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ただの人間で生きるにはあまりに狂った世の中だ

【ミッシング】という映画を観た。
観終わったあと、まるで亡霊のようになった。力なく映画館を後にして、駐車場で車に乗り、しばらく発車できなかった。

石原さとみ主演。
娘の失踪に打ちのめされる母親(沙織里)を演じた。娘を失い、ボロボロになる家族に、世界が一斉に牙を剥く。両親は、吹き荒れる誹謗中傷によろめきながらも、必死に娘に辿り着こうとする。
この映画を観ていると、誰が敵なのか分からなくなってくる。
敵は、雲隠れする誘拐犯か、画面の裏側から攻撃して来るSNSユーザーか。

半狂乱で疾走する石原さとみの熱量に引きずられた1時間58分だった。帰り道、脱力しきった脳で考えた一つのこと。石原さとみは、信頼できる俳優だ、ということ。

命ほどに大切なものを奪われて、着飾ることも捨て、愉しむことも捨て、見栄も捨て、言い訳も捨てたあとの「ただの人間」を演じていた。その姿に、確かな信頼感を覚えた。

娘を奪われたことで大怪我をした母親が、さらに他人に執拗に切り刻まれて、壊されていく。

「狂った母親」呼ばわりされながら、沙織里は、世の中を見つめる。そして、
「世の中って、いつからこんなに狂ってるんだろう……」と呟く。

「ただの人間」になった沙織里の目に映ったのは、ぐちゃぐちゃに崩壊した世の中だった。 

私たちは問われる。
狂っているのは、一体どちらだろうか、と。
公共の場で発狂し、失禁する沙織里か、
澄ました顔して人殺しをする世の中か。

誹謗中傷を苦に自殺した人に、人々は言う。
「嫌なら、コメントなんか見なきゃいいのに」

テクノロジーが進むに連れ、私達も人間であることを諦めて、進まなくてはならないのだろうか。より無関心に、より機械的に。
複数のアカウントを持ち、アカウント名の名札と、アイコンの仮面を取っ替え引っ替え付け変えて、
リアルで溜まった不満を、液晶画面の中にぶちまけて、心身のバランスを保つ。
それを、進化と呼ぶのだろうか。
問われ続けながら、観ていた。

淡い光が、ちら、と顔を見せる。
そんなエンディングだったと思う。
じわりと体から滲むような涙を流した。

私たちの人生には、予期せぬ問題が立ち上がり続ける。そして、きっと、その多くは解決しない。

苦しみながらも、なんとか折り合いをつけながら、歩き続けるしかない。足元に落ちている小さな光に気づき、拾い上げながら、前を向くしかない。
そうやって少しずつ集まった小さな光を、人は「解決」と呼ぶのかもしれない。

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