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マチャー文徳

1990年代に本部御殿手が沖縄の取手トゥイティーを紹介すると、「取手なんて聞いたことがない」、「空手は突き蹴りの武術だ」、「捏造ではないのか?」と批判する人たちがいた。

しかし、おそらく同じころブラジリアン柔術が紹介され、格闘技における柔術技法の重要性が認識されだすと、「沖縄空手には、本来関節技や投げ技があったのだ」と言う人が徐々に増えていった。

もちろんこれは事実である。しかし、戦後一貫して取手を伝承してきた本部御殿手としては、こうした風潮には違和感も覚える。とくに「沖縄空手」という範囲は広すぎないであろうか。そんなに戦前の沖縄の空手家はみな取手をしていたのだろうか? 「沖縄組手の衰退」で述べたように、そもそも1980年代まで、沖縄の大半の道場は組手も(ほとんど)稽古していなかったのである。

糸洲安恒は「糸洲十訓」(1908年)の中で、取手には口伝が多いと述べていた。要するに、取手とは一通りの稽古を終えた者がその先に習う「秘伝技」であった。つまり、明治時代でも取手を習えるのはごく少数だったのである。

上原清吉は本部朝勇が会長を務める沖縄唐手研究倶楽部に、茶ワカサー(お茶係)として出入りしていて、当時の大家を数多く見ていたが、本部朝勇以外に取手を使う空手家を見たことがなかった。それゆえ、上原先生は「取手は本部御殿手のみに伝わる秘伝技だ」と言っていたのである。

しかし、上原先生は本部朝勇以外で投げ技を使う人を実はもう一人だけ見たことがあった。それが糸満に当時住んでいたマチャー文徳こと金城松である。

マチャー文徳

上の写真は柳宗悦の本に掲載のもので、彼がたまたま撮影した人物がマチャー文徳だった。

この一枚は非常に貴重なのである。なぜなら琉装の男はもう殆ど見かけなくなって来たからである。私達は偶然にこの珍しい場面を捕へることが出来た。しかも白い總ゝふさふさした頤髯あごひげの立派な老人である。

柳宗悦「琉装の男」より。

柳はマチャー文徳の琉装姿が珍しいと思って写真を撮った。当時でもすでに男性の琉装は珍しかったのである。まさか彼が武術の達人とは知らなかったであろう。

さて、上原先生以外にも、マチャー文徳の投げ技を目撃した人物がいた。それが剛柔流の比嘉世幸先生である。以下の話は、比嘉世幸先生が比嘉清徳先生に語ったもので、それを子息の比嘉清彦先生が記事にしたものからの引用である。この記事は海外へは翻訳されていて案外知っている人もいるようだが、日本ではほとんど知られていないので、ここで紹介したいと思う。

昔、糸満にマチャー文徳(金城松)という武士がいたが、彼は慶応3年(1867)の生まれで、中国福建省福州で空手の修業を積んでおり、奥義技を身につけているとの事で、剛柔流の開祖の宮城長順、その門弟の新里仁安、比嘉世幸、その他何人かが「ぜひ奥義をみせてもらおう」と、彼を訪ねたら、彼はハチマキをして、踊って見せた。比嘉世幸は「この翁は年をとって、気が変になっているな」と考えた。その時血気盛んな新里仁安が「では一つ立ち合いましょう」と怒って言い、翁に攻撃をしたところ、翁に庭に投げ飛ばされて、腰を打って気まづくなり、すごすごと一同引き上げた、その帰り道だれ一人口をきくものはいなかったそうである。同行の比嘉世幸が父(比嘉清徳)に語った話であるが、翁としては、本当の奥義を披露したというつもりだろうが、まさか柔らかい踊りが手になっているとは思わなかったのであろう。

月刊『青い海』1978年2月号、118頁。

マチャー文徳は残念ながら弟子を取らないで有名な空手家だった。それゆえ、彼の投げ技を継承する者は今日いない。上原先生が朝勇先生以外で投げ技を使う空手家を見たのは、このマチャー文徳だけである。朝勇先生とマチャー文徳とは交流があった。上原先生も新里仁安氏のように投げられた後、「ぜひ奥義を教えてください」と言ったところ、「按司前(アジメー、朝勇様)が奥義を知っているから、按司前から習いなさい」と言って、断られたそうである。

出典:
「マチャー文徳」(アメブロ、2018年8月11日)。note移行に際して加筆。

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