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「山小屋ヘリ問題」の本質は、インフラ問題なのではないか?という話

(原稿中にものすごく急いで書いたので、もし文章が読み辛かったら失敬)ここ数日来、山登り界隈で話題になっていたのでご存じの方もいるかと思います。この問題、山とかにあまり縁のない方々には正直、何の話かが理解しにくいかもしれませんが。ものすごく要約すると…。

「これから先、この国の(山の)インフラを、誰が、どう維持するのか?」

という問題に行きつくんじゃないか?と個人的には思いました。発端は北アルプスの山小屋に物資を空輸するヘリの運航会社が、様々な事情が重なって今後それが難しくなってしまうかもしれない。もしそうなったら、山小屋の運営はどうなってしまうのか?という問題提起のブログからでした。

現在、山小屋の関係者の協力を得て遭難者の救助なども行われていたりして、悪天候時の避難場所でもあり、インフラ的な側面がますます強くなっているのですが。とはいえ「でも登山をしない人間には関係ないよね?じゃあ公的なインフラとは必ずしも言えないから、自助努力で何とかすれば?」というのが、だいたいの一般の人にとっての結論になるようです。

山小屋の運営の問題については他の方の発言も多いと思うので、自分としてはここで一つ、全く別の角度から根本的な質問をしてみたいと思いました。

登山とは、そもそも何なのでしょうか? 何で人間は山に登るのでしょうか?

これは諸説あると思いますが、自分の知りえた範囲の認識を書いておきますと…「よりよき人間であろうとするために、自分自身を鍛え上げる」ためにあえて困難な山に登るのだ、と言えるのではないかと考えています。

歴史をさかのぼると、大昔からの狩猟や信仰目的ではなく、山に登ることそのものを目的とした「近代登山」の発祥は、ヨーロッパのルネサンス時代にイタリアの詩人ペトラルカが、フランス・アビニョン近郊のバントゥー山に登った記録が最初とされています。同じくルネサンス期のヴィットリーノという文学者であり教育者であった人物も、弟子たちを連れてヴェローナ地方でアルプスのあまり高くない山に登ったという記録が残っているようです。

中世のヨーロッパでは、キリスト教的世界観に基づいて、山や森というのはキリスト以前からの得体のしれない邪悪なものが跋扈する危険な世界であり、魔女や悪魔の領域だとされていたので、ごく限られた職種の人間以外は足を踏み入れるものではないと考えられていたようです。なので、中世には現代的意味での登山の記録といえるものは今のところ見つかっていません。ルネサンス時代とは、封建的な「迷信・虚妄を啓く(ひらく)」ことを理想に掲げていたので、森や未開の山を開拓し征服することは、人間性の勝利と考えられるようになったのですね。ここから近代登山の歴史は始まります。

ここで重要なのは、ルネサンス期の登山は「ヒューマニズム」という思想に根差して行われていたということです。ヴィットリーノの登山はある意味、学校登山のさきがけと言われますが、ギリシャ・ローマ時代の古典の研究の流れを汲む「知・徳・体」の調和的発達を目的とし、精神の正しい形成のための身体の鍛錬、という体育教育の側面が強くありました。この全人的教育としての登山の流れが、欧州では後にロックやルソーを経て、18世紀後半のモンブラン登頂を契機としたスポーツ登山興隆後まで綿々と繋がってます。

明治時代の日本に、舶来の先進思想として輸入された近代登山も、このヒューマニズムの流れを受け継いだ…はずでした。少なくとも、最初期に日本に近代登山を持ち込んだ、いわゆるお雇い外国人らと接する機会のあった上流階級の子弟たちはそうだったでしょう。日本にも古来から信仰としての登山や物見遊山の伝統は根付いていましたが、明治以降の知的エリート層にとっては、「自分たちのやる登山はそういうものとは違う」という自負が強くあったようです。昔の登山の本を読んだりすると、そういう印象を受けます。

特に、登山の技術が測量や気象観測などの国家事業にも関わるようになったことから、物見遊山としての山との区別がより明確になりました。少し時代が進みますが戦後、各国のヒマラヤ未踏峰登頂レースに日本隊も参戦して、頂に日の丸を掲げるニュースに国民が熱狂したのも、このあたりに端緒がありそうです。書籍などの公式な記録は少ないのですが、戦時中に登山関係者が国策推進のために「ハイキングによる国民の健康増進計画」に大いに協力したという関係者の話も結構残っています(誰か纏めてくれませんかね)。

ちょっと横道にそれました。近代登山の歴史とはヒューマニズムに基づき、「自由、人間愛、フェアな精神の宿る強靭な肉体と、自立した近代的自我を育むための平和的なスポーツこそが登山である」として始まり、今でも欧米では精神のベースとしてそういう歴史が根付いていると感じます。何よりも個人の自律・自助、高い倫理観、そしてエコを志向するのも、自分以外の命も慈しむべきというキリスト教的博愛の精神から来ているかもしれません。

翻って日本ではどうでしょうか?近代登山の輸入以降、登山の精神史みたいな学問ってあるのかどうか寡聞にして知りませんが、今でもそこに何か高い理想のようなものは、存在するのでしょうか?戦前戦中の軍隊じみたスポ根的シバキ主義と、今儲かればそれでいいという目先の商業原理ばかりが優先され、「よりよき人間を育てるために」という登山の理念は、どこか遠くに置き忘れられてきてしまったのではないでしょうか?だからこそ、山に登らない人にとっては「山小屋問題」など他人事であり、営々と先人たちが築き上げてきたそのインフラが崩壊しようが「知ったことではない」のだと。

そうやって「自分の今いる半径数メートルしか見ない、狭苦しい現実主義」が勢いを得た結果が、この国の顧みられない地方の衰退であり、崩壊寸前でも更新されない道路や橋などのインフラ群であり、削減される一方の文化や教育、福祉の予算…なのではないでしょうか?「自分に関係がない」から。でも「人がよりよく生きる」ために、「よりよき人間を育てる」ために費やされる国民的なリソース(学校教育や文化的施設、公共交通機関など)を「インフラ」と広義に呼ぶとしたら、どこかで誰かがそれを支えているわけで。みんなの眼には見えないところで、家庭の中で、学校で、街で、自然の中でも、誰かがそうやって「よりよき個人であろう」としながら、自分なりの努力を続けてくれているからこそ、我々のこの社会は成り立っています。そのことに、今の我々は鈍感になりすぎているのではないでしょうか?

日本では国立・国定公園以外では、ほとんどの山林が私有財産とされているので、例えば相続する人が高齢化して手入れが出来なくなった山から倒木が下の住宅地に落ちてきても、今の行政では法律的になかなか手が出せなかったりします。相続放棄されて荒れた山などは、土砂災害や獣害のもとになることも多いのですが、やはり「私有」と「自己責任」の壁が厚いですね…。結局は「自分に関係がないから、どうなろうと知らない」と言い続けることで巡り巡って困ることになるのは「その自分」なのかも知れない?という。

これは不思議なことなのですが、海洋の問題を議論する時には「地球環境を守るため」という論調に反対する人はあまり見ないのに、同じ自然でも山岳の問題になると、同様に「地球の環境の一つ」という見方がされないんですよね。どこかで「もともと自分たちの領分にあるもの」「自分たちの好きにしていい所有物」みたいな意見が大勢になる。私有財産とかの法律面はあるとしても、環境論的な視点に立てば、海も山も同じ地球の一部のはずです。そう考えると、山にも「公共」の保護の理念は当然あってしかるべきで。

前々から日本人には「公共」の意識が薄いとよく言われますが、今回の「山小屋問題」の反響をツイッターあたりで眺めると、余計にそれを感じます。つまるところそれは、日本では自立した「個人」というものがそもそも求められていないから、その対になる概念としての「公共」も育たなかったのだろうな、と。「近代的自我を持ち、自立した個としての、よりよき人間」を育むために登山がかつてあったとしたら、現在の日本でそれが斜陽を迎えているというのは、つまり、そういうものを人々が求めていないからなのでしょうね。「理想の人間像」みたいなものが無い時代には、登山は単なる娯楽の一ジャンルに過ぎず、その存亡も商業的な競争原理の末路でしかないと。

ちょっと寂しい気もしますが、ようするに今この日本の社会で「山小屋ヘリコプター問題」が話題になったのも、そういう時代の趨勢なんだなあという気がしました。…さて。我々としては、ここから一体どういう未来を作って行けばいいのでしょうね?この問題の本質は、「山」界隈だけで留まらないはずだということを備忘録的に書いておこうと思ったのですが、思いのほか長くなってしまい恐縮です(汗)こんな雑文でも誰かにとって少しでも何かのお役に立てれば幸い…かなと。長々とお読み頂き有り難うございました。

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