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ノートと鉛筆を持とうと思った。

2020年6月8日

ノートと鉛筆を持とうと思った。
朝の天気は明るい曇り空。

駅へ向かうスロープを上りながら広場に出るとき、
ノートに鉛筆で詩を書こうと思った。

ジム ジャームッシュの映画「パターソン」を観てから
何度か過ぎった。
ノートと鉛筆を持ち歩く。

かつて、ビートニクス時代の残り香を嗅いで、
映画「シングルス」のウィノナ ライダーの喫煙シーンに
ニコチン欠乏症を患った世代の一葉としては、
映画を観た後に実生活が感化されるのはお手の物なのだ。
我ながら誇らしげなクスクス笑い。

広場から寄贈時計の柱越しにバスターミナルへ抜ける。
駅前は「いつもと変わらず」、
バスを降りた寝ぼけた顔たちが駅に向かって歩いている。
駅前を取り囲む大小のビルたちも寝ぼけているように見えたのは、
もうすでに詩のココロが起き出したからかもしれない。

諍いのニュース映像を見ない日はない。
平和と戦争、正義と損、得と悪、幸福と貧乏、自由と資本。
二項を立し、対価を問われ続ける空気を吸いながら酸欠になる。

とりとめもなく、時間がかかり、柔らかい、複雑なものは、脇に置いた。

ホームで人びとは1メートル程の間隔を空けて待つ。
疎密の関係は、希釈と拡散を誘い、
方位を持たせるため時間を産む。

電車がホームに到着する。
詩のココロは、静かに滑り込んできた。

車窓を通り過ぎる、
鈴生りの枇杷の木が二本。

野生の朝顔で塗り潰された土手の上、
紫陽花の青が滴っている。

乗り換えの駅、
満員のエスカレーターを横目にひとり階段を登る。
疲労感と従属感と無為いっぱいの自動昇降機。
陰翳反転。
両脇の壁は高く、ホームは遠く、
誰もいない階段の踏みしめる靴音に満ちる散乱した陽光。

階段をユラユラ上りながら、10代自詩の一節を思い出した。
思春期の直球。
階段横の排水溝へ捨てられた頽廃や暴力への懊悩。

マスクの下クスクス笑う。
詩のココロが胸の中で発動している。

満員になりかけの通勤電車。
危機とアラートと要請と服従と解除の後に、
変わらない日常が再開された。
仕事場の駅は混んでいる。

エスカレーターがあれば、人びとは乗る。
最短を探す。時短を探す。素早く判断する。
放物線の着地点を計算し、自分を放り投げ、着地させる。
投擲と着地の間は思考を停止させる。

放物線は、最初の半分くらいは上昇で、
後の半分くらいは必ず落下する。

投擲の高揚は、そのあとの下降と着地に裏付けられている。
花は盛りに散る。

今朝、匿名希望者に爆破予告された小学校の脇を通り過ぎ
四角い建物のひさしに守られた扉をくぐり
階段を2階まで登りタイムカードを押して「日常に戻る」。

日常と詩のココロの二項対立。
どちらがノートで、どちらが鉛筆なのだろう。

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