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お人好しな依頼⑭【エピローグ】

 ウメカが僕たちの事務所を訪ねてきたのはそれから少ししたときのことだった。やたらと急いでいるらしく、ドアから顔を覗かせると挨拶もそこそこに口早に話し始めた。
「下にタクシーを待たせてるんです。だからあまり長居はできないわ。でも、ひと言お礼を言いたくて」
「どこか行くんですか?」
「ええ。拠点をフランスに移そうと思いまして。この足で空港に向かうところなんです」
「そんな急に?」
ルイくんが驚きの声をあげた。
「有名人だった兄の死に私の元恋人が関わってるとなれば、メディアからしたら私は恰好の餌食でしょう。そんなことで世間に名前が知れ渡るのは不本意ですから。それに兄の死をこれ以上面白おかしく騒ぎ立ててほしくありませんしね。以前の留学先なら私も多少は慣れてますから、しばらくはそちらに身を寄せるつもりです」
「そうなんすか……」
「お二人とも、今回は何から何まで本当にありがとうございました。近いうちに遊びにいらしてね」
「そうですね! エッフェル塔を見ながらマカロンでも食べましょ!」
どうやらルイくんのフランスのイメージはエッフェル塔とマカロンらしい。ひょっとしたらそこへプードルを連れているツンとした女性が加われば完璧なのかもしれない。なんだか可愛らしくて僕は思わず苦笑した。
「それは無理じゃないか? ウメカさんの行き先はパリじゃなさそうだし」
「え? じゃあどこに行くんですか?」
「うーん、そうだな。ウメカさん、僕たちが行くときはストラスブール空港まで迎えにきてくれます?」
「え?」
「ウメカさんがいちばん思い入れがあるのはフランスの中でもパリじゃない。フランスの北東部にあるアルザス地方でしょ? きっと留学先はそこだったんじゃないかな」
「なんでそれを……」
「ストラスブール空港? アルザス地方? どこですか……」
スマホの上で指を滑らせているルイくんに「ドイツのすぐ隣だよ」と助言をした後、種明かしをした。
「このあいだご馳走になったタルトフランベ、うまかったんで調べてみたんです。そしたらどうやらアルザス地方の料理らしいですね。そしてその料理に合わせたピノグリ・レゼルブ、あれは言うまでもなくアルザスワインだ。あの日ウメカさんはかなりやつれていた。そりゃそうだ、自分のお兄さんを殺害したのが恋人のアタルさんだったわけですから、頭でわかっていたとしてもショックは大きかったでしょう。故意ではないとはいえね。そんなときに食べられるものとしたら簡単にできて胃に優しいものか、精神的に落ち着けるものかのどちらかでしょう。僕の口で確かめたところ、とりあえずタルトフランベは前者ではなさそうでした。となると有名とは言い難いあの地方料理は、ウメカさんにとって思い入れのあるものであるはずです。だからアルザス地方には相当惚れ込んでるのかなと思いました。ま、でもそれだけでは留学先なんてわからないので、完全に当てずっぽうです。あっはは」
僕の雑な推理にウメカは完全にポカンとしていた。しばしの沈黙の後、ウメカが再び口を開く。
「……いつか本当に来てくださいます?」
「ええ、もちろん。お邪魔させてください」
渡航費さえ用意できればな、と心の中でつぶやく。まとまった金を貯めるなど真人間のような行為がこの僕にできるとでも思っているのだろうか。だとしたら僕という人間を少々買い被りすぎというものだ。一万円貯まればマッカランを買うし、十万円貯まればアランモルトを買う。残念ながら僕はそういう人間だ。
そんなことを考えていたら、ウメカはよくわからないことを言い出した。
「約束ですよ。そのときは最高のヴァン・ド・プリュンヌをご用意しておきますから」
「ヴァン・ド・プリュンヌ?」
「お酒に精通してらっしゃる是枝さんでもご存知ない? 期待しててください。とにかくお待ちしてます。それでは、飛行機の時間がありますので」
いたずらっぽく笑いながら「またお会いしましょう」と短く言うと、ウメカは足早に階段を降りて行った。
「ヴァン・ド・プリュンヌねえ……」
僕は首をかしげた。残念ながらそんな酒は聞いたことがない。行きつけのバーのマスターにでも聞いてみようか……なんてぼんやりと考えていると、しばらくスマホをいじっていたルイくんがいきなり大きな声をあげた。
「先輩! ヴァン・ド・プリュンヌって、梅酒のワインバージョンみたいなやつらしいです! そんなんあるんですねえ」
「梅酒……」
なるほど、これは楽しみだ。ヴァン・ド・プリュンヌとやらが飲み頃になるのと、僕が一人分の渡航費を貯められるのと、どちらが早いだろう。とにもかくにも僕は人生で初めて貯金とやらを決意した。
「先輩、行くんすか?」
「もちろん行くさ。なんたってうまい酒には目がないからね」
ルイくんが何か言いたげにニヤニヤ笑いながら僕の方を見ている。僕は何も言わずにいつもの椅子に腰を下ろすと、そっと目を瞑った。

(おわり)

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