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『夢の浮橋』と谷崎の嘘

 谷崎潤一郎の『夢の浮橋』を読んだ。
 読後感。シンプルに気持ち悪い。そしてやっぱり谷崎は素晴らしい。

第1 雑感

 小説の冒頭部分、作者は、読者を騙そうという明確な意図を持ち、語り手の幼少期を牧歌的に描写している。
 幼い頃の実母との思い出、日本家屋と庭園の精緻な描写、おまけに日本家屋の柔らかい挿絵がところどころに登場する。殊に、庭の添水の描写は、長閑で美しい幼少期の記憶の象徴であるかのように、読者に思わせる。
 これら描写のせいで、読者は物語の前半では、この物語が『母を恋ふる記』のように、谷崎の母に対する愛慕の念を作品化したものなのだろうと、作品の読み方のスイッチを入れる。
 そして、そのせいで、作中の語り手が行った、語るべき事実の意図的な取捨選別や嘘から生じる違和感を見逃してしまうこととなる。
 見逃された違和感は、物語終盤で見過ごせないほど大きくなり、この小説の世界観の異常さに読者はようやく気づくこととなる。

第2 違和感の正体 ※本稿の以下の記述は、ネタバレになるので、ご注意いただきたい。


 本作品には、現実世界では考え難い違和感がいくつかある。以下、その点を挙げていく。

1 幼少期からの母の乳を吸う場面
 ⑴  5歳の場面
 語り手の話によれば、彼は、5歳で実母の乳を吸っていた。そしてこの事実に対して語り手は「その頃は離乳期と云うことを喧しく云わなかったからか、私は可なり大きくなるまで乳を吸っていたように思う。」と弁明をしている。読者はこの弁明のせいで、「彼自身も、現時点から振り返れば幼少期に乳を吸っていたことは、恥ずかしいことである、と思っていることから、この語り手は常識的な人物でなのであろう。」と刷り込まれることになる。
 「5歳で実母の乳を吸うのことは、気持ち悪いけど、あり得ないことではないのかな。」と。その結果、読者は最初の小さな違和感を受け入れてしまう。
 
 ⑵ 9歳の場面
 その後、物語中盤になり、語り手が、9歳で継母の乳を吸っていたことがわかる。9歳という年齢で、しかも実の母親でもない女性の乳房を吸うことは、当然現代ではあり得ない。しかし、「この語り手は常識人である」と刷り込まれ、かつ「谷崎のエロティックな描写はいつものことだしな」と、谷崎の今までの作品群からも刷り込みを受けてしまっている読者は、ここの違和感も素通りしてしまう。
 「9歳で継母の乳房を吸うなんて気持ち悪くて、現代ではあり得ない。でも、明治時代ではあり得たのかな」と。

 ⑶ 13、14歳の場面
 物語終盤。語り手は、13、14歳で継母(25歳、26歳)の乳を吸っていたことを明らかにする。
 この段階になると、読者はこの物語が語り手の牧歌的な幼少期を振り返っているものではないことに気付かされる。「このような出来事は、明治時代でも絶対にあり得ない。」と。
 そして、17歳になる頃に、妊娠した継母の母乳を盃に入れ、語り手が母乳を口に含むシーンでは、読者の中の「常識」が拒絶反応を示すようになる。

2 後妻(語り手の継母)が前妻(語り手の実母)の名である「ちぬ」と呼ばれることを受け入れたこと
 もう一つ、本作品の大きな違和感を挙げるとすれば、それは後妻の人格的個性が一切見えないということである。
 語り手の実母の本名は、茅渟(ちぬ)というのだが、実母は、語り手が数え年の5歳の年に23歳で亡くなり、その2年後に語り手の父は後妻を迎えることになる。
そして、語り手の父は、この後妻を前妻と同じ「ちぬ」という名で呼ぶようになり、後妻もそれを受け入れる。
 その結果、語り手の母への記憶は、実母の記憶と継母の記憶とが混在し、両者の境界線は曖昧なものとなり、実の母への愛情と、性愛とが混ざり合った世界観が出来上がっていく。
 その世界では、個人の、特に継母の人格的個性は皆無である。
 

第3  作者の構成力の巧みさ

1 語り手の情報の取捨選別
 本作では、物語終盤になり、継母が妊娠したという事実が告げられる。そして、私が上に摘示した事実からは、このお腹の中の子どもの父親は語り手なのではないかと考えるのが通常である。しかし、本作は、作中の語り手の説明の順序や、情報の取捨選択により、読者は、継母の妊娠の事実を知らされた直後に、そのような推測することはできない構造になっている。
 ⑴ 語り手が秘匿している事実
 物語終盤、語り手は、「ここに記すところの全てが真実で、虚偽や歪曲はいささかも交えてないが、そう云っても真実にも限度があり、これ以上は書く訳にはいかないと云う停止線がある。だから私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはしない。」「真実の全てを語らないことは即ち虚偽を語ることである、と云う人があるのなら、それはその人の解釈のしようで、敢えてそれに反対しない」と記述している。
これを意訳すると、本作の語り手は、「情報の出し入れをしているが、出した情報に虚偽はない」、すなわち、「隠している情報がある」ということになる。
この語り手の説明により、読者は、それまで漠然と抱いていた本作の違和感の正体に気付かされる。その違和感とは、事実の秘匿であり、秘匿された事実とは、語り手と継母との関係が乳房を吸う関係では終わらなかったということである。
⑵  語り手の嘘
 更に、作中語り手は、この話には、「虚偽や歪曲はいささかも交えていない」と述べた上で、「二十年間一人息子で育って来た私は、初めて兄弟を持つことが出来るのを、どんなに喜んでいたか知れないのであった。」と語り、継母の妊娠を素直に喜び、妊娠した子がすぐに里子に出されたことを不思議がっている。しかし、ここはあまりにも不自然である。乳房を吸う関係では終わらなかった女性が妊娠したにもかかわらず、その子が自身の子なのではないか、と考えない者はいない。
 本作語り手は、「虚偽や歪曲はいささかも交えていない」と述べていながら、その主観面については明らかに嘘をついている。
 

2 本作の構成
 本作において谷崎は、①物語前半部で、語り手の幼少期を牧歌的に描写することにつとめ、②継母の妊娠 を語らせた後に、この話には隠された事実があること示し、なおかつ、③語り手の主観面について、語り手に嘘をつかせている。
このような語りの構造にすることで、谷崎は読者の「常識」を前提に物語をミスリードさせ、物語終盤に、読者の「常識」が作り上げた作品の世界観を崩壊させることに成功している。
 

第4 素晴らしく気持ち悪い幻想世界

 この作品は生身の人間の内面や、その葛藤等を炙り出すことに主眼を置いておらず、人間はあくまでも幻想的で気味の悪い世界を構成するための要素に成り下がっている。
 その結果、人間がモノ化され、現実感のない存在として描かれることになるのだが、それはそれでいいと思う。なぜならこの作品の主役はタイトルに含まれている「夢」、つまり幻想世界だからだ。
 ここでは語り手も、実母も継母も全ては幻想世界を作出するための道具に過ぎず、その結果、素晴らしく気持ち悪い幻想世界が構築されることとなる。
 そして、この素晴らしく気持ち悪い幻想世界は、僕が普段何に対して「当たり前」「普通」という感覚を抱いているのかをまざまざと目の前に突きつけてくれる。


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