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低投票率について考える

とにかく日本では投票率が低いのです…。
東側諸国のように超高い状態もどうかとは思いますが。


有権者の能力不足

投票権を持つ有権者に対しては、その能力に疑義があります。

計量政治学がもたらした結論のいくつかは皮肉なものだった。例えば、我々有権者の多くは政治に関してほとんど何の知識も無いということが明らかになりつつある。三権分立の三権が何か分からない、自分が「支持」する政党の政策を全く理解していない、憲法は大事と言いつつ憲法の内容を理解していないといった具合で、本来は知識のある自律した有権者が投票するというところに民主主義の正統性が担保されていたのだが、現実には仕組みやロジックが理解されていないのに、形式としての投票だけが擁護されているわけだ。

https://www.newsweekjapan.jp/hatta/2019/02/post-2_2.php

「合理的無知」仮説

rational ignorance

rationalとは理性的、合理的と訳される言葉です。

ignoranceは無知。別に訳すと理性的な無知という矛盾に満ちた言葉ですね。通常の経済学は、人はおおむね常にrationalに行動する一種の超人であると想定していることを想起してしまいます。非常に故事つけくさいです。無知は我々が単なるエイプという衆愚であることの証明だと思います。

「合理的無知」仮説の解説

個別の問題に関して自分の一票が政策に影響を与える可能性が極めて低いのに、問題をきちんと理解するために必要となる膨大な量の勉強をするはずがないという「合理的無知」(rational ignorance)という考え方もある。

https://www.newsweekjapan.jp/hatta/2019/02/post-2_2.php

合理的無知仮説
選挙の左右できる確率がものすごく低いので、合理的な有権者は選挙についてあえて何も考えない、という考え。
政治リテラシーを上げる労力(コスト)とそれによって政治が自分に都合がよくなる可能性(パフォーマンス)を考えると、コストパフォーマンスはかなり悪い。よって政治に関して無知なのは合理的である。

https://daen.hatenablog.jp/entry/20100611/p1

 衆議院は4年に1度、参議院は3年に1度が選挙の原則です。そのために、ヒトは必要な知識をため込もうとはしません。仕事や育児、趣味など、常日頃から接している出来事に関する知識を増やすので手いっぱいですから。政治は、どうしてもなおざりになってしまう。

 これを政治学では、「合理的無知仮説」と呼んでいます。私たちは遺伝子レベルにおいて合理的に判断し、その結果として政治リテラシーの無知状態に入っているのです。

 さらに、有権者は選挙も棄権する傾向にあります。これも「何もしない」ことが、最良の選択と判断するためです。

https://web.archive.org/web/20120804060843/http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090527/195892/

投票に行くのは損!? 「合理的無知」とは何か

ここで意外なお話をしましょう。「頭がいい人の方が、投票に行かない」という説が存在するのです。これは一体どういうことでしょう?

選挙は一人一票ずつ、平等に影響力を持ちます。

でも、これって逆から考えると、自分の票が与える影響力は有権者全体の数十万分の一、数百万分の一に過ぎないということでもあります。つまり、自分が投票しようがしまいが、結果はほとんど(全く)変わらないのです。

それならば、投票やその前後の移動にかかる時間をアルバイトや勉強や趣味に使う方が、自分にとってのメリットは大きいですよね。政治について勉強するのもコスト・パフォーマンスが悪いです。当てずっぽうで投票しても、しっかり分析して投票しても、どちらも同じ「一票」なのですから。

つまり、合理的に損得勘定をすれば、政治に関わるのは「損」なのです。これに基づけば、自分の利益を最大化するために、人々は政治について学ぶのをやめてしまうのです。このことを「合理的無知」仮説と言います

https://bridgeschool.hatenablog.com/entry/2016/02/05/173000

こういう意見も

既存の政党政治が機能していない状況にあり、かつ、政党によるご都合主義的な立候補者選定では、投票をしたい政党のみならず、候補者もいないという状況が、都市部かつ若年の選挙民の偽らざる心境ではないか。つまり、投票したい政党や候補者ではなく、より投票したくない政党や候補者を避けると言う、まさに、積極的支持ではなく、最悪を避けたいという消極的な支持でしかない政党や候補者に投票をするのである。これでは、投票率が上がらないのは無理もないであろう。

https://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/6_b_3752374.html

「この時代の国政選挙で、一票差で決まるなんてことはほとんど想定できないし、しかも世論調査も発達しているから結果もだいたいわかる。

あえて言い切れば、選挙での一票の価値は、言われるほど重くはない。

それなのに、普段、政治の話なんてしていないのに、選挙になったから突然関心を持て、と言われる。

「主権者として!」とか「有権者なんだから!」目覚めろと言われても難しいですよね。」

「参院選が3年に1回、衆院選も平均して2年半に1回行われている。2〜3年に1回は選挙をしているんです。

でも、いまの時代の大きな課題、例えば原発をどうするか、格差をどうするか、地球温暖化をどうするかといった大きな問題は、2〜3年で結論がでる話ではないんです。

選挙というのは実質2年〜3年の間の大まかな方針を決めるという程度のものでしかない。

だから、一票はそのおおまかの方針を決めるためにつかうもの。

重すぎず、かといってと軽くみすぎる必要もない。」

https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/yoshida-toru

投票率が高い国

一部の西側諸国では投票率が高いには確かです。でもどの国も日本より人口がはるかに小さいのです。人口の多い日本で教育をがんばってうまくいくかどうか…

投票率80%のオランダに学ぶ(3)「日本の投票率が低いのは当然」 国民の政治意識を高める方法はhttps://go2senkyo.com/articles/2022/12/20/74557.html

人口が多い国ではデモクラシーが困難?

デモクラシーはもともと人口が少ない国家の制度でした。
日本は人口多すぎです。

「問題はいかなるデモクラシーが望ましいかではなく、デモクラシーが正当化される範囲はどこまでか、ということなのです。そもそもデモクラシーが成立したポリスの時代、住民の人口は多くて20万人程度でした。

つまり、デモクラシーは20万人の住人たちが自治をするために使われた制度なのです。また直接民主制を主張したルソーの時代もジュネーブの人口は2万4000人でした。もしアテネ市民やルソーが現代の何億人もの人口を統治する間接民主制を見たら、おそらくこれはデモクラシーの名に値しないと言うでしょう。少数の支配者が「代表」というフィクションの下に腐った運営を行っているだけで、そこにはデモクラシーの使用環境である住民自治がないからです。

よって20万人程度の地域共同体だとデモクラシーは妥当すると思います。今はテクノロジーが発達してネットを使って意見の集計とかもできるので、もう少し多くても大丈夫でしょう。よって30万人くらいなら、デモクラシーは妥当します」

デモクラシーの使用環境――イアン・シャピロ「民主主義理論の現在」がすごくないhttps://daen.hatenablog.jp/entry/20110109/p1

デモクラシーのベイシス


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