文化遺伝子操作

人の考え方。私はマジョリティに割と普遍的なものの考え方にはほとんど疑問を持っている。反対しているとか、私こそが正しいのだと主張したいわけでもなく、相手がどう答えるかこちらには予測がつくのにこちらの言うことは説明しないとわかってもらえないというところに苦しさを感じている。子どものころは「奇人変人」と言われて喜んでいたが、これから学校を出て仕事をして、他人と同じ家庭に一人前に所属して生活をしていく上でこういった困難が思ったよりも冗談じゃなくなってきた。

「人の考え方を変えたい」

こういうことを子どものころに親に言って危険視されたことがある。
「他人がどう思うか、どう感じるかを制御しようとするなんて思想の自由を奪うことで、それは戦争や独裁政治につながる考え方だから改めなさい」と言われた。他人や大衆を自分の思い通りにしようとするなんておかしい子だ、と。自分が大人だったらもっと話を聞こうという姿勢を示すのにな、と思ったが家事や仕事であわただしいから仕方がない。どう思うか、どう考えるか、社会の仕組みに沿って日々をこなしていきながらも不満を持ってかえていくには大きな原則には逆らわないほうが無難だし、そのほうが小さな変革や商業的な価値創造はしやすくなる。楽しく幸せに暮らしたいと願うほとんどの人は、わざわざ苦しむために大きな壁の向こう側があると信じてそれを打ち壊しになんか行かないだろう。自分だってしたくない。

でも、ずっと向こう側へ行きたかった。砂場を100m掘ったら化石が出てくるのか。巨大クワガタやタキタロウ。紙飛行機は上空に消すことができるって本当か?10000連射の輪ゴムマシンガンが欲しい。危ないかどうか、嫌われないかどうかよりも、やりたい衝動が勝っていた。将来の安泰や幸せのために我慢するくらいなら一文無しになったほうがまだましだ。

12歳の時に本当に紙飛行機を上空に消すことに初めて成功した。みんなが見守る中で僕の投げ上げたコピー用紙の機体はサーマルに乗って校舎をはるばると超え500mあまり上昇。そして視界から完全に消えた。「視界没」を通じて地球のすごさを身をもって感じた。僕はそれから何度かそれに成功したが、うまくいく時がだいたい肌感でわかる時もあった。人の思考や認知の可能性は、僕たちが思っているよりも、心理学の実験で示されることに閉じ込められたりはしない。「判明」はいつでも後からついてくる。私たちのすべての思考の「〇〇である」は「○○かもしれない、○○したい」に先立ったりしない。全ての誤解や疑念の余地を取り去った潔癖な概念操作でさえ、行為の次元ではその不完全さから逃れることができない。

ビジネスや政治の現場で人に影響力を与えるリーダーに向いていないことは初めからわかっている。これは「そう判明している」のではなく、わざわざ能動的にそういうポジションを狙おうという本能衝動が起きないという意味だ。仕組みを変えることで人が変わるというのも大人の世界に片足突っ込んで法的責任を負う身になってからは薄々感じてきたが正直上から決まりを変えるなんて相当なポジションにまでいかなければならないし、数多の民たちの可能性を見くびった「俺⇔世界」的な考え方だから嫌いだ。

正解を当ててそこに落ち着くのではなく、自分で思考軸を組み替えて予測不能性、共感・理解不能性を受容するための哲学的な教育を行わないと
道徳的判断をお家から出さないと
人肉食ってた孔子を国語・道徳教師が絶賛するだけでは
最近の子はどう教えてよいかわからない。そんなの誰だってわからない
とりあえず、高校受験はいいとこ行かせて、大学だけは出てもらって
義務教育+実質義務教育があるのはなぜですか?なぜ概念操作スキルと同年代の友達と社会経験だけではダメなんですか?
「なんだかんだで学校でできることは価値を持っているんだ」というメカニズムの背後には長いものに巻かれる安心感と日本的コミュニケーションの特異性があることに気づいてください。文章を読んで批判しろ。全部書くのはここではめんどくさい。

一つの言葉の意味をしっかりと習い、言葉をある程度共通の使い方で用いるのはなぜか。文化に再現性を持たせるためだ。あらゆる物や人が流通、流転する社会生活のクォリティを上げて全員の生活レベルを上げて何らかの方法で対話できるようにしないと随所で気色の悪い価値の逆転が起こるし何千年も起こり続けているのに僕も含めてそれを保身のために忘れる。統計に数えられなかった数十万人は、数人は、度外視された3~4σの外の人たちは「誤差」では許されない。私やあなたと同じ重さの宇宙を背負っている。

ヒーローになるんだね。頑張ってください。ほかの人の人生を、宇宙をほぼ丸ごと背負うような「親」という属性の人間に僕はまだなれる気がしない。
説得力がない。説得している間に何人死ぬ出向いて出向いて助けに行っている間に何万人助けられる?

意気込んでいるだけのクソガキだとは自覚している。
絶対に何者かになりたい、普通に生まれて死んでいくだけでは嫌だ。
自己実現欲が強すぎて神に承認欲求を求めるようになってしまった厨二病末期患者トハコノワタシノコトダ。

毎日家にいたずらに入られて困っているおばあちゃんが愛大で集合論の入門を学んでいる僕のところに助けを求めて来てくれた。警察は10年間もまともに取り合ってくれない。日本の法的機関は証拠がないと動かない。私が動きたいとはほとんど誰も言わないから僕が行って監視カメラを仕掛けたり毎日2時間くらい夜警をしたりした。警察も全員が暇人ではないのはわかっている。でもなぜ!?周囲の人に警戒を呼び掛けたら、下手に出ているのにくそおやじに通報されかけた。いかにも体育教師みたいな面しやがって。若者に慣れとんねんな。繊細なアーティストめがけて怒鳴ってきやがって。いいおっさんが急に話しかけられて恐れを感じるのはなぜか。引きこもっているのが当たり前。自分はかかわりたくない。一人暮らしのお年寄り。全員が気を付けてあげたほうが効果的だというのがどうしてわからないか。

「なんで俺に言うねん!」

「誰でもええから数稼ぎたいんですわ。そんなに嫌ならあんたに用はありません」

「自分のことばっかり考えていきトンちゃうぞごらあ!!」

高らかに洗礼を浴びせてやった。男っぽく威圧するのは戦争の元凶であるマチョイズムを肯定することになる。避けるか、戦うか。大人が戦うときは恐れを制するために「覚悟」をもってしまう。個人を閉鎖系としてとらえてしまうから、折れない剣で最後まで戦ってしまう。それが侍の美意識かなんか知らんけど、もっと理系的に考えろ。折れる剣をしょっちゅう抜くほうが最悪の事態を免れられると思わないか?


「あんなのはめったにおらん」というそのおばあちゃん。僕は面倒見がいいからかそれが気になってしまうのがいまいち自分の思想が似合うほど図太くなれないところなんかな。それは「若さ」なんだとおばあちゃんはいう。住んだり訪れたりした国は多くとも、出会ってきた人の数はたかが知れている。それに自活を始めてから3年余りしかたっていないから大人としては3歳だ。しかも親やパートナーに介助されて生きているから半人前未満だ。昨日も人んちのレンジでチンしてはいけない中華そばのパーケージをしわしわにしたし。

有史以前から誰かを置いていくことはずっと行われてきたことだ。それを仕方ないという人もいるけれど、僕は私生活であらゆる社会的弱者を実践する俳優になって断固それに反対し続けてきた。お勉強してモノ言うだけにはなりたくなかったし、それっぽいことを言って人を説得するのはハナからお手の物だったからだ。でもそんな大人を僕は嫌う。

こんなに情報とストレスがあふれた社会関係で多様性を承認するためには全員が精神的引きこもりになって余剰エネルギーをマイワールドで排熱させるのが善策なのはわかっているし

ほかの人の生に干渉している暇や元気もないし義務もないだろうし

次々情報が更新されてもうこれ以上新しいことなんて覚えていられないくらい頭がパンパンなのも察するけれど


みんなほっといてほしいんやろな。「自分らしく」「自分の家らしく」「うちはうち、よそはよそ」で生きていきたいから「多様性の理解」になんて力を注ぐはずがない。共感的に理解しようとする姿勢には敬意を感じるけれどじゃあほかの動物やへき地の部族の意味不明な習慣や習性に対してそれがどれだけ適応可能かということまで教えるのが本当の学校の、教育の役目なんやないんかな。経験を超えたこと、はたまた人知を超えたことへの可能性を閉ざさないようにする知性を教えるのでなかったら学校には「思い出」と溶け合わない無味乾燥とした記号操作の苦行に耐えた証と口をついて出るダジャレのような言い回ししか残らないんじゃないかな。

ああ、美談美談。それでいいんだよ。学生は。
わかったような顔で言うね。説得力はあなたが「幸せに生きていること」ですか。
戦争が起きてどうしようもなくなって、日本というシステムが機能不全に陥っても、何とかかんとか息を吹き返すでしょうね。禅の国は。

現に自然と人の流動的関係とロゴスを切りはなして扱えてないやん。フォークとナイフで飯を食う国と同じ方法で文化遺伝子操作をしてうまくいくはずがないと、みんなどっかで無意識に感じているし和魂洋才っていう美味しそうなメニューまで提案しといて結局へっぴり腰で小手先の記号操作しているだけ。

もうほんとに西洋式教育なんかいらんのやない!?
哲学嫌いです。もともとそんなこと思いませんし疑問も持ちません。
社会に文句言うやつは負け犬と圧倒的勝ち組だけです。民主主義はいいけど議論はいやです。多数決でみんなが納得すればそれでいいです。決まったことには 「いいでーす!!」一人だけ「反対です」(小4の私)「えーーー!」この時からリテラシーは何も変わっていない。作文能力は小6以降変わっていないと自認している高3がどれだけいたことか。彼らに責任はない。意見するな、自己主張するな。それが社会人になるということだ。一人前にやってみてもいないのに理想ばかり掲げていても何も変わらない。

子どもの権利は?年寄りや障碍者は「生産性」がないから小さく、申し訳なさそうにしていなければならない?

もう民主主義国家とか自称するのはやめよう。
アカデミック専門職の人以外はどれだけ偏差値の高い学校を出ても、独学で言語的思考・批判センスを磨いても「なんもわかりません。働かずに頭でっかちに暇をつぶしていました。口しか動きません」と就活や選挙で言おう。

ってなるやん?

だって企業が即戦力を求めなければいけないほど社会生活相の変遷が早いから、働きながら身に着けるのでもいいことを学校で習っているだけ。

保持する知よりも 対応する知を もっとじっくり学んだほうがいい社会が作れると思う。帰国子女でも、院生でもせっかく学んだことが大衆ベースの商業社会では単なる個人の趣向性になってしまうのならば簡単で深くて重要なことと向き合い続けることをもっとちゃんと文化遺伝子操作しないといけない。

変な遺伝子改造するくらいなら、もっとおいしくて安全な改造しようや!?

(ここはお酒を頼まなくてもいい飲み屋です。ノンストップで思いつくことを書き出した掃きだめなので作品として出版するときは後から大幅に改修します。)





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