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BABI YAR. CONTEXT / Sergei Loznitsa


バビ・ヤール / セルゲイ・ロズニツァ

 最初に見た戦争映画は何だろうと考えてみたときに、私が思い当たるのは宮崎駿監督の火垂るの墓だった。この作品はれっきとした戦争映画だと思う。それから中学生の頃に授業で見たアメリカ南北戦争の映画(検索で探したけれど一向に名前が思い出せない)、クリストファー・ノーラン監督のダンケルクなどが思い当たる。今回見たバビ・ヤールは、私が初めて見る全編アーカイブ映像で製作された映画だった。

ー1941年6月、独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻したナチス・ドイツ軍。ソ連の占領下に置かれていたウクライナはその大半がドイツに占領され、9月19日には首都キエフが占拠された。ー

 ホロコーストを題材にしたは何作品か見たことがあったが、本当にそんな映像が残っているのか?どのようなアーカイブ映像で構成されるのだろうと考えながら高田世界館へ向かった。
 冒頭からショッキングな映像の連続だった。最初に感じたのは爆撃の音の不快感と恐怖。おそらく音は音量を上げて強調しているとは思うが、爆撃に巻き込まれて死ぬときはこの爆音のなかで訳も分からず息絶えるのだと感じた。
 そして驚いたのが、映像が鮮明かつなんの動揺もなくカメラに収められていたことだ。このアーカイブ映像の撮影者は様々な人物がいると思うが、共通しているのは当時の戦争の状況で優位に立っていた側の人物である。常に自分たちの行動をただ冷静に「記録」している。太い木の棒でユダヤ人にを追いかけまわし暴力をふるうのも、裸になって追い出されるのも、死体を埋めているところも、やせ細った捕虜が移動の途中で力尽き道端で死んでいるところもである。自分はただの記録係で、わが軍の戦果・功績を映像にして記録しているんだ、といったスタンスだ。映像は決定的な証拠になるから残りにくいという人もいるが、圧倒的優位かつ自分は正しいことをしているという意識があるならば、「記録」として残しておきたいという心理が働くのだろうか。ここで私が戦況で優位に立っていた側と書いたのは、映画の終盤では撮影者の状況が入れ替わるからである。
 私がこの映画を観終わって一番強く感じたことがある。もし戦争に触れた場合、私はこの映画のどの人物にもなりえて、かつどの人物になるかは自分では絶対に選べないということだ。戦争賛同者、兵士、差別するもの、差別されるもの、道端の死体、処刑される者のすべてが自分だと思った。戦争とは自分一人ではどうしようもない状況に置かれ続けた結果、おかしいとも思えなくなっていくことだと感じた。そして私もその例外ではないと。
 映画館から出てきた時の何とも言えない気持ちをこれからもずっと忘れないようにしたい。

フライヤーに使われているのは、バビ・ヤールで虐殺された人々が着ていた衣服の数々。
この谷が産業廃棄物で埋められる映像で映画が終わる。


 


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