見出し画像

私たちは他者を必要としている

私はアドベントの時期になると、必ず行うことがあります。それは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んだり、その映画を観たりすることです。


ロバート・ゼメキスが監督し、モーションキャプチャーを元に作られたアニメーション映画『Disney クリスマス・キャロル』は、非常に含蓄がある、素晴らしい作品だと観るたびに思います。

クリスマス・キャロルのストーリーをご存じの方も多いと思いますが、あらすじを書きたいと思います。

金貸しのスクルージは、血も涙もない金の亡者として、ロンドンの人々に嫌われていた。ある日、そのスクルージの元に、7年前に亡くなるまで以前ともに仕事をしていたマーレーの幽霊がやってくる。マーレーは重い鎖を身に纏い、恐ろしい姿で現れるが、スクルージにこう告げる。
「私は生きている間、ひどいことばかりしてきたことで、死後もこうしてその罪によって彷徨い続けている。更に7年も罪を重ねたお前の死後の鎖は、もっと重いだろう」と。そして、「今夜、お前のもとに、過去・現在・未来を見せる3人の精霊が現れる。それがお前の最後の救いになる」との言葉を残し、去っていく。そして、真夜中に、3人の精霊が次々と現れるのであった。
スクルージは、それら3人の精霊に、過去・現在・未来のクリスマスを見させられる。
過去、スクルージは、友達から仲間はずれにされ、寂しいクリスマスを一人過ごした辛い経験があった。貧しさの中で、家族も揃わず家に帰っても寂しかったが、素晴らしい妹(後に死ぬ)もいた。
その後、丁稚奉公に出ていた先で出会った美しい女性と婚約するが、しかしさらに後には、お金を稼ぐことに躍起になり、女性は離れていく。とてもつらい過去のクリスマスであった。
現在のクリスマス、冷酷なスクルージは、人々に嫌われ、使用人のボブには安い給料しか払っていない。ボブの息子のティムは病を患っていたが、満足な治療を施すこともボブにはできない。このままでは後に死ぬと、現在のクリスマスの精霊に教えられる。亡き妹の甥が誘ったクリスマスパーティーを欠席したスクルージだったが、精霊に連れて行かれると、スクルージがひどい人間として噂話をされているのを目にし、自分はこんなにも嫌われているのかとショックを受ける。
未来に連れて行かれたスクルージは、皆に嫌われ、誰も葬式に来ないことを知る。彼が死んで心を動かされたのは、彼の冷酷なまでの借金の取り立てから時間稼ぎをすることができたと喜ぶ人だけであった。ボブの息子、ティムはこの日、病で亡くなった。落胆し、号泣するボブ。ティムを助けなかったスクルージ。精霊に連れられて墓場に行くと、墓石にはスクルージの名前が刻まれていた。
過去の延長に現在があるならば、現在の延長に未来がある。人々から嫌われて生きたスクルージの未来は、誰からも見捨てられた最悪のものであった。その現実を受け入たスクルージは、改心することを未来の精霊に誓う。夢から目を覚ますと、スクルージは自分の寝室にいた。改心した彼は、ボブへの待遇を見直し、ティムのもうひとりの父親として病気の治療のために支援をし、また、人々に施す素晴らしい人間となった。

様々な事を考えさせられる内容です。
いくつもここで考えたいことがありますが、3点に絞ってみたいと思います。

1.人間にとって失敗とは何か
2.精霊とは何者か
3.スクルージはなぜティムを助けたのか

1.人間にとって失敗とは何か

スクルージは、過去において、幼少期の苦しみを抱えながらも、善良な人間として生き、そして愛する人と出会いました。しかし、貧困への恐れから、お金への強い執着が生まれ、冷酷な人間へと変わっていきます。

ところで、この冷酷な、人を傷つけ続ける人間へと変わってしまったことがスクルージの過ちなのでしょうか。
私は改めて読み返す中で、スクルージは、人を傷つける方法でしか、今の人生への違和感や自分への不愉快さを表すことができず、その不愉快さを誰とも分かち合えないという苦しみを抱えて生きているのではないかと思いました。つまり、彼は助けを欲っしていたのではないかと思うのです。

私が研究で基盤にしている思想(社会構成主義)では、人間存在とは関係性(ナラティヴ)の産物であると考えています。つまり、その人がどのような人間であるかは、埋め込まれている関係性によって作られる、という考え方です。
スクルージが不幸であったのは、彼が恐れている貧困に対して、愛する人へ自らの苦しみや弱さを語ることが出来なかったこと、その結果、孤立し、より冷酷な行動以外の選択肢を持てなくなっていったことではないかと思いました。

人間というのは、誰しもとても面倒なコミュニケーションの方法を取るものだなと思います。自分が苦しいときに、助けて欲しいというメタなメッセージを、それとは全く異なる他者を傷つける方法で表現することもあります。そのときに、自分が何に苦しんでいるのか、何が辛いのか、何を伝えたいのか、ということを一人で自分に問うても、なかなかその苦しみにたどり着くことは出来ません。私達は自分の助け方をどうやって知ることができるのでしょうか。
彼を助けた存在は、精霊でした。では精霊とは何者でしょうか?

2.精霊とは何者か

スクルージのもとには、過去・現在・未来のクリスマスを見せる精霊がやってきます。物語では、この精霊によって見せられたものにスクルージが大いに反省して、改心をしていきます。
しかし、なぜ、過去・現在・未来を見るとスクルージは改心したのでしょうか。

私たちは、人生の中で紡ぎあげられた物語(ナラティヴ)を生きていると言えます。
そうした物語は、日々を生き、様々な出来事に出会う中で徐々に紡がれていきます。しかし、それら出来事全てを私たちは「経験」しているわけではありません。
例えば、私が昨日起きてから寝るまでの間にどんなことを経験したのかを語る時、数多くの出来事(例えば、昼ごはんを食べたとき運んできてくれた店員さんの表情や、道ですれ違った人の服装など)は抜け落ちていってしまっているでしょう。それら出来事は経験されないのです。
ましてや、長い人生においては、数多くの出来事は、とても大事な出来事や出会った人も含めて、忘れ去られていき、人生の物語は極めて単純化されていきます。

精霊は、ただひたすらに、過去を見せ、現在を見せ、そして未来を見せます。そうすることで、忘れていたこと、見えていなかったことが数多く浮かび上がってきます。
それらは時に、とても大きな痛みを伴って私たちに迫ってきます。しかし、同時に、その痛みの外側に、今の人生の物語のもたらす苦しみの外側へと誘う入り口が示されます。

それは、先の過去に愛した人がいたこと、あるいは、悲しい別れがあったこと、自分を助けてくれた人がいたこと、などです。
『クリスマス・キャロル』の物語では、現在と未来も見ることができるので、さらにここに、今自分によって苦しんでいる人がいること、自分が助けられるのに助けていないティムの存在、未来において自分を冷たく見る人々なども見ることができます。

そうした様々な出来事を見せることは、今の自分の物語の当たり前を相対化し、異なる物語(ナラティヴ)が存在しうる可能性を示すものなのです。
つまり、同じ人間の人生の中に、異なる物語を読むこと、これを脱構築と呼びますが、新しい物語を紡ぐ入り口を提供するには、今の自分のナラティヴには、単純化されて見えていなかった裂け目があったことを知る必要があるのです。

精霊は、他者として現れます。
そして、他者である精霊は、スクルージの生きる自明なナラティヴを異化し、相対化することで、もっと異なる人生のナラティヴを構成していく可能性があることを示していくのです。

興味深いことに、ディズニー映画版の『クリスマス・キャロル』では、精霊もスクルージも、同じジム・キャリーによって演じられています。このことは極めて示唆的で、他者がもたらす助けとは、人は自らを助けることが可能であることに気づかせるものでもある、ということなのかもしれません。

3.なぜティムを助けたのか

現在のクリスマスを見たスクルージは、使用人ボブのところに、病に苦しむ少年ティムの存在があることを知ります。改心を経たスクルージは、ティムを助ける存在となっていきますが、なぜスクルージはティムの存在に大きく心を動かされたのでしょうか。恐らくそれは、過去のクリスマスにおいて、とても優しい妹がいたことと無関係ではありません。貧しさ故に失ってしまった妹の命ではありましたが、ティムを目にして、スクルージはその生命を自らの手の上に託された存在であることを知ったのではないでしょうか。

過去における妹を失った苦しみを、貧しさから逃げることによって、ある意味でスクルージは自分を助けて生きてきました。しかし、それは他者を傷つける自分の助け方であったと同時に、愛する人の離反を招いたり、人から嫌われたり、スクルージ自身をも大いに傷つける辛いものであったと言えます。スクルージの自分の助け方は、その意味において、あまりにも自分に与えられた自分という存在に対して失礼なものであったと言えるのかもしれません。

ティムの存在を知ったことによって、スクルージは自分を助ける新たな方法を知りました。それは、スクルージの長く痛みを伴ってきた人生との和解の瞬間だったのかもしれません。
彼自身が惨めな自分と向き合うことが出来たのは、自分をもっと良い方法で助ける方法を知ったからであり、しかし、それは、単に一人で孤立している中では知り得ないものでした。ティムの存在を知り、助けるに至るためには、精霊がティムの存在を教えてくれるという助けが必要でした。精霊によって、彼は自分の痛みを知り、しかし、その痛みの意味を変えることが出来る力を有していることも知りました。

このように考えると、私たちは、もっと善い人生を歩むことは、すでに可能であると言えます。
そして、そのための手がかり、資源は、忘れてしまってはいたけれど、私達自身すでに有している存在であり、そのことを教えてくれる他者を私たちは必要としているのです。
私は先日『他者と働くーー「わかりあえなさ」から始める組織論』という本を書きました。この中でも述べたいことは、私たちはより善い人生へと開かれていくために、他者を必要とする存在でもあるということです。

他者の痛みを通じて、私の痛みを知ること。そして、その他者との連帯を通じ、自らを助けること。さらに、そのことを通じて他者を助けること。
対話(dialogue)とは、他者の存在(logos)を通じて(dia-)、新たな存在へと歩むことを意味します。

この対話の過程を、何度も躓きながらも、他者とともに歩んで行きたいと願う、2019年のクリスマスです。

*このブログ記事は、「『いい感じにはたらくTips』 アドベントカレンダー2019」に参加しています。
他の方の記事はこちら、本企画についてはこちらを御覧ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?