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『こうのとり、たちずさんで』


1991年/ギリシャ映画
監督:テオ・アンゲロプロス
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー

かつて一度だけコーカサスの方で国境線を歩いて渡ったことがあります。長い柵に有刺鉄線、アサルトライフルを抱えた衛兵たちに囲まれたコンテナのような建物の中に続く無機質な廊下とまるで病院の売店のような免税店、パスポートにスタンプを押して貰って出てくればそこはもう別の国。周りを海に囲まれた日本で生まれ育った私、そしてきっと多くの日本人にとって外国とはすなわち海の向こう側という認識でこの線を渡ればもう隣の国という感覚をなかなか感じることはできません。だけれども目の前には眼には見えない深い深い線が刻まれており、一歩踏み出せばそこはもう“ここ”ではなく“よそ”になってしまう“国境線”という名の抽象的な存在が…

その時否応無しに考えてしまったのがこの映画『こうのとり、たちずさんで』です。

これはギリシャが誇る20世紀後半最高級の巨匠テオ・アンゲロプロスのフィルモグラフィーでは比較的マイナーな傑作です。彼の監督作で有名なのは岩波ホールで上映され日本で認知されるきっかけとなった4時間近い傑作『旅芸人の記録』(1975)あるいはカンヌでパルムドールを取った『ユリシーズの瞳』(1995)や『永遠と一日』(1998)でしょうか。もちろんどれらも大好きな映画ですが、個人的にはこの『こうのとり、たちずさんで』がベストです。

物語は国境に囲まれた難民の待避所となっている村を舞台に、テレビのディレクターがフィルムの中に見つけた男、難民たちと共に廃車両に暮らすその男がかつて突如失踪した政治家なのではないかという疑問を中心に展開していきます。イタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニ演じるこの男は劇中では“じゃがいも売りの老人”などと呼ばれ名前がありません。
『旅芸人の記録』でギリシャ神話の神々と同じ名前を持った登場人物がギリシャ悲劇を第二次大戦後に再構築する形で国中をさすらうのとは対照的です。どうやらいくつもの側面を持っているらしい

“名無しの老人”と彼を取り巻く黄色い雨合羽の名前も顔も国籍もわからない作業員たちは皆アンゲロプロスが描く国境をめぐる世紀末の御伽話のキャラクターなのでしょうか。

実はこの映画はセリフなどで言及こそありませんが1999年の(当時からしたら)超近未来を舞台にした物語です。ノストラダムスの大予言、千年紀の終わりと始まり、結局は何も起こりませんでしたが世紀末が刻一刻と近づく中で当時緊迫化が進んでいたユーゴスラヴィア解体の動きと後に細分化をめぐり血みどろの内戦と化すバルカン半島を予言したかのような重苦しい空気が漂う移民の村。
そこを案内しながら「一歩踏み出せば異国か死か」と国境線で片足をあげ佇む軍人(これは実際にアンゲロプロスを案内した軍人がそうしたそうです)。

河岸越しの結婚式(IMDbより)

この映画には忘れがたい瞬間、素晴らしいシーンの連続です。国境が通る河岸越しに行われる無言の結婚式、リンチにあいクレーン車に吊るされた遺体と集まってくる人々、政治家の妻役ジャンヌ・モローとマストロヤン二演じる男との橋の上での出会い、アンゲロプロスと名カメラマンのヨルゴス・アルヴァニティスの手腕が光る長回し撮影が醸し出す詩情が強烈に脳裏に焼き付きます。特に橋の上での再会シーンはまるでドストエフスキーの『白夜』の主人公たちが再会したのではなかろうかと思わさせるシーンですが、カットを割らないことによる詩情と緊張感を持続させたい、しかし重要なセリフをジャンヌ・モローが言う所はアップで撮りたいという作家的葛藤のために生まれたテレビクルーの機材を用いたエキセントリックなクローズアップの驚き、今までたくさん映画を見てきましたがこんなシーンは早々できるものでも滅多に観ることもできない真の映画的瞬間です。

この映画に登場する大物政治家かもしれないジャガイモ売りの老人が具体的にどこからの難民なのか具体的に言及されることはありません。しかしこの映画に登場する美しくも儚いエピソードを観てきた観客にはわかるのです、彼は国境線によってズタズタに切り刻まれた世界において精神的な故郷を喪失した魂の難民なのだと。だから私が実際に国境線を目の当たりにし、その不思議な感覚を覚えた時、脳裏にやってきたのです。

この映画が作られて30年以上が経ちました。世界はより一層分断を強めているような気がします。アンゲロプロスも、マストロヤンニももうこの世界にはいませんが、あのジャガイモ売りの老人は朧げで儚げな故郷を求めて今日もまた国境線の彼方を彷徨っているのではないだろうかとふと思います。

文章では触れられませんでしたが、サントラも素晴らしいのです。


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