織田元子『フェミニズム批評:理論化をめざして』


第1章 フェミニズム批評の理論化をめざして
 1 フェミニズム批評とは何か
 2 女性作家のアンビヴァランス
第2章 現代批評理論批判
 1 〈ジェンダー〉の発見
 2 文学の政治性
 3 忘れられた半身
第3章 文学テクストに性はあるか
 1 女性の「男性化」
 2  テクストのセクシュアリゼーション
第4章 テクストの意味は誰が決めるか
 1 フィッシュ理論とフェミニズム批評
 2 イーザー理論とフェミニズム批評
第5章 文学の規範は誰が作るか
 1 女についての二重の〈真実〉
 2 「あるもの」と「あらねばならぬもの」
 3 文化の欺瞞性
第6章 〈女として読むこと〉の解体
 1 解体される〈女のアイデンティティ〉
 2 新しい〈女のアイデンティティ〉
第7章 英文学史はどう変わる
 1 文学的伝統への疑念
 2 フェミニストによる「対抗英文学史」
第8章 ジョージ・エリオット
 1 文学と私生活の矛盾
 2 聖女コンプレックス
むすび
参考文献
あとがき


ここでは、第6章および第8章の概要をまとめておく。
第6章 〈女として読むこと〉の解体
 1  解体される〈女のアイデンティティ〉

 これまでのフェミニスト・クリティック(フェミニスト批評家)たちの課題が、フェミニストによる「解釈共同体」作りであって、この共同体の内部で〈女性のアイデンティティ〉を確認し合えばそれでよいのだと考えられてきた。しかし、アメリカの文芸評論家であるジョナサン・カラーは『ディスコンストラクション』の中で、こうしたアイデンティティのあり方について問題を提起した。それは、〈女のアイデンティティ〉が相互決定的構造をなしているという点である。というのも、フェミニストが問題としている家父長制的な〈女のアイデンティティ〉から、家父長制的価値に基づかないような〈新しい女のアイデンティティ〉はいつどのような形で始まりうるのかという形の問題設定には、〈新しい女のアイデンティティ〉を創始することの困難と論理的矛盾が残るというのである。ジャック・デリダもあるインタビューの中で同様の指摘をしており、「女というものの、"新しい"概念は始まりかけているのでしょうか」という質問に対して、次のように答えている。

いいえ、かりに本当にそんなものがありうるとしても、あるいは、ありうる可能性が見えていたとしても、そんなものがあるとは私は信じません。個人的にはそんなものがなくて困るとは思えませんね。新しい概念のことをいうまえに、古いほうの概念はちゃんとあるのかが問題ですよ。私が疑問をはさみたいのは、「概念」という語が、厳密に正しく同定できるようななんらかの本質とどのような関係にあるかなのです。この問いはこれに先立つ諸問題にわれわれを連れ戻すことになりますーーーつまり、「概念」という概念、それにこれに伴う概念の全体系が、指示的順列に所属するからです

(Derrida, p.72)

このような言語記号の意味作用の確定性について根本的に懐疑的であるから、〈新しい女〉の概念やアイデンティティを創始するための示唆を求めることはできない。そのため、カラーは「脱構築は、まさしく脱構築の対象となる当の原理を用いるのであって、何らのより高次な論理や原理に訴えるものではない」(カラー,Ⅰ,p.135)と述べている。


 2  新しい〈女のアイデンティティ〉

女たちは、「あるがままの自分」が、家父長制文化の定める「あるべき自分」と同じではないことを知っている。家父長制文化への不適応 ーここから、新しい〈女のアイデンティティ〉が生まれてくる。ベルタランフィは、また、「適応という点から考えたら、創造性は失敗であり病いであり不幸せである」(118頁)と言う。新しい〈女のアイデンティティ〉は、不適応の女たちの「失敗」と「病い」から創造されるべきものなのである。完全な適応からは〈新しいもの〉は生まれてこない。生物の進化は、生物の環境に対する不適応によって推し進められてきた。人間およびその環境としての〈文化〉についても同じことがいえる。自己満足からはなにも生まれない。「自分は女に生まれなくて幸いだった」と思っているような男たちが、女とはなにかを論じる- それが従来の哲学者、文学者、心理学者の女性論だった。男たちは傲慢にもあらゆるメディアをとおして自分たちの欲する「あるべき女の姿」を「女の本当の姿」として押し付けられてきた。「女の本当の姿」は女たち自身の内に眠っている。

p.127

引用文献
Derrida, Jacque. 1972. Position.『ポジシオン』髙橋訳、青土社、1981

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