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【短編小説】変わらないもの

 洗濯かごからワイシャツを拾い上げると、何かが床に転がり落ちた。

 床のほこりを絡めとりながら脱衣場を転々としたのは丸まった黒い靴下だった。ワイシャツを見ると袖が内側に入り込んでいる。

「ちょっと。洗濯に出すときは靴下伸ばしてっていつも言っているじゃない。ワイシャツも脱ぎっ放しにして」

 リビングに向かって声をかけると、

「そうだったかな。次は気をつけるよ」

 夫ののんきな声につい口調が荒くなる。

「何回も言っているでしょう。それくらいちゃんとしてよ」

「大きな声出さなくてもわかっているよ。次は大丈夫だって」

 根拠もなく夫がそういうのは何回目だろうか。もう今日は洗濯をしなくていい。私は靴下を拾い上げてワイシャツと一緒に洗濯かごに投げ戻した。


 夫は昔から変わらない。何度注意しても覚えられない。洗濯物をそのまま脱ぎ捨てる。仕事から帰ると汚れた服でソファーに座る。トイレだって立ったまま用を足すから、困るのは掃除をする私である。

 結婚したばかりの頃は、夫も努力しようとしていたように思う。だが、元来細かいことを気にすることが苦手なのだろう。

 すぐに約束したことを忘れて、「そんなこと言っていたかな」「覚えていないな」「次はちゃんとするから」である。

 娘の誕生日だって私が教えなければ忘れている。結婚して十年も経つとそうした夫の性格にも諦めも出てくる。

 リビングでは、グレーのスウェットに身を包んだ夫が三人掛けのソファーの端に陣取り、テレビを見ながら晩酌をしていた。夫の横に座りながら、

「あなたは楽しそうでいいわね」

 言葉に力が入ってしまう。

「なんだよ。今日くらいいいじゃないか」

 顔をしかめる夫。

「何が今日くらいよ。いつも……」

 そこまで言ってふと気づく。夫が晩酌をしているのはいつ以来だろうか。

 思い返してみると、ここ数か月は見ていなかった。以前は、同僚と飲みに行っては、ヨレヨレのワイシャツを量産していたのに、最近は妙に帰宅が早かった。

「そういえば最近飲んでいなかったわよね。何かあったの?」

 実は健康診断で引っかかったとか?

「いや、別に何かあったわけじゃないんだけど」

 そっぽを向いて視線を合わせようとしない。夫が嘘をつくときは、いつも私の目を見ようとはしないのだ。

 これは何かあるなと思い、じっと見つめていると、「ああもう」と、夫は自分の体とソファーの隙間から長方形の箱を取り出し、いささか乱暴に手渡してくる。

 二十センチメートルほどのブルーの箱に、白を基調としたシルバーの縁で彩られたリボンが結んである。

「開けてみなよ」

 促されるまま箱を開けると、そこには銀色のネックレス。

「言ってたろ。十年目の結婚記念日はこれが欲しいって」

 その瞬間、脳裏に一緒に婚約指輪を買いに行ったときの記憶がよみがえってくる。

 いつもは入らないようなきらきらと華やかな店舗に緊張しながら入店したこと。

 店員から希望を聞かれてうまく言葉が出ずに恥ずかしかったこと。

 慣れない雰囲気に疲れ、帰り道に、「ああいう店は一生に一度でいいね」と笑いあったこと。

 夫が顔を赤くしながら、そっと指輪を左手の薬指にはめてくれたこと。

 そういえばそのときに、「十周年はネックレスがいいね」と話したんだっけ。

「ありがとう。よく覚えていたね」

 私は忘れていたのに。

「ふつうだってそんなの。十年間いつもありがとう。これからもよろしく」

 左手を頭の後ろに持っていき、やや左に顔を傾けながら早口に言葉を紡ぐ。

 十年という月日を経て、髪の生え際は後退し、体形も以前よりもふくよかになった夫であったが、照れ臭いときに後頭部の髪を掻く姿は、昔の夫を思い起こさせる。

「ようし。じゃあ、先に寝るね」

 洗い物をシンクに片付けた夫は、晴れやかな様子で寝室へと向かった。
 

 夫は昔から変わらない。

 言葉が足りないし、自分で言ったこともよく忘れる。

「結婚記念日は来月なんだよね」

 やっぱり記念日もきちんと覚えてない。

「まったくもう」と口にしながら、ネックレスを箱から取り出して掲げてみると、リビングの照明を反射した柔らかい光が、私の視界をいっぱいにした。

「おこづかいも少ないのに無理しちゃって」

 表情が緩むのが自分でもわかる。来月はペアのグラスでも用意しようかしら。私の単純なところも、昔と変わっていないのかもしれない。

 銀色に輝く新しい思い出を優しく箱にしまい、すっと私は立ち上がった。

 脱衣場へ向かい、洗濯かごの丸まった靴下をまっすぐに伸ばして洗濯槽へ。

 スイッチを押すと、洗剤と水が混じり合い、洗濯物の汚れをとかしながら、甘い香りを脱衣場いっぱいに広げていった。

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