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留学して得たものBEST3ー第3位:英語力

僕が留学したのは今から25年も前のことだ。博士号を取るためにUCLAの社会学部の大学院に入った。そこでほぼ5年過ごしたが、そこで自分は何を得たか、今になってやっと整理がついてきたように思う。

そのことについて少し書く。ただ、これはあくまで僕個人の経験からのものだ。他の方々に当てはまるかどうかはわからない。

今思えば、留学によって向上したものは3つあると思う。ひとつずつ順に紹介していきたい。

第3位:英語力


話は僕の高校時代まで遡る。

今でこそ日常的に英語を使って仕事をしているが、僕は昔から英語が苦手だった。ぎりぎりの成績で進学校と呼ばれる高校に入ることができたが、入って最初の中間テストでは、学年432人中、408位という悲惨さだった。国立大学になんておよびもつかない順位だった。もちろん、408位を取るには、英語だけじゃなくて科目すべてにおいて全部ダメじゃないといけない。当然全科目赤点だった。中でも英語は最もダメで、100点中18点、クラスで最下位、学年で下から2番目という点数の低さだった。

今考えると、僕は英語というよりも、言語そのものを理解していなかったと思う。特に文法というものを理解していなかった。主語、述語、目的語、補語とは何かもよくわかっていなかったし、5文型の意味もまったく理解していなかった。

そのときまでの僕の言語の理解は「何かそれらしい語順になっていればいい」というものだた。中学までは国語も英語も「なんとなくそれっぽい文章をつくる」ことだけで乗り切ってきて、文の構造を考えるなんて全くしていなかった。

なので、高校に入ってそのツケを一気に払わされることになった。

英語の文法を理解するには、日本語との対比で考える必要がある。例えば「主語」の理解は、日本語で「私」「僕」なのだな、と理解してから、英語で“I”なんだとわかる。僕は国語も「それっぽさ」だけで乗り切ってきたので、文法を理解するのにものすごく時間がかかった。まずは日本語から理解しなくてはならないからだ。日本語の構造と英語の構造を比較することで理解が進む、ということが分かったのは高校2年の夏になってからだった。

それで、英語だけではなく、日本語の構造にも気を付けるようになってきたら、まず現代国語の成績が伸びた。それに続いて英語の成績も少しずつ伸びていった。

だが、英語の成績の伸びは国語に比べるとめちゃくちゃ遅かった。僕は暗記も苦手だったからだ。単語や構文の暗記は大の苦手で、暗記の小テストはロクな点数を取れなかった。進学校だったので、周りの友人はみな頭が良く、暗記モノは直前の休み時間だけで全部覚えて満点を取るような奴らだった。彼らと比較すると、僕は自分の頭の悪さに本当にみじめな思いをしていた。

で、僕は悟った。

「俺はバカだから、きちんと勉強しなければ成績伸びないし、大学にも入れない」

と。
それからは、わからないながらも、英語の授業の予習復習は欠かさずやった。授業中は板書だけではなく、先生の話した注意事項をもれなくメモに取り、それを帰宅してから清書して、試験前に見られる参考書を作るつもりでノートをとった。暗記しなくてはいけないものは、録音し、ウォークマン(昭和時代!)で通学時間に再生して何回も聞いた。

そこまで頑張っても僕の英語の成績は学年の真ん中くらいだった。いい時には上から3分の1くらいまで行くこともあったが、結局中の中から中の上までをふらふらして、そのまま受験に臨んだ。

他の科目の成績が急激に伸びたことや運もあって何とか北大に受かることができたが、後から自己採点してみても、受験での英語の点数は中の中だった。

高校1年の時のクラス最下位のトラウマもあって、僕はずっと英語には苦手意識を持っていた。大学に入ってから2年間は、勉強など適当にして遊び惚けていて、英語の必要な授業は極力とらないようにしていた。

しかし3年のゼミ配属になってから、自分の英語力と真剣に向き合わなくてはならない羽目になった。僕のついた先生は、世界的に有名な業績のある先生で、海外で博士号をとり、英文の学術雑誌にバンバン論文を載せるようなスゴイ先生だった。

その先生とのゼミの初日に、先生から一冊の英文の本を渡されて

「これ、来週までに読んできて」

とさらっと言われた。

「いや、そ、それは無理です。1週間では…」

と、か細く答える僕に、先生は食い気味に

「じゃあ、どれくらいで読める?」

僕「2か月くらい…」

先生(またも食い気味に)「そんなんじゃ遅すぎるよ。じゃ、3週間ね」

僕「は、ハイ…」


2週間後、結局1章分を不完全に読んだだけで、先生に呆れられた。先生も、僕のダメさかげんを理解したらしく、その後の週からはもっと短い論文を一つずつ渡されて、読むことになった。

ものすごく怖かったし厳しかったが素晴らしい先生だった。僕はその先生に憧れて、バブル期真っ盛りにもかかわらず、大学院に進むことを選んで、研究者になることにした。

だが、先生のように世界的に活躍する学者になるためには、当時の僕の英語力では全くダメなのは身に染みてわかっていた。僕は大学院の修士を出た後、特例的にその先生の研究室の助手に抜擢してもらい、そこで3年働いた。助手になるときから「3年働いたら、アメリカに博士号取りに行きたいので、サポートしてください」と図々しくも先生にお願いしていた。

僕としてはその3年の間に、英語力を磨こうと思っていた。海外の学会で初めて英語で発表もした。そして、TOEFLも何度か受けて、アメリカの大学の大学院に書類を送った。TOEFLの点数は憶えてないが、あまり高くなかった。ハーバードやスタンフォードクラスならば、足切りになるレベルだったように思う。

その中で、UCLAに合格した。UCLAには指導を受けたい先生がいて、僕の第一志望だったので迷うことなく入学手続きをした。

UCLAの大学院に入学するにあたって、新学期が始まる前に、UCLA付属の英語学校に行った。一応上位クラスに入ったが、最上位クラスには入れなかった。そして、結論から言えば、英語学校ではほとんど英語力がつかなかった。クラスに日本人は山ほどいたし、何より先生が優しすぎた。英語がへたくそな日本人にも辛抱強く付き合ってくれ、日本語訛りもよく理解してくれた。彼らは典型的なアメリカ人からは程遠かった。

大学院に入学すると、僕の環境は一変した。僕の同期の大学院生は僕を含めて14人。そのうち留学生は僕以外に3人、それぞれ中国人、イギリス人、チェコ人だった。イギリス人とチェコ人はほぼネイティブで、中国時の留学生は、高校時代からアメリカに住んでいて、英語は堪能だった。

要するに、同期の中で僕だけが圧倒的に英語下手だった。

そんなダメダメな僕を、同期の友人たちはよくサポートしてくれた。毎週末、皆で公園でバスケをやったり、誰かの誕生日にはパーティをやったりした。友人も知り合いもいない中、同期の友人たちはイベントには必ず僕も誘ってくれた。それはとても嬉しくて、僕も参加するのだが、いかんせん会話が弾まない。

留学生はもちろん、全米各地から集まっている同期たちの英語の発音がバラバラなのだ。東部出身と南部出身と西部出身で全然違う。彼らが僕に1対1で話すときには、気を使ってくれるのでまだいい。彼ら同士で議論しているときには、僕は話を追いかけるだけで精一杯で、自分の意見などまったく言えない。

当然授業も同じだ。先生によって、発音も言い回しも異なる上に、大学院の方法論の授業では科学哲学的な議論にもなる。毎週数百ページのリーディングの宿題がでて、それをひいひい言いながらこなし、授業はすべて録音して、終わってから何度も聞き直した。それでもわからない。

これではいけないと思い、1週間かけて自分なりに質問を準備して、ある日授業で教授に質問してみた。初めての発言だった。それまで授業でひとことも話したことのない僕が、手を挙げて質問すると、同期の友人たちが一斉に僕に注目した。そのとき、緊張のあまり、自分がどういう英語を話したのかいまだに思い出せない。

だが、質問の後の教授の答えはよく憶えている。それは

“I don’t understand your English.”

という冷たい一言だった。頭の中が真っ白になった。


1週間かけて必死に準備して、意を決して発言した質問に、解答してもらう以前の返答しかもらえなかった。その後同期のひとりが、「多分、彼はこういう質問をしたかったんじゃないかと思う」という風に僕の質問を翻訳して先生に問い直してくれたが、頭がパニックになっていた僕は、あいまいにうなずくだけだった。

それから、ほぼ半年間、毎日やめたい、日本に帰りたいとばかり思っていた。今となっては笑い話だが、インターネットもサブスクもなかった当時、日本の大学の後輩に「なんでもいいから元気の出る日本の曲を入れたカセットテープを送ってくれ!」と頼み、届いたテープに入っていた中島みゆきの『ファイト!』やZARDの『負けないで』を聴いて、マジにベッドで涙して震えていた。

だが、その後しばらくすると、面白いことが起こった。相変わらず話しはできなかったが、必死に授業に食らいついていたおかげで、リスニング能力はずいぶん上達して、他の人が何を言っているかがわかってくるようになったのだ。周りの人の英語の訛りにも少しずつ慣れてきた。教授や同期たちの議論も理解できるようになってきた。

そうすると、少し見えてきたことがあった。傲慢なことに、僕は

「あ、(教授も含め)みんなそれほど頭よくない」

と思った。僕が日本にいたころに、指導を受けた教授との議論の方がよっぽどレベルが高いことに気づいた。
アメリカの一流大学といえどこの程度か、と思うこともしばしばだった。(まあ、超一流大学ではないが)

だが、当然ながらそれは僕が勝手に心の中で思っているだけで、周りから見れば僕は相変わらず、何も発言できない、英語のヘタクソな底辺留学生に過ぎなかったはずだ。

だがメンタル面で大きく変わった。そこからは、自分のダメさ加減に落ち込むよりも、ムカつくことの方が多くなった。

「日本語だったら、こんな頭の悪い議論、すぐに論破できるのに」

などと思ったことも数知れなかった。そう思えるまでに、留学してから1年半近くかかった。

そしてある日僕は気づいた。

「俺は本当に日本語だったら、論破できるのか?」

「英語でできないってことは、英語力の問題じゃなくて、そもそも日本語もまともに話せないってことじゃないのか?」

「俺は本当に日本語ができるのか?」

そこから、僕は自分の日本語、というか話す言語そのものを見直すべきことに気づいた。そして、本当に重要なのは語学力ではなく、コミュニケーション力であり思考力であることに気づいた。実はこれが留学して身に付いたことの第2位だ。

そのことは次の稿で詳しく書く。

だが、この「気づき」をきっかけに、僕はずいぶん英語力が伸びた。2年の終わりに初めてティーチングアシスタントをやったが、思いの他好評で、3年時には優秀TA賞をもらうことができた。

とはいえ、やっぱり世の中は甘くなくて、TAのクラスでは僕を褒めてくれる学生がいる一方で、「あなたの英語がダメで理解できないから、私の成績が悪いのよ!」とクレームを言われることもあった。

少しレポートで手を抜くと「英語をもうちょっと勉強するように」と教授からコメントをもらうこともあった。

結局、そういうことは今でも続いている。英語の論文を書いて、修正してもらって、投稿しても査読者から「英語がダメ」と言われることも多々ある。つまり英語の勉強に終わりはない。

ひとつ驚いたのは、北大時代の恩師の先生は100本を超える英文論文を出版しているが、その先生でさえ、査読者に「英語がひどい」と書かれていたことだ。一流の学者でも、ノンネイティブならば英語は常に問題として付きまとうのだ。

だから僕は、「英語がダメ」といわれるのは仕方ないと思っている。そのダメな英語力を補うのは、徹底した論理しかない。つまり、英語ネイティブ学者の何倍も考え抜いて、すべてをクリアにして、レベルの低い英語でもネイティブをうならせる論理力を見せつけるしか、世界で生き残る術はないと思っている。

そんなわけで僕は一生「英語ができるようになった」とは思わないだろう。でもそれは多分事実だと思う。そしてあまり気づかないが、実は「日本語もできていない」場合が多いように思う。

だから重要なことは、何語であっても、丁寧で論理的なコミュニケーションをとることなのだと考えている。

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