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お人好しな依頼⑬【不幸者の幸い(3/3)】

「ひとつだけどうしてもわからないことがあります」
「何でしょう?」
「どうして僕たちだったんですか? 他にも探偵はたくさんいるでしょうに。それにたとえチサトさんの初恋の人は見抜けても、アタルさんの犯行には気づかなかったかもしれないのに。そのときはアタルさんに遺産を全て渡す可能性だってあったんですよ」
「……そうね、これは正直言って賭けでした。でも私には勝算がある賭けだったわ。是枝さんを選んだ理由ね。まずひとつめは、近くに私を見守ってくれる協力者が欲しかったの。アタルはなりふり構わず兄の遺産を狙うかもしれない。そうなったら女の私は力では勝てません。特にアタルは体も大きいですしね。だから『近くに見ている人がいる、私にやすやすと手を出すな』とアピールしたかったんです。何かあったときに助けてくれるとも思いましたしね」
「でしょうね。そうでもないとわざわざ僕たちを家に招く必要はなかったはずだ。遺品やインタビュー動画なんてデータでも見せられるわけですからね。探偵事務所はすぐ近くだとアタルさんに印象づけたかった、と」
「ええ。それに是枝さんは、私の嘘を簡単に見抜きました。だから是枝さんなら信用できると思ったんです。きっと真実をすべて見抜いてくれると」
「それは光栄です。でも僕たちがあの大男の返り討ちに遭うとは思いませんでしたか?」
「いいえ、そのときは一条さんが守ってくださると思ってました。事務所にお邪魔したとき、素敵なボクシンググローブが飾ってありましたから」
ウメカがルイくんを見てにっこりと笑った。そういえば事務所にはルイくんの趣味のグッズがいろいろ置いてある。ウメカはイニシャルの入ったグローブを見て、ルイくんをボディーガード役に選んだのだろう。いやはや抜け目のない人だ。
「ま、待って。オレ完全に話に置いてかれてる。ウメカさん、嘘をついてたんですか? 先輩は何を見抜いたんですか?」
「私が依頼をしたとき、『兄とは仲が良くなかった』と言いましたよね。是枝さん、それに対して疑うような顔をしたんです」
「え? 先輩………そのときから兄妹仲は悪くないってわかってたんですか?」
「そんなの当たり前だよ。明らかに嘘じゃないか」
「どうして?」
「……藍澤チサトのデビュー作、覚えてないの? ルイくん、映画館でちゃんと三回泣いたんだろ」
「『春告草』でしょ。それが何か…」
「本質が見えてなければ一度も観てないのと一緒だよ。春告草は梅の花の異名じゃないか」
「あ」
「嫌いな相手を小説に書いたりなんかしないさ。ましてや一生に一度しか書けない大切なデビュー作なんかにはね。だからきっと、僕たちに『仲が悪い』と思わせなければいけない理由がウメカさんにはあるんだろうと思ったんだ。実際、そうでもしないと遺産を手放すなんて話には持っていけなかっただろう。チサトさんにとってウメカさんは、初恋の人を奪った憎き恋敵ではなかったんだよ。むしろ大切に守ってあげたい存在だったんだ。違いますか?」
「……その通りです」
ウメカはゆっくりと口を開いた。

 「この件について兄ときちんと話したことはなかったので明言はできませんが……兄が自分自身の違和感と向き合うようになったのは、おそらく高校生のときだったのではないかと思います。兄は自分が同性愛者であることに気づき、そしてアタルのことを好きになった。アタルも兄の変化に気づいたのでしょう。ある時期を境にアタルは、気持ち悪いものでも見るような視線を兄に注ぐようになりました。アタルが高校で『ホモに好かれてる』なんてえげつない話をしているのを耳にしたこともあるわ。幸い、兄は別の高校に通っていたからおかしな噂は流れなかったけど。そんなアタルの本性を知りながら、私はお付き合いを始めてしまいました」
「好きだったんですもんね」
「……はい。私もまた子どものころからアタルに想いを寄せていましたから」
愚かでしょう、と力なく笑うウメカ。しかしもちろん僕は目の前の女性を責める気にもならなかった。アタルはウメカの中ではずっと、「ウメちゃん」を庇ってくれたヒーローのままだったのだろう。
「でも兄が小説家として、そして私が翻訳家としてお仕事を始めてから、アタルはまた私たち兄妹にすり寄るようになりました。私たちのことを人間としてではなく、いわゆる有名人として扱い始めたんでしょうね。もしかしたら金銭的、人脈的な意味でも期待するところがあったのかもしれません。兄は何も教えてくれませんでしたから私にはわかりませんけど……何も教えてくれないということは、私にとって傷つく事実もあったのじゃないかと思ってます」
ウメカは皆まで語らなかったが、おそらく「アタルはウメカと付き合いながらもチサトを口説いたのではないか」という意味だろう。過去に好かれていた実績があるのだから、アタルが「押せばいけるはず」と失礼な期待を抱いていた可能性は大いにある。大抵の男はこういった勘違いをしがちなのだ。
「しかしお兄さんは靡かなかった」
「はい。共通の知人数名と集まることはあっても、アタルと二人で会うことはなかったようです。そのくらい危機感を覚えていたみたい。だから業を煮やしたアタルは、あの日『同性愛者であることをバラす』と脅したんでしょう。そして……」
ウメカは無言でグラスに残っていたワインを飲み干した。
「……私がいけなかったんです」
「え?」
「兄から再三注意されていたんです。アタルはもう昔のあいつとは別人だ、早く別れろって。でも私はどうしても離れられなかったの。私がもっと別の道を選んでいれば、兄は今も……」
「ウメカさんのせいじゃありませんよ」
僕はそれしか言えなかった。もしウメカがアタルをフッていたとしたら、むしろ逆上したアタルがウメカに狙いを定めた可能性だって考えられる。アタルのようなハイエナにとっては、少しでも自分に気持ちがあるウメカは格好の餌食だったのではないだろうか。
「私は料理すら作ってやりたくないくらいアタルを憎む一方で、狂おしく彼に惹かれていました。そして『自分が身代わりになればよかった』と思うほどに兄の死を悼みながら、兄を死へ追いやった男に毎晩のように抱かれていたんです。あなた方にこの気持ちがわかりますか? 哀れで薄汚い女の気持ちが」
「違います。それは違いますよ」
「いいえ。兄だってきっと軽蔑してるわ」
僕は少しの間言葉を選んだ。
「ウメカさん。『春告草』の出だしを知ってますか?」
「『不幸者の幸いというものは……』でしょう?」
「そうです。『不幸者の幸いというものは、他人からはそれと認識されないことが多い。しかし本人に言わせてみれば、まさに我が世の春とも感じられるほどの恍惚なのだ』……これ、何を意味しているかわかりますか?」
「さあ……何かしら」
「もちろんチサトさんが亡くなった今となっては、どんな気持ちでこの文章を書いたのか断定することはできない。しかし僕にはチサトさんの考えがわかる気がします。チサトさんとウメカさんは確か、一つ違いでしたよね」
「ええ」
「僕ね、チサトさんと同じように年子の妹がいるんです。小さいころに親戚とか近所の人とか、身近な大人に会うと必ず言われたんです。『こんなに小さいのに、お兄ちゃんとして頑張らないといけないなんて可哀想ね』って。でもそうじゃないんです。妹って自分を犠牲にしてでも守ってやりたい、かけがえのない存在なんですよ。たとえ歳が一つしか変わらなくても、その子がどんなに自分を困らせてもね。これは妹を持った兄じゃないとわからない感覚かもしれません」
「……」
「チサトさんも同じ気持ちだったんでしょう。周りからどんなに『可哀想ね』と言われても、ウメカさんの存在はチサトさんにとって『我が世の春』とまで思わせるほどのものだったんです。そんなチサトさんが、ウメカさんのことをこれっぽっちだって軽蔑すると思いますか?」
しばし黙って僕の言葉を咀嚼していたウメカは、震える唇をかすかに動かして何か言おうとした。しかし言葉は紡がれず、その代わり紅潮した頬にはらはらと涙が伝う。僕は息を呑んだ。実際に梅がこぼれる様子だって果たしてここまで美しいだろうか。手の中にあるワイングラスにあの涙を溜めて、すべて飲み干してしまいたい。
「美しい……」
「え?」
「いや、なんでもない。こっちの話だよ」
ルイくんは不思議そうな顔で僕を見つめていた。

(続く)

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