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読書記録 松本俊彦『薬物依存症』ちくま新書

松本俊彦『薬物依存症』ちくま新書を再読した。
これは本当に名著である。

先日も松本先生は、タレントの伊勢谷友介さんの大麻使用による逮捕に関してメッセージを発していたが、度々薬物使用で逮捕される芸能人が出るたびに松本先生のコメントは非常に重要な意味を持っている。
松本先生のメッセージで見落としてならない、いちばん大切な点は、薬物依存は刑罰ではなく、包摂によって、支援によって、治療によって回復を促すべきである、ということだと自分は理解している。

なぜか。それは薬物依存症は、慢性疾患だからである。
本書は、薬物依存に対する誤解を丁寧に解きほぐす。そして、慢性疾患として薬物依存症を捉えることの合理性と必要性を説いている。ベースになっているのは、カンツィアンの「自己治療仮説」であり、具体的なケアの方法として松本先生たちが作り上げたケアの枠組み「スマープ」を展開されており、その説明も極めて説得的である。

薬物依存について理解する上で重要な点は、薬物を使用した経験がある人は少なくないものの、そうした人と薬物依存症になることの差異である。
前者は、薬物の使用による利得があるから使用する。アルコール(これも立派な薬物である)ならば、酔える、ということが利得であろう。
一方、依存症というのは、継続的に薬物を使用し続ける状態である。なぜ使用し続けるのかというと、それは、利得があるからではなく、損失を補おうとするからである。
毎日辛いことがある、生きていることが苦しい、という損失を補おうとして(苦しみを和らげるために)薬物に手を出す。この薬物を苦しみを緩和させるために、持続的に使用し続ける状態が、依存症なのである。

この継続する生きる苦しみ、辛さを抱えながら何とか孤立した中で自分を助けようとして、人は依存症になっているのであり、従って依存症ケアをするために重要な点は、この継続的な苦しみを少しずつ解消していくこと、いや、解消「し続ける」ことにある。

薬物依存症とは、孤立がもたらす関係の病である。
改めて読んで思うが、誰しも生きる苦しみを抱えて生きている。
他者から評価を得なければならないという苦しみの中で、なんとか自分を助けようとして、薬物に手を出す。それは、原稿を書くために気合を入れようとコーヒーを飲むことも全く例外ではない。

だがポイントは依存者には生きる苦しみが持続していることにある。だから薬物やリストカットなどの「物」依存が持続していることである。
だから、この苦しみをいかに緩和していくか、ということが依存症ケアの要である。そして、それはまさに孤立を解消していく取り組みを持って他はない。

依存症からの回復は、生きる苦しみを分かち合える人とのつながりを持ち「続ける」こと。
それは、ある意味で、人生の苦労をともに分かち合えるようになること。その難しさは、誰しもが持っているものではないだろうか。
読み返してみて、改めて非常に勉強になった。

ところで、そもそも経営学者である自分がなぜ薬物依存症に関心を持っているのか。それは、様々な組織で起きている問題の背後には、薬物ではないものの依存症的な問題が数多く見られるからだ。

例えば、自分が会社で評価を得られないことに苦しみを感じる人が、やたらと色々な本やメディア記事を乱読しまくったり、セミナー漬け、ワークショップ漬けになっているような姿。部下がうまく動いてくれないと悩むマネジャーが、やはり本や記事を乱読し、コンサル漬けになっていく姿。
それら書籍やコンサルが悪いわけではない。その人だって、必死に自分を支えようと頑張っている。
そうして、どこかに効く答えはないかと血眼になって探し続ける姿に、自分は心が痛む。本書の表現で言うならば、「心の松葉杖」を探しているように思うからだ。そして、それらの取り組みは、短期的に解決することはあるだろうが、そのことが却って問題を深めていくようなことも多い。そして余計に解決策を探していく。

背後には、組織の中での孤立がもたらす苦しみがあるように思う。
だから、対話していこうと『他者と働く』では書いた。ある意味で、自分の痛みをもっと大切にして欲しいと思ったからだ。
でも、まだまだうまく表現しきれていないかもしれないと思っているし、じゃあどうしたらいいのかというのもある。
だから、自分なりにこのことにちゃんと取り組みたいと思って、今2冊目の本を書いている。がんばります。

追記

このようなケアの思想・実践ということで忘れてはならない大事な点に論及されていたことを書いておきたい。
それは、ケアとは支援者をもケアする、という点である。

かつてメイヤロフは『ケアの本質』で、ケアの本質について次のように述べている。

他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。この世界の中で私たちが心を安んじていられるという意味において、この人は心を安んじて生きているのである。それは支配したり、説明したり、評価したりしているからではなく、ケアし、かつケアされているからなのである。
(メイヤロフ『ケアの本質』ゆみる出版、翻訳1987年)

松本先生も本書の中で強調されていたのは、スマープのようなプログラムは、薬物依存症者に対してどのように扱ったら良いかわからない支援者を支援し、教育するという意義もある、という点である。

これを私なりに表現するならば、多くの支援者は薬物依存症者をどのように支援したら良いかわからないという問題を抱え、しかも、その問題が恒常的に維持されている結果、支援しない、という解決策をとってきたということになる。構図としては、依存症当事者が薬物等への依存を繰り返すのと相似形である。

このような状態に対して、支援しないのは間違っている、おかしい、そういう姿勢が依存症当事者を余計に孤立させる、ということがわかっていないわけではないはずだ。だけれど、いくらそのようなことを述べたところで問題が改善するわけではない。彼らもまた(全員ではないだろうが)、どう支援したら良いかがわからないという苦しみを抱えていたのかもしれない。

だから、スマープのような具体的な方法が出来ると、これを用いて支援しようという動きが徐々に広がっているのであろう。松本先生も書籍で述べていたが、この方法はあくまでも非常に初歩的なものにすぎないが、まず依存症当事者を孤立させない、という観点から非常に重要であり、笊(ざる)の目で支援しているようなものである一方で、笊を何層にも重ねればある程度は掬うことが出来る、ということにつながる、というわけである。

ハームリダクションという考え方が同書でも取り上げられているが、この考え方も極めて実践的である。実践的とは、理想を精神論で押し付けず、理想が100とすれば、1か2かもしれない前進にせよ、具体的に0の状態から一歩進ませる支援のことである。例えば、覚醒剤依存症の人に、清潔な注射針を提供する、などである。これによって、支援者とのつながりができる。一歩としては、とても小さいように見えるが、実は大きな前進なのである。

薬物依存症は慢性疾患で、何回も再発を繰り返すのが普通である。セルフケアをし続けることは大変だ。だから、「安心してやめられないといえる社会」を作っていくことが大切なのだ。依存症当事者にとっては、それを言える場所があること、関係があることが、回復を大いに助ける。
同時に、それは支援者にとっても「またやってしまった」という人を受け入れるスキル・方法を通じて、包摂的な思想と精神を学ぶ過程でもあるのだ。

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