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「支援」ではなく「理解」を 不登校の子どもたちと向き合うために

不登校の子どもとの出会い

「学童でも放課後等デイサービスでもない、もうひとつの放課後の居場所を作りたい」と思って、放課後キャンパスクラブの活動を立ち上げました。しかし、実際に活動を始めてみると、不登校の子どもたちに会う機会が多くなりました。

ここで、近年の不登校児童生徒の状況について少し解説します。文部科学省が令和5年10月に公表した令和4年度の小・中学校における不登校児童生徒の数は299,048人で、過去最多となり、10年連続で増加しています。出生数の減少にもかかわらず、不登校の子どもたちは増え続けており、これは社会問題と認識されています。この状況は、僕が関わっている発達障害の子どもたちの増加傾向と似ています。

出所:「令和4年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」をもとに著者作成

不登校の子どもたちとの出会いが増えるにつれ、彼らについての思いも深まります。そこで気になるのが、「不登校は悪いことなのか?」という疑問です。僕自身、学校に行くことが望ましいと思っていますが、その具体的な理由については深く考えたことがありませんでした。僕自身は内気で泣き虫な子どもで、たまに友達にからかわれることもありましたが、幸いにも学校に行きたくないとは思いませんでした。もちろん、当時「何で学校に行くんだろう?」と深く考えるタイプの子どもでもありませんでした。

社会的には、高校生まで学校に通うのが一般的です。そのため、学校に行かない子どもは、しばしば大人から無意識のうちに問題児と見なされがちです。多くの大人が「不登校の子は学校に通えるように支援すべきだ」と考えますが、僕はそれに違和感を感じています。たとえば、僕が接する不登校の子どもたちは「担任の先生がウザい」や「校長が嫌い」と、教師との良好でない関係を理由に挙げることがあります。文部科学省の調査結果と、僕の経験では不登校の原因に違いがあります。確かに、僕の体験は「N=母数」に違いがあるため、信ぴょう性に欠けるかもしれません。しかし、それにより少数の意見が軽視される危険もあるため、自分の体験と感じたことを大切にし、その違和感の真実を追求したいと思います。

出所:「令和4年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」をもとに著者作成

学校に行きたくない。その気持ち、理解されていますか?

日本の不登校問題は、厳しい勉強のプレッシャーや人間関係の問題、そして「周りと同じでなければならない」という文化的な圧力が原因で起こっています。子どもたちが学校に行かない理由は、単に学校が嫌いだからではなく、これらのストレスや圧力が積み重なっているからです。この問題に対処するため、代替教育の場や心理的支援も提供されています。

多くの大人たちは「学校に行きなさい」と言います。僕も子供の頃は、何の疑問も持たずに学校に通っていました。そして、「何で学校に行くんだろう?」なんて考えたこともありませんでした。しかし、時代が移り変わり、それに伴い人々の価値観も変わってきています。今の僕は「毎日学校に行く必要はない」と考えています。

では、なぜ大人たちは子供を学校に行かせたがるのでしょうか?それは、日本で小学校と中学校が義務教育とされているからでしょうか。それとも、自分も子供の頃に学校に通っていたから、それが当たり前だと思っているからでしょうか?僕の答えは、「学校に行くのは当たり前だと思っている」という、はっきりしない価値観を無意識に受け入れている社会の状況です。これが、子供を学校に行かせる大人のこだわりにつながっています。

また、子供は親の言うことを聞くのが当たり前とされる風潮もあります。これが時に、無理矢理にでも子供に言うことを聞かせようとする大人の姿勢を生むこともあります。「言うことを聞かないなんてもってのほかだ」という強い口調で、思い通りにしようとする姿勢が見受けられます。おとなしい子供はいい子で、うるさい子供は問題児だと捉える傾向にもつながります。

「学校に行けない」だけで、なぜ問題児なの?

大人は時に、自分たちが価値観を子どもに押し付けていることに気付かないことがあります。よく言われる「良かれと思って」や「あなたのために」といった子どもへの介入は、善意からの行動なので余計にことをややこしくしています。そして、それは子どもにとっては狂気でしかありません。

たとえば、自立支援と称した施設があります。有名なのが長田塾(長田寮)で、その方法は問題行動を繰り返す子どもたちの自宅をスタッフとともに訪問し、本人と親を罵倒し、時に暴行をそそのかし、強引に入寮させて労働に従事させる「矯正」というものでした。後に、元寮生から暴力的な処遇とプライバシー侵害に関して提訴され、裁判で敗訴しています。

なぜ子どもたちは「不登校=問題児」のレッテルを貼られてしまうのでしょうか?日本には義務教育があり、学校に行くことが当たり前だからでしょうか。現在の9年間の義務教育は1947年に制定された学校教育法によって確立されたもので、今から77年も前の話です。だとしたら、現代の社会背景を踏まえた議論が必要かもしれません。

学校に行かない選択をしている子どもたちがいることを、もっと多くの人に知ってほしいと考えています。そして、その選択を大人が尊重してほしいと願っています。僕は、「学校は行くものだ」という固定観念が、子どもたちを苦しめていることに気付いてほしいのです。そう、僕たち大人が変わらなければいけないのです。

同調圧力とSNS、生きづらさを感じる子どもたち

インターネットの発展により、個人の主張が広く伝えられるようになりました。戦後の日本は目覚ましい経済発展を遂げ、近代化を果たしました。それと共に、個人主義の考え方も伝わってきましたが、日本には村八分のような根深い仲間意識が残っています。個人の主張よりも、場を乱さない協調性を重んじる慣習があります。これがいわゆる「空気を読む」という文化です。

誰もがインターネットを利用できるようになり、個人または少数派の声が広く行き渡るようになりました。その代表例がアラブ諸国で起こった民主化運動「アラブの春」です。多くの国々で同様の抗議が広がり、ソーシャルメディアが重要な役割を果たしたと言われています。多くの人たちがインターネットの登場により希望を持っていましたが、現在の世界はどうでしょうか?僕は監視社会が強まっているように感じています。ソーシャルメディアでは、匿名という安全地帯から石を投げて、自分のストレスを発散する攻撃的な言葉が交される場面をよく見かけます。少数派の人々は特にそうした機会に出くわすことが多いでしょう。

また、動画投稿サイトが一般化し、「少年革命家ゆたぼん」と名乗る不登校の子どもが自ら情報を発信するようになりました。彼は積極的に自身の意見を表明し、若年層を中心に一定の支持を得ていますが、一方で教育や子どもの育成に関する伝統的な価値観を持つ人々からは批判も受けています。しかし、どうして大人はこの少年に石を投げつけるような言動を取るのでしょうか?僕は、その理由が「自分の子供時代とは違うから」と考えています。

人は自分を同一視する考えに優越感を感じることがあり、自分と異なる考えを持つ相手をこき下ろすことに喜びを見出します。あくまで相手を自分と関係のない、あまり大切でない人だと見なしているからこそ、平気でSNSで石を投げるのです。相手の考えに対するネガティブな偏見を持つと、自分と距離を置くような考えに対する侮辱が、自分の属する考えの優越性を確認できる、楽しい経験になるのです。このような恥ずべき行動の背後にある内面を否定することはできません。「私は充実した学生時代を送ってきた。だから、学校の楽しさを伝えるために君を支援したい」と感じているのかもしれません。

大人の価値観の押し付け『支援』の仮面の下にあるもの

コロナの流行が広がり始めた時、政府の発表から学校が休校を始めるまでの期間はおおよそ2〜3日でした。その後、オンライン授業が取り入れられましたが、現在はまったく普及していません。対して、働いている大人は、出社と在宅を組み合わせた新しい働き方が普及しています。僕も週に3日は出勤し、2日は在宅勤務で働いています。

学校では積極的にオンライン授業を取り入れなかったのは、おそらく親が平日に子供が家にいると仕事ができないからだろう(出社できないため)。しかし、それでは学校が預かり所としての要望が強いということなのでしょうか?実際、大人は「勉強をしなさい!」と言うけれど、本当は「私は仕事があるからあなたは学校に行ってね」と言っているのが本音かもしれません。それが家庭の問題ではなく、社会構造の問題となるのではないでしょうか?

では、学校に行く意義とは何なのでしょうか?僕は、いろいろな考えの人と出会うことが学校の意義だと思っています。例えば、「自分が好きだと思っていることを嫌いだという人もいる」「自分が美味しいと感じる食べ物を不味いと感じる人もいる」「自分が楽しいと思えることをつまらないという人もいる」など、世の中には人の数だけさまざまな価値観が存在しています。今では多様性という言葉が広く使われるようになり、日本でも相手を尊重しようとする風潮が感じられます。しかし、人間とは自分勝手なもので、いざ自分に関わる話になると拒否反応を起こしてしまうことがあります。そう、大人にとって多くのことは他人事なのです。

多様な学びと子どもの選択を尊重する社会へ

なぜ僕は「不登校を支援する」という表現に違和感を覚えるのか?それは、子どもの支援と言いながら、実際は大人の都合で物事を考えているからです。結局、子どもが平日の昼間に家にいると、保護者、特に母親が働くことが難しくなります。子どもが学校に行かないと、親が働けないから困るのです。

また、学校の先生たちは、担任の生徒が学校に来ないと困るため、学校への出席を促すのが自然な流れです。仕事ですからね。そして、教員としての使命感から、「学校に通うことが良いことだ」と信じて疑わないでしょう。そんな大人都合の考えから、僕には「不登校を支援する」という言葉が不誠実に聞こえてしまうのです。

それは強者の言葉であり、弱い者の気持ちが想像できていない。こんな言葉たち「甘えるな」「しっかりやれ」「頑張れ」「やればできる」は、子供たちをただ追い詰めるだけです。だから、大人たちは、他人事のように距離を置いて欲しいと思います。突然話に割り込んでこないで、静かに見守っていてほしいのです。子どものためを本当に思うなら、自分の価値観を押し付けず、子どもの意見をそのまま受け入れてください。

大丈夫、子どもを信じて、ただ見守ることが何よりも大切なのですから。


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