道玄坂 イーハトーヴへと続く坂
「保阪嘉内、道玄坂に泊まってたんだね」
ある夜、リビングで本を読むパートナーがつぶやいた。手元には、宮沢賢治の書簡集がある。
先月、宮沢賢治の足跡をたどるため岩手県の花巻と盛岡を旅してから、あらためて賢治の生活に興味を持ったようだ。私は、締め切りの近い書評を書くために読み返していた哲学書から目を離し、思わず聞き返した。
「道玄坂?」
なぜ驚いたかというと、ちょうどその日、たった数時間前に二人で渋谷の道玄坂を歩いていたからだ。
保阪嘉内。賢治の手紙が宛てられたその人物は、盛岡高等農林学校(今の岩手大学に相当する)時代の同級生である。在学中、二人はオリジナルの演劇をやったり、一つの松明を頼りに夜の岩手山を登り、将来を語り合ったりして過ごしていた。この親友が賢治に与えたインパクトはとても大きく、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラや『風の又三郎』の高田三郎のモデルになったという説もある。
しかしその嘉内は、仲間たちと出していた同人誌「アザリア」で書いた過激な政治的文章を問題視され、岩手農学校から退学処分を下された。突然、親友と引き裂かれた賢治は、そのことに多大なショックを受けることになる。
パートナーが読んでいたのは、そんな時期に賢治から嘉内に宛てられた手紙だ。嘉内は岩手を離れ、しばらく東京に滞在していたようだ。文面はこんな内容だ。
確かに、最後の一文は、童話「銀河鉄道の夜」の「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう」という台詞を思い起こさせる。
この手紙が、渋谷・道玄坂の「ばれんや旅館」という所に届いていたというのだ。一体、どこにあったのか? 気になってGoogleで調べても、「東京府下中渋谷道玄坂二九八」という古い住所も、旅館の名前すらも出てこない。
そのとき、「東京時層地図」というアプリがあることを思い出した。一般財団法人 日本地図センターという機関が開発したもので、明治から現代までの東京の街の変遷を見ることができる。
これは少し前に、職場の代官山 蔦屋書店の企画でお世話になった、地図研究家の今尾恵介さんに教えていただいた。「タモリ倶楽部」にも出演した地形図の達人だ。イベントの帰りが一緒になり、旧山手通りを歩きながら、かつての東京の姿の話になって話題にのぼったアプリだ。
そのとき、その場でインストールはしたものの、大昔の地図や解像度の低い航空写真の使い道が特に思い浮かばず、しばらくもてあましていた。それがようやく私にも、その真価がわかるときがきた。
宮沢賢治が例の手紙を送ったのは、大正7年(1918年)のことだ。そこで、まずは現在の道玄坂エリアにざっくりとピンを置く。それから、関東地震直前(1916-21)の地図を見る。この時代にすでに渋谷駅があり、道玄坂も今とほぼ同じ道筋で存在していたようだ。
「東京府下中渋谷道玄坂二九八」を探すと、あっという間に見つかった。それを今の地図に戻して、Googleマップを開く。
どうやら、保坂嘉内が滞在していた「ばれんや旅館」があったのは、道玄坂の中ほどで差しかかる、「ケンタッキーフライドチキン」や「長崎ちゃんぽん リンガーハット」のあたりだったようだ。今日、ちょうど代官山 蔦屋書店から渋谷駅に向かって歩いたときに前を通っている。百軒店の歓楽街への入り口が近い。
百軒店といえば、奥まで進んでいくと「名曲喫茶ライオン」がある。大学院生のころにはよく通っていた。風俗店やライブハウスなど派手な見かけの施設が多いエリアだが、ライオンはひっそりとしていて、それでいて圧倒的な存在感を放っている。
まだ家庭で音楽が聴けなかった時代から、立体音響設備でクラシックを流す喫茶店。じっくりとレコードに耳をすますために、どの席もスピーカーの方に向けて設置されていて、会話はできない決まりになっている。訪れるたび、なんだか別の時間が流れているのを感じる。古い写真の中に写し取られた空気。その中に入り込んで呼吸するような感覚がする。
しかし、はるか昔からあるように思えるライオンも、創業は昭和元年だ。賢治の手紙が渋谷に届いた大正7年は、それよりもさらに8年さかのぼる。渋谷に名曲喫茶ができるよりも前に、嘉内がその土地にいて、花巻の賢治からの手紙を受け取っていたのだ。
書簡の住所をもとに古い地図と今の地図を重ね合わせたことで、賢治と嘉内の関係が、大正の空気が、ついさっきの渋谷に浮かび上がってきた。
これまで、人通りが絶えない、終電を過ぎても眠らない坂というイメージだった道玄坂。仕事で遅くなると、そのあたりでステーキやケバブを食べて帰る。その場所に、実は、賢治の手紙が届いていた。
岩手へ向かったとき、それははるか遠く、未知への旅だった。昔に比べれば、新幹線でたったの3時間で着くとはいえ、東京とはまったく景色がちがう。何も知らない私にとっては、異郷の土地だ。しかし、今日は、賢治の手紙が慣れ親しんだ道玄坂に見つかった。宮沢賢治の世界が、いつもの街の一角に現れたのだ。そして、私が夜食を食べていたときも、終電に間に合うよう急いで走ったときも、そこは賢治と嘉内のやり取りが刻まれた場所だったのだ。
岩手県の花巻には、賢治がその場所をエスペラント語風に「イーハトーヴ」と呼んでいたころの風景が今も残っている。花巻の山々、川、旅館、それに記念館や石碑、賢治を語り継ぐ人々がいる。それに対して、渋谷は移り変わりの激しい場所である。そこを歩いているだけでは、賢治や嘉内の生きていた空気を何も感じられない。当時の建物はもちろん、番地すらも変わっている。しかし、二人の書簡と、大正の地図と現代の地図が重なるとき、隠された街の記憶が掘り起こされる。
街にも魂があるとすれば、嘉内と賢治が交わした火花のような交流も、そこに刻まれているのではないか。それは、精神的な地層だ。その上を私は歩き、走って電車を追いかける。
故郷の岩手を「イーハトーヴ」と呼んだように、賢治は東京を「トキーオ」と呼んでいた。あの渋谷の坂は実はイーハトーヴへとつながっていて、この街も本当はトキーオなのだ。私は、自分の街が宮沢賢治へと通じていく隠された通路を見つけた。
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