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「反日的」発言と統帥権干犯問題

安倍前首相が月刊誌でオリンピック開催反対派について「反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している」という発言をしたことを覚えているだろうか?

この発言は物議を醸したが、結果的にオリンピックは開催され、日本選手のメダルラッシュもあり開催反対ムードは一気に消失し、この発言についても多くの人の記憶から消えた。

しかし、この発言は後の政治に大きな影響を与えかねないと私は思う。その理由はこれから先、政治的に敵対する人間を「反日的だ」と批判する流れが生まれていきかねないからだ。

統帥権干犯問題とその影響

そう考えた理由の一つとして、かつて日本で同じような流れが存在したからである。それは1930年のことであった。当時は立憲民政党と立憲政友会の2大政党制であったのだが、与党・立憲民政党が世界的な時流に合わせた軍縮条約(ロンドン海軍軍縮条約)を結んだことに対して、統帥権(軍を指揮する権限)の干犯(越権行為)であると立憲政友会の鳩山一郎らが帝国議会で批判したのだ。

大日本帝国憲法第11条   天皇は陸海軍を統帥す

確かに、憲法では統帥権が天皇の権利として書かれている。

しかし、正確に言えば今回問題になっている兵力量の決定は統帥権とは異なっている。そして、兵力量の決定は軍政をになう陸軍大臣か海軍大臣が輔弼(補助・代行)するという慣例があった。そのため、そもそも立憲政友会の批判は統帥権の拡大解釈の上での批判である。

しかし、この批判というのは非常に反論し辛いらい急所を狙っているともいえる。実際は天皇機関説という憲法解釈で政党政治を実現していたが(実際には天皇ではなく政党が政治を行っていたが)、タテマエとしては大日本帝国は天皇が中心であり、内閣はその天皇をサポートしているに過ぎない。そのため、「それって天皇のこと軽視してませんか?不敬ですよね?」といったことを言われるとなかなか反論しづらい。


そして、倒閣を狙ったこの批判は、立憲政友会の予想を超えて暴走することになる。国家主義団体が政府、さらには政党政治をことあるごとに「不敬だ」と声高に批判するようになっていくのだ。

立憲民政党の浜口雄幸首相は反対論を押し切り帝国議会で可決を得、条約を批准するものの、国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職することになる。そして浜口は8月26日に死亡した。

その後、軍部は統帥権をさらに拡大解釈し、政府の決定に従わなくなり暴走を始めた。1931年の満州事変は、関東軍が政府の意向を無視したことからも、まさにこの事件の延長線上にあることがわかる。

さらに国家主義団体も勢いを持ち、「不敬」と思われる対象に攻撃を仕掛け続けた。

特に天皇機関説に関しては、ほんの数年前まで当たり前の解釈として運用されていたのにもかかわらず、「不敬」ではないかと批判された。また、その解釈の生みの親である美濃部達吉は、不敬罪で告訴され(起訴猶予)、貴族院を辞職している。(その後右翼暴漢に銃撃され重傷を負う)(ちなみに、この取調べに当たった検事は、美濃部議員の著書で天皇機関説を学び、美濃部が試験官を務めた高等試験司法科試験に合格して検事になっていた。このように、いかに急激に事態が変化していたか、そしてそのタテマエによる批判が実態とかけ離れていたかがわかる。)

他にも東京大学で複数の教授が「不敬」とされ辞職に追い込まれるという事態に発展する。


このように、相対する勢力のことを「不敬」であると批判したことが、後に何を引き起こしたかを歴史は教えてくれる。

さて、では「反日」発言はこの後の政治にどのような影響を与えていくのか。政治家の発言の影響力は計り知れない。

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