奇妙な感覚

いつからこんなことを考えはじめたのかはわからないのですが、私の人生、私自身のことすべては初めから決まっているのではないか?と思うことがあります。

私がいま耳にしている音も、目に映るものも、香りも、起こる出来事でさえ、すべてプログラムの一部なのではないか?日によって変わる気分も、今日予定されている出来事も、日によって変わる運もすべてすべて、だれかの計画通りなのではないか?と思ってしまうのです。「人生は初めから決まっている」……?そんなスピリチュアルじみた思考に至ることがあります。

そして一方で、よく「自分」がわからなくなります。

それは本当に突然やってきます。朝起きて、なんだかふわふわとしていてそれまでの自分と一貫性がないような、ふと気づいたらそれまでの自分と違う人間になってしまったかのような、そんな感覚。なんだか忘れてしまっているなにかがある気がしてくる。

しかし、持っている記憶はそれまでと変わっていないはずだし、鏡を見れば確かにそこに映るのは私なのです。でも、そこにいる私はだれなのか、私とは誰なのかがわからなくなってしまうのです。

なぜ私が私なのか

なにをもって私なのか

それまでの自分の記憶はもちろんあるけれど、いったい私はそれまでどのように息をして、どのように物事を感じ、どのように考えて行動していたのかがわからなくなってしまうのです。生き方、というか、あり方というか。

そうしてぼんやりと何物でもない自分を、不思議な感覚で第三者視点から眺めていたくなる、そんな感覚。こういう時には決まって焦りだします。「自分を見つけなきゃ」、と。

「私が私である理由」は考えてみればたくさんあるのかもしれません。今までの記憶だって持ってるし、変わらず身長は低いままだし、『おジャ魔女どれみどっか~ん‼』の最終回を観れば、毎回泣いてしまいます。小さい時からこれはずっと変わりません。でも、それらすべてがプログラムされたシナリオ通りのものだったとしたら?

「最終回を観たらいつでも泣く」とか、「このタイミングでこうする」とか、もっと言えば、いまこのnoteを書いてることも、こう考えていることも、全部決められたシナリオ通りだったら……私自身はそうなるようにプログラミングされたものにすぎません。もしかすると、いまの自分はそのように構成された人間で、持っていると思っていた記憶も設定されたものかもしれません。周囲の人々も、それに合わせて振る舞っている人にすぎないかもしれません、ちょうど「トゥルーマン・ショー」のように。

では、私が時折探している私ってなんでしょう?その私は、一貫した何かを持っているはずなのです。ほかの人はみな、自分が自分だと認識しているんだから、私にだって、私を構成するものの中のどこかに一貫性はあるはずだ!とも思いました。

でも、いままで生きてきた中で一度も変わっていないものなどあるのでしょうか……?

体だって成長しているし細胞も日々生まれ変わっている。昨日の自分は別人だという説も聞いたことがあります。考え方だって昔の自分とは大きく変わってしまったはずです。

私の話になりますが、今年度自分はそれまでの自分と大きく変わりました。去年までの私の記憶には、小学生から今までの数々の嫌な記憶がこびりついていて、大学生になってもなお、囚われていました。でも今年度になって、それらがきれいさっぱり「そうなるべくしてなったんだな」と思えて、全部認めることができるようになったのです。今年度、私の記憶は「嫌なもの」から「そういうもの」に変化し、またその時の記憶がそんなに悪いものにも思えなくなってきました。これは、その時の自分と今の自分の感じ方が変わってしまったからでしょう。

成長した、とも言えますが、そうなると、記憶だって一貫性のあるものではなくなるように思います。記憶の改変は簡単に行えると聞いたこともあります。自分が今持っている記憶は昔の自分から引き継いだものだけど、本当にそれが昔の記憶そのままなのかはわかりません。今の私が忘れてしまった記憶もあり、忘れてしまった自分自身もいますので、その記憶の中で自分がどう感じたか、どう思っていたのかという記憶が変わってしまっているようにも思います。

こうして考えていると、生まれてから今まで一貫した、私が私である理由はないようにも思えます。生まれてこの方今の私が私として生きてきた確証など、どこにもないように思えるのです。では、私はどのように生きればよいのでしょうか?私は誰として生きればよいのでしょうか?

答えはいまだに見つかっていません。わかりません。

けれども、生きてしまえばいつかわかるかもしれません。

本当に、この人生のシナリオは誰かが作ったものかもしれませんし、そうではないかもしれません。私はプログラミングされたものかもしれませんし、探した私などどこにもいないかもしれません。でも、私の生きている人生の物語を、まだ私は全部見ていないはずです。つまり、私はがんばってこの人生を生きて、シナリオ回収してその答えを出さないといけないのかもしれません。

それがどうだったかの感想は、たぶん、死んでからのお楽しみです笑笑

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