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ミッキーマウスは概念です

学生時代、「倫理」の授業が大好きだった。
昔の人がいろんなことで悩んで、それに対する答えを必死に探したり、形のない「概念」を言葉で説明しようとしていたり。
昔から人は同じなんだな~と親近感がわいたし、なんだかロマンを感じたものだった。
大人になった今でも、そのときに習ったことを思い出すことがよくあるし、結構大きな影響を受けてるな、と思う。
先日も、それを実感するできことがあった。

◇ ◇ ◇

先日、家族でディズニーランドに行った。
独身時代は頻繁に行っていたが、家族で行くのは初めて。
コロナでずっと行けなかったこともあり、数年ぶりの念願のディズニーである。
長女が「ミッキーと写真撮りたい!」と言うので、私たちはミッキーと写真を撮るための列に並ぶことにした。
並びながら、私はあるエピソードを思い出していた。



それは、私が高校2年生のとき。生まれて初めてディズニーランドに行った私は、パレードで踊るミッキーを一目見た瞬間、その圧倒的なオーラ・カリスマ性の虜になってしまったのである。
行く前は正直、ディズニーランドは子どもが行くところだと思っていたし、ミッキー?着ぐるみでしょ?みたいな冷めた目でみていた。
ところが。実物のミッキーの眩しさといったら。
生き生きと踊るその躍動感、後光が差しているかのような輝き、見るものを包み込むような包容力……。

すっかり「ミッキーフリーク」になって帰ってきた私は、友人たちにその想いの丈を語りまくった。生で見るミッキーがいかに素晴らしいか、どれほど輝いているか……熱く語る私に、1人の友人がこう言い放った。

「でも、ミッキーって着ぐるみやで?中に人入ってんねんで?」

違う!!!

……いや、違わないんだけど、でも、そうじゃない!

もちろん私も、まさかミッキーマウスという生物が存在しているなどとは思っていない。着ぐるみだということもわかっている。
でも、実際にミッキーを目の前にすると、そんなことは忘れちゃうというか、どうでもいいというか……ああ、上手く説明できない!

私は友人に上手く反論できず、もやもやした想いを抱えたまま会話が終了した。

そのもやもやは、後日、意外な形で解決した。
その日、倫理の授業で古代ギリシャの哲学者・プラトンについて習っていた。先生がプラトンの唱えた「イデア論」について説明している。

「プラトンは、現実とは別の世界に『理想の存在(イデア)』があると考えました。私たちは、現実の世界で何かを見たとき、無意識のうちにそれの『あるべき姿』としてイデアを想起しているのです……」

それを聞いた瞬間、「これだ!!!」と閃いた。

つまり私達はミッキー(の着ぐるみ)を見たとき、無意識のうちに「ミッキーマウス」という概念を想起しているのだ。
目の前にいる着ぐるみを見ながら、ウォルト・ディズニーによって命を吹き込まれた、あの「ミッキーマウス」という概念に恋い焦がれているのだ。

つまり、ミッキーマウスは、『概念』なのだ。

真理に到達した私は早速、ミッキーを着ぐるみだと言い放った友人にドヤ顔で熱弁した。
しかし友人の反応は

「え???あ、ああ……そう…………」

という微妙なものだった。私は何だか肩すかしを食らったようで、ガッカリしてしまったのだった。

そんな甘酸っぱい(?)記憶を、ミッキーに会う列に並びながら思い出した。
ミッキーに会うまでにはまだ少し時間がかかりそうだったので、私は隣に並ぶ夫にその話をしてみた。

「え???あ、ああ……そう……」

という、かつての友人と似たような反応が夫からも返ってきた。

◇ ◇ ◇

こんな感じで、倫理で習った昔の人の考えは、私の中にわりと深く根付いている。
ちなみに、高校2年生の私が辿り着いたこの真理は、自分でいうのもアレだがかなり的を射ているのではないかと思っている。
まあ、なかなか人には理解してもらえないけれど……。

初めて会うミッキーに目を輝かせていた娘たちが、もしもいつか悲しい顔で

「ミッキーって中に人が入ってるの?」

と聞いてきたら、きっとこの話をしてあげよう。
そう、心に決めたのだった。

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