見出し画像

画家 矢野静明 個展『歴層』に寄せて

1. テクスト

本稿は、矢野静明 個展『歴層』2020.12.4-12.13 ギャラリーフォリオ (四ツ谷、東京) に掲載済寄稿です。紙版も会期中同ギャラリーにて入手可能です。

「矢野作品を視る」

画家の名前も知らないまま初めて作品を視た時(2014)から、10点の購入作品を毎日視ている現在まで、矢野作品を視る度に生じる感触がある。「人はずっとこのようにして生きてきたのだなあ、人が生きるというのは、人の生というのは、こういう感じなのだなあ」という感触である。「感覚」よりも「感触」という言葉の方がしっくり来るこの感じは、私が作品を細部まで鑑賞した後に生じるのではなく、作品画面を最初に一挙に視た時にすでに直観的に生じている。明晰な概念でも明瞭なイメージでもなく、従って「このように」とはどのようになのか、「こういう感じ」とはどういう感じなのか、よくわからないのだが。

私は視覚を通じてこの感触を得る。作品は確かに充実した視覚体験をもたらす。しかしこの感触は視覚的なものにとどまらない作品の要素から生じていると感じる。矢野作品を視るという体験を分析すると、この感触は、矢野作品から感じる諸記憶・時間・歴史の様々な配分と絡み合いにおける堆積と共存、とでも言うべきものから生じると言うことができる。但し、この感触は分析の結果生じるわけではない。

視る体験を分析してみる。視る体験においては絡み合って一体となっている諸記憶・時間・歴史は三種類に分類できそうである。

(1) 絵画「から」感じられる諸記憶・時間・歴史。さらに二つに分類できる。
(1.1) 画家が画面制作に費やした時間
(1.2) 画面から感じる諸記憶・時間・歴史
(1.1)と(1.2)双方に属する要素もある。画面の様々なマチエールからなる層(複雑な地塗り、油彩あるいは水彩、インク、木炭、パステル、の重なり合い)である。

(2) 絵画(鑑賞)「の」諸記憶・時間・歴史。これもさらに二つに分類できる。
(2.1) ある程度の長さ持続する一回の絵画を視る体験に属するもの
(2.2) こうした一回一回の体験の記憶が私の中で堆積し共存しているもの

(3) (1)と(2)を体験する私を構成し、また (1)と(2)を体験する際に動員される、私の中に常に変容しつつ堆積し共存している私の諸記憶の総体

(1.1) 作品画面には高密度で点線描が様々に配分されている。画家が点線描という行為の反復に要したであろう時間と反復行為と時間の集積としての画面。点描に関してはさらに、画家と点描と画面とが構成する音・リズムのような時間。点線描の下にある、画家本人が「それ自体で作品と言えるかもしれない」と感じるほど作り込まれた地塗りの完成に要した時間。そして既述の画面の様々なマチエールより構成される諸層から感じられる時間。こうした時間が画面に堆積している。

(1.2) 人の生を巡る4つの時間・記憶・歴史の層が共存している。しかし人そのものが中心要素だとは感じない。

(1.2.1) 幼年期に線や点や色と戯れていた、思い出すことはできないが堆積しているものも含めた、記憶(個人史)。絵肌をよく視てみる。画面には小さく凸凹がある。画面は凸凹している。微かな汚れ・シミのような模様あるいは引っ掻き傷のような跡が見える。土や砂地の表面、あるいは綺麗に崩れた地層や綺麗に割れた岩石の面を思わせる。色も土・砂・岩石を思わせるものが多い。今はもう日常でこのように間近で地表・岩石を見ることはないが、背の低さから地面が近く、また地べたに座ることを厭わない幼年期において、そのように見ることは日常の生の身近で楽しく重要な一部だったのだろうか。この絵肌の上に点と線が高密度に一見無造作に置かれている。ここでの点と線はただ描かれた点と線で意味や形象を構成していない。様々な色合いの土や砂の地表に点を描き線を引いたであろう幼年期。あるいは脆い岩石や地層をポロポロと棒で崩して、砂礫(点)、棒の痕跡(線)、残った岩石や地層の表面(地塗り)と戯れていた幼年期。思い出せない記憶も含めて、個人史的記憶の層を感じる。

(1.2.2) 民族誌・民俗誌的な記憶(集団史)。矢野作品には民族・民衆の生を想起させる要素がたくさんある。生地・鞣革・樹皮のような質感の支持体。民族・民俗的な文様、集団の生に必要な諸物を思わせる諸記号。部分で言えばT字・十字・三角形の文様の集まりは墓標を思わせる。あるいは舟、椅子、建物、何らかの道具と思しき形象が頻出する。全体で言えば地図や陣地図、あるいは織物を想起させる作品群がある。矢野作品を視ることで、自分の記憶ではない諸民族・民俗の集団史的記憶を感じる。

(1.2.3) なぜか、人にとって描くというのはこういうことなのだ、こういうことだったのだ、という感触が湧く。個人としては体験したことがない、人にとって絵を描くということそのものについての記憶(人類史)。一方で、幼年期の点・線・色彩との戯れは、文化的な差異にも関わらずどこでも見られるのだとすれば、自然的な・類としての人間に内在する振る舞いである可能性が高い。他方で、諸民族・民俗の生の記憶には文化的多様性がある。両者に共通しているものがあるとすれば、何が描かれているかでもいかに描くかということでもなく、描くということそのものであろうか。そうした理由でこの人類史的記憶の感触が生じるのかもしれない。あるいは人類はごく最近まで、また今でも多くの人が、地面で生活し続けてきた・いることも、この人類史的記憶が生じることと関係しているかもしれない。この辺りは後付け説明が紛れ込んでいるかもしれない。感触があることだけは確かだ。

(1.2.4) 地質・地層の記憶(地学史)。矢野作品の画面は、地層・地質の堆積・変動の歴史を想起させる。先述のように、絵肌はすでに地表や綺麗に削られた地層・岩石を想起させる。高密度な点線描とは別に、おそらくこうした点線描が置かれる以前に、(1.2.2)で述べたような形象が描かれている。点描は、地層が徐々に風化して点描以前に描かれていたこうした民族・民俗的形象を覆うに至った砂礫のように見える。廃墟と化し堆積した地層の中に沈み埋れているかのような建物もある。線で囲まれた地層的な諸部分はそれぞれ面積、形態、点線の密度、色調が異なる。視線を諸部分間で移動させてみる。諸部分は微妙な揺らぎ、例えば前面に出てきたりあるいは後方に引いたり、を示すと共に、異なった諸地質を感じさせる。諸部分は緊密に組み合い充実した画面を構成する一方で、地層の軋みやズレの予感あるいは余韻を、また軋みやズレをもたらす地層の諸力を、感じさせる。そして諸地層・地質に偏在する重力の感触。人の生の条件である重力の感触は、(1.2.1) (1.2.2) (1.2.3)の諸記憶を想起させる一因でもある。

矢野作品はどれも上記4種類の時間・記憶・歴史を様々な配分で想起させる。作品ごとに時間の感触は異なる。例えばその画面の小ささによって描くことのできる堆積密度が制約されているはずの「廃墟の街」(画像下) は、しかし極めて重く古い時間を感じさせる。同じ作品でも照明の明るさで感触が異なる。人間の認識構造に起因する光量と線・色調感知の機序にも関係しているのだろう。同じ視覚体験の中で複数作品群に接すると、作品群が相互諸関係に入り、記してきた諸記憶・時間・歴史の感触は複雑さを増す。

冒頭で述べた、矢野作品を視ることから得られる「人の生」の感触は、人の生はこうした諸記憶・時間・歴史の層の様々な配分と絡み合いに折り込まれているという感触、と表現できるような感触である。「人の生」と言いながら、しかし人が中心要素だとは感じない。中心は非人間的なものも含めた諸記憶・時間・歴史の総体であり、人の生はその部分として様々な形で折り込まれているだけである。作品を視ていると、視ている現在も私の生もすでに同様にその中に沈みゆく一部だという感触を覚える。私は矢野作品を、部屋に飾る絵画作品として独立した物体というよりも、生活の中に溶け込むものだと感じる。そう感じる一因はこの「人の生」の感触にあるのではないかと思っている。こうした感触を物理的に生み出すのは、作品の支持体、地塗り、点、線、色彩、形象、配置、構図、マチエール、という絵画要素で、こうした諸要素自体も極めて魅力的なので、私は矢野作品を「絵画作品」としても堪能している。

(1.1)(1.2)で述べた事柄を感じるのに、視覚と同じくらい触覚あるいは皮膚感覚が動員されている。このことは冒頭に「感覚」よりも「感触」の方がしっくり来る、と書いたことと繋がっている。

(2.1) 私が画面を一挙に視るという瞬間的な時間と、同時にすでに画面を視線が辿っているプロセスの時間(生理学的に視線は常に動いている)がある。視線の焦点を画面内諸要素にむけてみる。要素が要素として立ち上がるのに時間差あるいは複数の時間がある。焦点を移動させると、焦点を当てた箇所の周辺諸要素は視界の周縁部に時間差と強弱の差を伴って立ち上がる。こうした諸要素を巡る諸時間は、おそらく視線を集中する時間の差異、および要素を構成する色彩・密度・形態の配分の違い、に基づくのだろう。このような諸時間を伴いつつ、ある程度の長さ持続する一回の視る体験(私の場合は所有する10作品を視る体験)において(1.1)(1.2)で記した事象を体験する。

(2.2) 諸感覚は記憶と密接に結びついている。上述の諸記憶・時間・歴史の層は視る時々によって様々な組み合わせで感じられる。組み合わせはおそらく視る体験ごとに微妙に異なっている。矢野作品を毎日何度も視る。こうした絵画(鑑賞)「の」記憶が積層する。絵画「から」生じる諸記憶の層と、こうした諸記憶を絵画を視る中で感じたということの記憶の層とが混ざり合う。それに伴い諸感覚・諸記憶は変容する。また作品を視る。さらに諸感覚と諸記憶が変容する。この過程が繰り返し変奏される。

(3) 作品を視るとき、(2.1)(2.2)で記したことのみならず、これまでの私の体験(諸記憶・諸感覚)の常に変容している総体が動員されている。そうした総体を通路として(1.1)(1.2)で述べた感触が生じている。あるいはそうした総体として矢野作品に(1.1)(1.2)で述べたように感応する。誰でも代替不可能な諸記憶・諸感覚の総体であるのだろう。感応する人は人それぞれの総体の在り方に基づいたそれぞれの仕方で感応するのだろう。矢野作品に感応しない人もいるのだろう。

私の矢野作品を視るという体験を分析した。分析は細部を視るプロセスをある程度捉えているように思うが、述べたように、感触そのものは分析の結果、細部を視るプロセスの結果、生じているのではない。細部を視ることで豊かになるけれども、感触そのものは直感的で言語化されていないとは言え画面全体を視て一挙に生じていると感じる。この一挙に生じていると感じるというのはどういう事なのだろうか。全て諸記憶・時間・歴史の堆積に関連する(1)(2)(3)が一挙にこの感触という関係に凝固するのだろうか。そういう感じもするが違うかもしれない。よく分からない。「私が」「絵画を視て」「感触が生じた」が別々のことではなくその都度一挙にこの関係そのものとして現れるのだろうか。そういう気がしないこともないが違う気もする。よく分からない。

これ以上書くと作品を視て生じる感触の記述に後付け説明(捏造)が紛れ込んできそうな気配があり、これから先の視る体験がそうした捏造に拘束されそうな予感がするので、他文献への言及・他の画家との美術史的な比較・絵画技法の分析を一切欠いたこの文章を、ここで終わりにする。

10.24.2020 佐治幹英

2. 作品画像

テクスト中で触れた作品

廃墟の街2

「廃墟の街」(2015-2018) 410x275(mm) 油彩・インク・キャンバス

購入作品より参考画像

時と空間2(2)

「時と空間 (2)」(2019) 530x455(mm) 油彩・インク・キャンバス

フォルムの生成2

「フォルムの生成」(2015-2017) 333x530(mm) 油彩・インク・キャンバス

パウラとクララ

「パウラとクララ」(2019) 520x370(mm) インク・水彩・和紙

個展『歴層』展示作品より

「時と空間(3)」背景処理

「時と空間 (3)」(2017-2020) 910x610(mm) 油彩・インク・キャンバス

3. 諸情報

矢野静明 個展『歴層 (REKI-SOU)』

2020年12月4日(金)〜12月13日(日)
月〜金 17:00-19:30
土・日 11:00-18:00
* 12月8日(火) 休廊
* 最終日 (12月13日) 17:00まで
会場: Gallery Folio ギャラリーフォリオ (四ツ谷、東京)

矢野静明 絵画作品サイト (随時更新中)

**************************************

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?