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3/12日放送 カンブリア宮殿「レジェンドVS外食猛者」を観て思ったこと

テレビ東京の『カンブリア宮殿』で、すかいらーく創業者の横川竟さんの特集が組まれていた。その中で、今、大変な苦境にある、いきなりステーキを展開する経営者の一瀬邦夫さんとのディスカッションが非常に興味深かったため、思わず書いている。

一瀬さんと横川さんの違い

一瀬さんはもともと肉の料理人としてキャリアをスタートされた方で、本当に食べることが好きなのだと思うし、その純粋な思いを持っている方なのだろうと思った。そして、その思いから、おいしいものをどうやってもっと多くの人に食べてもらうか、という考えでいきなりステーキをなさっているのだろう。
それが一番良く現れている「商売は自分が美味しいと思うものをお客様に食べていただきたい」という発言で、これはご本人も言うように、エゴイスティックな意味ではなく、素直にそう思っているのだろう。このことにはそれほど大きな違和感はない。
ただし、それとビジネスがうまくいくことは別である。その時に、どのように変革を果たしていくのかが、今の同社には求められていることのように思った。

一方、横川さんは、「自分がおいしいものが相手もおいしいとは限らない」という前提で相手の口に合わせた味と素材の組み合わせをした」と述べている。この一瀬さんとの主張の違いは、一般的には、横川さんは顧客起点、一瀬さんは提供者起点の発想という言い方もできるだろう。しかし、一瀬さんが顧客のことを考えていないかと言うとそういうわけではないとも思う。彼なりに一生懸命おいしいものを提供しようと頑張っているのだろうと思う。
発想の起点として考えている顧客がどういう人なのか、という顧客像の描き方が違うということではないだろうか。

この描き方の違いがどのように生じるのか、ということについて、こう考える事もできるのかもしれない。一瀬さんは、自分と顧客や場合によっては従業員との間のナラティヴ(物事の解釈の枠組み)に溝があることを受け入れることがなかなか難しい、ということなのではないだろうか。逆に、横川さんは、ナラティヴの溝がある、ということを受け入れているのではないだろうか。

一瀬さんは良いものを提供しているから、実際はすごく安いんです、と言っても、描いている顧客のナラティヴと来ている顧客のナラティヴが異なれば、それは顧客にとって「安くない」し「良いもの」でもない、と解釈される。いくら説明を尽くしても、そもそもナラティヴは異なるから、全く響かない。店頭に何をメッセージしても、空回りするだけだ。

そのように考えると、『他者と働く』で書いた4つの対話のプロセス(準備ー観察ー解釈ー介入)における「準備」の段階に大きな違いがあるのかもしれない。
つまり、自分とは違うナラティヴを生きる人がいて、それをどのように受け入れられるか、ということなのではないだろうか。


対話とは変革である

一瀬さんの発案した「いきなりステーキ」は、大きな成果を生んだのは事実だ。だが、ビジネスモデル自体は比較的単純であり、模倣者も続出し、差別化は難しくなっているように見える。
また、当然、最初の客の驚きは、模倣者の登場だけに限らずある程度のところで驚きから日常へと変化する。要するに、飽きる。
そうなると、どんどん贅沢な要求が向けられるようになるのは必至で、なんで立って食べないといけないのかとか(現在は対応している対応しているが)、高いとか、そういうことが出てくるだろう。

つまり、状況は変化したのだ。その状況変化は、自らの成功の証であり、成果でもある。
そして、この変化は一時的な変化ではなく、持続的・慢性的な変化なのである。それに対して、繰り返しになるが、いくら説明をしても、それは一時的な変化への対応(誤解を解く、等)にしかならない。
この変化を受け入れ、その中で受け入れられる痛みと受け入れられない痛みを峻別しなければならない。受け入れられない痛みのみから守るために、受け入れられる痛みを受け入れ、それを乗り越えなければならない。自らが良いと思うものが、成功を経験したにもかかわらず、新たな現実においては必ずしも良いとは限らないということを受け入れなければならない。
この点において、経営者とは大変に苦しい仕事だと思う。

だが、このナラティヴの溝が生じたことによって生じる痛みを受け入れ、対話していくことは、変革そのものである。

対話とは変革なのである。





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