これが生命の本来の姿
人はどういう時に「生命」というものを感じるのだろう。
一般的に人が生命の重みを感じるときは、例えば赤ん坊が誕生したときとか、逆に病気になって自分の体の自由が効かなくなったりしたときだろうか。
わたしは老健の介護士をしている。
一般に老健(介護老人保健施設)というと、病気などで入院していた高齢者が、リハビリも兼ねて在宅復帰できるよう支援していく施設を指し、入所期間も短く、そう何年もいる場所ではない、とお思いでしょうが、現実は違っていて、特養(特別養護老人ホーム)に等しい老健も多い。
わたしがいるところも特養っぽい老健で、最初はこんなに看取りが多いのかと驚いた。さらに所属しているところは認知症の利用者さんばかり。認知症の方というのは、一般的なご老人と比べるととにかく一人一人に手がかかる。意思の疎通が難しく、まともな会話が成り立たない。指示が入らず(言うことを聞いてくれない)、ひとつひとつの所作に時間がかかる。口はちゃんと動かせても食事の認識がだんだん薄れてくるのでいずれは食事介助も必要になってくる。排泄もしかり。大変この上ないのだ。
とは言え、「疲れる」ということを除けば、見方によってはやりがいのある仕事なのかもしれない。人の世話をしていて常日頃感じることは、いずれわたしもこうやって人の手を借りなければならない時が来るのだということが身に染みてわかる。
病院の看護助手をしていた時も同じようなことを感じた。
看護師と一緒にエンゼルケアに入ったとき、生前いくら強がり言っても、いくらヤンチャしてても、いくら人に迷惑かけてきても、逆にどんだけ善いことを施してきた人でも、ひとたび死を迎えたら全てチャラになる。みんな看護師の手できれいにしてもらい、人の手を借りて見送られなければならない。そして誰もが違わず土に還る。
認知症という病気は「脳の病気」なので、体の方は比較的丈夫な方が多い。本人も病気という認識がないので、だから元気で徘徊する。足が少しぐらい痛くてもへっちゃらで、身体のどこかが痛くてもそれをうまく伝えられないので悪化する傾向にある。病院によっては、認知の進んだ人はまともに診察ができないので断られるケースもある。
認知症の方の命に関わる問題は「食事」の認識が薄れてくること。遊び喰いや食い散らかしているうちはまだ大丈夫。食指がなくなってきたら下降の一途をたどっていく。
そういう方々に食事介助をしても、まともに食べてくれない。口の中に溜め込み、飲み込めない。そして最終的には老衰となってしまう。
(補足:ここで、本来の寿命を超えてなお生かすための延命処置については、個人的には別問題と解釈しており、あえて言及しません)
そんな、日に日に食事の量が減っていく人間の姿を見て気づいたことがある。
これが生命の本来の姿。
肉体を持っているがゆえの生命の在り方。
栄養が摂れなければ肉体は維持できない。
ご飯を自分の手で口に運び、咀嚼して飲み込む。
こんな簡単なことができなくなってしまう。
身体が動かないわけではない、脳の機能の問題。
先日天国に旅立ったお婆ちゃん。
あらぬ方向を見てにこにこ笑う。誰かが来ているのかもしれないとおもった。口をもぐもぐ動かしこそすれ、でもスプーン一杯のお茶でさえ飲み込めない。
そんなお婆ちゃんの姿に、先の自分の姿を重ねてみてしまう自分がいる。
わたしもいつかこういう生命の道を辿るのだ。
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