空手には「口伝」があった
糸洲安恒が晩年に記した唐手心得十ヶ条、いわゆる「糸洲十訓」(1908年)には、琉球王国時代の空手(唐手)の稽古法についての興味深い記述がある。
現代語訳
六 空手の表芸は数多く練習し、その動作の一つ一つの意味をしっかり聞いて、この動作はいかなる場合に用いるべきかを確定して練習すべきである。また入受け外し、取手の法がある。これらはまた口伝が多い。
「唐手表芸」は一般には型のことだと解釈されている。文脈から考えてもこの理解は妥当であろう。表芸の辞書的意味は「得意な芸」のことだが、ここでは「基本の稽古法」くらいの意味であろう。つまり、空手の基本である型は数多く練習すべしと説いているわけである。当時、型という呼称はまだなかった可能性がある。
次の「その動作の一つ一つの意味をしっかり聞いて、この動作はいかなる場合に用いるべきかを確定して練習すべきである」という一文は、現代でいう「分解」を指しているのであろう。型を漫然と繰り返すのではなく、動作の意味を考え、時には師匠に尋ねて実戦を想定して稽古すべきだと説いている。
「如何なる場合」とは「実戦のどの場面では」という意味であろう。この一文を読むと、糸洲先生は型を単なる「体操」と捉えていたわけではなく、「武術」として実戦にも用いることを否定はしていなかったことがわかる。
次の「入受はずし」は解釈が難しい一文である。以前、筆者はこの「入」は入身のことではないかと考えていた。ただ、以前紹介したように、安里安恒が突くという意味で「入れる」と語を使っているので、ここは突くという意味であろう。
続く「受はずし」は解釈が分かれる箇所である。その詳細は後述するとして、ここでは「受け方」としておく。
さて、「口伝」の意味は何であろうか。国語辞典(『大辞林』)を引くと以下のような説明がある。
これは文字通りの説明なので容易に理解できる。つまり、突き方、受け方、取手の技法の多くは、師匠が弟子に直接口で説明して教える、ということである。
しかし、口伝の意味はこれだけではない。さらに以下のような意味もある。
口伝には奥義や秘伝を口で伝えるという意味もある。日本武術の伝書には、よく技名を箇条書きしたあと、「右条々有口伝也」(右に書き記した各技法には口伝がある)と書かれていたりする。これは、伝書では技法名は書くがその内容は秘伝なので盗まれないように書かず、具体的内容は口頭で伝授するのである。
たとえば、「いままでこの技をこういう風に教えてきたが、実はこれでは実戦では使えないのだ。本当は、この技はこうやって使うのだ」と、それまで弟子に教えていた内容を否定するようなことが口頭で伝えられることもあった。実は本部朝基や上原清吉もそういう教え方をしていた。
現代武道の修業者からすると理解し難いかもしれないが、封建時代では武術の技は一種の「軍事機密」でもあったから、簡単に外部に漏れないように用心したのである。
したがって、上の糸洲十訓の意味は以下の通りとなる。
これは、「型の中に空手のすべてがある」とか「型の稽古だけをしていれば、分解はおのずからわかるものだ」という近代の沖縄で主流になった主張へのアンチ・テーゼである。
型の中にはたしかに空手の基本技が含まれている。しかし、それらの技はそのままでは実戦で使えない場合が多い。これは本当の技は盗まれないように型の中ではカモフラージュされているからである。また、取手のような投げ技、関節技は一人では稽古できない。突きや蹴りは一人稽古でもある程度技を磨くことはできるが、取手はそうではない。たとえば、関節の柔らかさや痛みへの耐性には個人差がある。同じように技を掛けても、人によって掛かったり掛からなかったりする。それゆえ、対人稽古は必須であるが、その極意は初心者の段階では教えられない。本当の秘伝技は、型、対人稽古の修業の段階に応じて、口頭で伝授されたのである。
こうした考え方、つまり本当の技は口伝を通じて教えられるという考え方は、薩摩を通じて日本武術の影響があったものと思われる。たとえば、薩摩の薬丸自顕流の起請文(入門願書)には、「口伝は書きとめてはならない」という一文がある。これは、口伝は秘伝なのでうっかり書き留めて外部に流出するようなことがあってはならないからである。
もちろん中国武術も秘密主義的であったが、口伝が日本武術の伝書に頻繁に現れることを考えれば、日本武術と同様の思想が沖縄にもあったと理解すべきであろう。
ところで、「糸洲十訓」の第6条について、上の理解は本当に正しいのであろうか。とりわけ「入受はずし」の箇所について、別の、あるいはより踏み込んだ解釈の可能性もある。実はこの箇所の解釈は空手史研究上、重要なのである。
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