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泊手の特徴

以前、アメブロの「本部流のブログ」で泊手を取り上げると、アクセス数が伸びる傾向にあった。これは国内、海外からのアクセス数ともにである。

どうやら泊手は首里手や那覇手に比べて未知のイメージがあるらしく、空手史に興味のある方の関心をそそるらしかった。

泊手は首里手や那覇手が辿った「近代化」の影響が薄く、それだけ古流空手(唐手)の特徴をよく残しているように思う。

さて、「松茂良興作の弟子」で紹介した松茂良先生の孫の松村興勝氏の『松茂良興作略伝』(1970)に、「泊手と首里手の拳の構えと相違」と題された一節がある。短い節なので、以下に引用させていただく。

○拳の構え
泊手は拳を乳房の下まで上げる。首里手は拳を帯の高さに構える。

○突きと受
突きも受も高さは首里手那覇手よりも、泊手は幾分上にあがる。

○肩の態勢
肩から手の先まで水が手先に流れるようなことの定義はおなじであるが、泊手は首里那覇手よりいくぶん上にあがっている。

45頁

上記の泊手の特徴は筆者も概ね同意であるが、ただこれは泊手に限定したものではなく、むしろ古流空手の一般的特徴だったのではないかと思う。

松村興勝氏が執筆されたのは1970(昭和45)年であるから、上記で比較されている「首里手」とは、糸洲安恒以降の「近代首里手」を指すのであろう。

首里手と一口にいっても、松村宗棍と糸洲先生との間に大きな相違があったことは、以前「ナイハンチの変遷」の記事で書いた通りである。

例えば、引き手の位置は、首里手でも、非糸洲系統や糸洲系統でも初期弟子では、乳房の下、つまり高い位置に構える傾向にある。本部流についていうと、本部拳法、本部御殿手ともに引き手の位置は高い。

上原清吉、万座毛、1963年。

突きを上段気味に突くのも、本部拳法、本部御殿手ともにそうであるが、この点について、本部朝基は昭和11年の琉球新報の座談会で下記のように証言している。

突き(拳)は、現在は前方に水流しといって下にさがっているが、昔はそんな手はなかった。真っすぐに、かえって上にあがる心持ちだ突くものだ。これは首里の松村の流れがほんとであると思っている。

たとえば、ナイハンチで側面へ諸手突きする箇所がある。糸洲系統では中段に突くが、本部朝基はやや上段に突いている。

『私の唐手術』(1932)より。

ここで本部朝基は松村先生、すなわち古流首里手ではそうだったと述べ、泊手に限定していない。思うに、空手が学校空手に採用された頃から、主に糸洲先生によって、突きや受けが上段から中段へ改変されたのではないであろうか。特に突きは相手の顔面に当たると危険なので、安全面から中段への変更は「学校空手」としては避けられなかったのかもしれない。

これに対して、泊手は学校教育に――単独では――採用されなかったので、それだけ「体育化(近代化)」の影響を受けなかったのであろう。

出典:
「泊手の特徴」(アメブロ、2016年7月29日)。


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