃねえかこれ」となる力を持った映画です。

しかし、先程も言ったような作品群を観て、サイコマジック的にこの映画を観てみると、映画の中に現れる彼の心の砂漠、孤独、父権との葛藤。自分を生きるということと格闘し続け、そして如何ともし難いどうっっっっっっっしようもない虚無。サイコマジック的な救済に至る前の彼の戦いが丸見えになります。主客、立場が入り乱れる彼の叫びに釘付けになること間違いなし。では、読み解いていきましょう。

トポと子供と父と自分

エディプス・コンプレックスはこの映画の中でとても多く現れるモチーフです。父親を殺し、母親と結婚するオイディプス王を元にフロイトが提唱した概念です。エディプス・コンプレックスを克服して、両親と決別しながらペニスを保持する、という発達は、強権的な父のもとに異常な去勢不安を抱え育ったホドロフスキーにとっては、恐らく正常には行われなかったものでしょう。

この映画は、アレハンドロ・ホドロフスキー演じるエル・トポが、その息子ブロンティス演じる子供に、はじめてのおもちゃと母の絵を砂漠に埋めることを強要するシーンから始まります。初っ端からエグい父の抑圧、男性像の押しつけがなされます。そしてしばらく砂漠を旅することに。
次の衝撃的な死体の山の街では、kill meと叫ぶ男を子供に殺させる。そして略奪と装飾は父のものへいきます。トポは子供を強くしたい。ここではトポはアレハンドロの父、子供はアレハンドロです。
トポはめちゃくちゃ強いです。アレハンドロにとって「父」はこういう強さを持つものでした。

しかし、トポが正直に白状したやつに対して、奪った指輪を口に突っ込む所に強権的な部分が抜けている予感をまず感じます。
この映画の先40年後近くにできた『リアリティのダンス』は、彼が父を許すことが根幹にあるのですが、この時点で多少の段階は示されているようです。しかし、当時のアレハンドロにはその具体的な折り合いの付け方がわからない。

大佐とトポと父と自分

爆笑しテキトーに人を殺すわ、映画の刑務所でよく視る男娼化させるやつやるわ、股間にトカゲ持って女にちょっかい出すわのアホどもと「大佐」の元にたどり着くトポ。男娼化させられた神父とアホどものダンス、この類のダンスはホーリー・マウンテンにもありました。
大佐はこれまた父権の塊。大佐の世話をする女性も権力の顕示に使う道具でしかありません。
でもトポはツエーので大佐をぶちのめすわけです。しかしこれは、腕交差したカッケーポーズで詰め寄るアレハンドロの俺ツエーがしたいわけではないんですね。トポは大佐の虚飾を剥がし、去勢して、女を奪い、自称では神になったそうですが…

「去勢」はエディプス・コンプレックスにおいて父が脅すもの。そして、父権である大佐から女性を奪うのはオイディプス王。
つまりここにおいては、大佐が父であって、トポが子アレハンドロというエディプス・コンプレックスが現れているのですが、普通の発達とはならず、トポが先ほど見せた強権性のほころびは、ここでまた堅固なものに。トポは父を殺し、本来できないはずの同一化をしてしまいます。父はアレハンドロにとって、神を自称する暴力的な存在だったことは事実でしょう。

トポに捨てられる子供。先程トポが大佐を殺して父になったので、この子供はホドロフスキー。トポは子供に、誰にも頼るな、俺を殺れ。とそれらしき教鞭を垂れます。
それに対し「泣けば慈悲をくれる、泣け!!」と神父が叫ぶのはとても大事なシーンです。自分が生きてきた抑圧的な世界と、一般的な世界の著しい乖離。あの子供は、抑圧的でないだろうあの神父たちの中でさえ、うまく生きていくことは叶わないのだろうと予感させます。
そして彼はホドロフスキー自体であって、彼は一体どんな気持ちで世界を生きてきたのだろうかと思いを馳せます。

トポと女と自分と父とキリスト

さて、今度はトポが連れて行った女が、トポに向かって「最強になれ」と要求し、トポはそれに従って5人の凄腕のガンマンを殺しに生きます。初戦から負けを認めるトポになんとしても勝てという女。卑怯な手を用いて全力で敵を潰したトポを、誇りに思うと女は褒めます。これはまた、父ですね。今度は女が父で、トポがアレハンドロ。
手足のない二人を丁重に弔うアレハンドロ、顔を見るに最悪な気分のよう。言われるがままで、自分を生きれない様子です。親と離れても、その抑圧からは脱出できないまま。エディプス・コンプレックスを克服できなかったのですから。
女は性行為中も鏡を見ていて、あら、もう誰もトポを見てません。父にとって、女にとって、息子は、彼氏は、自分をよく見せるものでしかないと。
トポは、アレハンドロはそんな自分を認めてほしくて必死に奉仕し自分を生きられない。なんだか耳が痛いですね。女から離れそうな瞬間もあるのに、でも離れられない。自分を生きる勇気がないですね。

トポが殺そうとした強めの人たちは、全員がキリストを持っています。
大佐は部屋そのものに明らかにキリストがいる。見た目キリストの奴は見た目キリスト。親子はフクロウの磔が机にくっついている。音楽うさぎは立ち会いの際に十字の形をしている。老父はキリストが槍を刺された右脇腹に弾を打ち込む。そしてトポも女に撃たれたときは十字でした。

ホドロフスキーが色んな映画でキリストをバンバンとバカにしたり破壊したりするのは、彼にとって外部的な宗教がものすごく気になる存在だったからだと思います。嫌いだったと思うのですが、嫌よ嫌よも好きのうちみたいな。
本当に奴らが言うような神があればそんな素晴らしいことはないのに、現実は余りに違う。その広まりからして他を迫害してきたキリスト教に、人を食い物にして権益にすがる商業的な宗教に、隣人愛が現実のどこにある。
なのに、何度振り払っても事あるごとに、神を求める自分が見え隠れしてしまう。そういう関係だったのだと思います。劇中でも幾度と祈り、しかし結局結末はあのザマですから。
あの手この手で4人を殺したトポは、最後の一人の自決を持って、絶叫します。殺した誰を訪ねても、殺した誰もが死んでいました。彼らは色々なことを教えてきたが、皆トポが無視して殺したのでした。振り払えど見え隠れする神ですね。
井戸での闘争はとってもあからさまに自己で葛藤してます。ここでのヤギの十字のビジュアルが凄まじい。こんなキリスト教なら、アレハンドロも上手に信じれたでしょうか。

フリークスとトポと自分

トポは、幼少に子供を捨てたように(自分が幼少に捨てられたように)また捨てられてしまいます。そして度重なる近親相姦で多くがフリークスとして生まれた洞穴で、長年眠り神として崇められている状態で、眼を覚ます。
トポはここで、神でなく人だ。と宣言します。父であるころにした宣言の撤回です。

その後、事情を知るという老婆の元へ話を聞きに行き、その老婆にキスをした後、老婆の服の中から頭を出して出てくる。老婆に依る生まれ直し、これは非常に重要です。

老婆とキスをしたのは自分であり、生まれたのは自分なので、父子が自分であるというのはまたオイディプス王であります。しかし、それはこの洞穴の人々と同じ近親相姦という生まれ方をし直すということです。
自分が父であり子なものの、順序が子→父でなく父→子となり、これはオイディプス王でありながら、本来の物理法則では不可能な超自然的なオイディプス王。子が父の妻たる女を抱きたいと言う欲求ではなく、父が妻たる女の子供になりたいという欲求。

アレハンドロは、フリークスの人々に仲間に入れてほしかったんだと思います。自分はフリークスではないが、強い親近感を身体的マイノリティの人たちに感じていたのでしょう。彼の生い立ち思想がマジョリティのわけもないですし。身体のそれも精神のそれも越境されて然るべきでしょう。そこでオイディプス王の近親相姦を利用する、というのは非常に上手い!!
彼らと仲間になるためにエディプス・コンプレックスを克服できなかったことを、敢えて選択する積極的な理由としてみるという前向きな動きを感じられます。
ホドロフスキーはホーリー・マウンテンでも生まれ直しています。実際には生まれ直したがる、なのだろうけど。

世界、ゴミみたい

皆が洞穴からの開放を願っていると知ったトポは、トンネルを掘ることを誓います。フリークスの一人の女性とトポは、先に壁をつたい街に出ました。
街へ出るが、そこはひどくあからさまに汚れた街でした。階級的でグロテスクで希望もクソもない。
着飾った階級の醜い人間は、マスキュリンな黒人奴隷を一方的に消費し、チャントで神に祈り、ロシアンルーレットで信仰を試す。他人の死はイベント。信仰というサーカス。プロビデンスの目の裏に十字架。

フリークス性を全く隠そうともしない見世物も、笑いとともに存分に受け入れられましたが、それは記号的消費でしかなく、特に現代にも形を変えて現れるものです。人間性を一切顧みず、徹底的に突き放す故にそれっぽく提示される「反差別」的メッセージなど…

そしてフリークスの女性と結婚することにしたトポは、教会の神父がかつて自分が捨てた息子だと気づきました。息子は父を殺そうとしますが、トンネルを開けるまでの執行猶予をもたせ、後半は協力します。
遂にトンネルが開通したのに、息子が父トポを殺せない場面、『エンドレス・ポエトリー』ですね〜。ここにも父を許したい気持ちの萌芽が見えます。

さて開通したトンネルから出た、フリークスの人々は、街に入るやいなや即座に皆殺しにされました。
怒り狂ったトポは、撃たれまくって体に風穴開けまくりながら銃を奪い取り、街の人間を皆殺しにして焼身自殺します。
いや〜〜〜〜〜〜虚無!!!!!!虚無過ぎます。ホント虚無。ええ、分かります。分かりますよ。世界は私を受け入れない。というのは、何回認めても認め足りず、どうしようもない壁として存在するんですよね。ええ…
公に俺がどうしろってんだ、から抜け出す方法を知らないアレハンドロ・ホドロフスキーは、ここでは焼身自殺。悲しいなあ…ここでは悲しんどいてください。後で救われるので。

最後も父の妻を息子が奪う。最後までオイディプス王なのでした。おしまい。

(コードー)

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