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松茂良興作の弟子

泊手の松茂良興作の弟子について、今日様々な書籍で異なった名前がその系統図に書かれていて諸説がある。

本部朝基は松茂良先生の弟子の中ではもっとも知られた弟子の一人のはずだが、以前沖縄県が出資して運営されていた空手を紹介したウェブサイト(既に存在しない)にある「泊手の系統図」には、松茂良先生の弟子の中に本部朝基の名前がなく驚いたことがあった。

残念ながら、こうした系統図は各流派の思惑も働くので、なかなか客観的な記載は望めない。

さて、筆者がいままで見てきた中で、一番よく調べられて客観的に記述されていると感じた松茂良先生の系統図は、孫の松村(旧姓松茂良)興勝氏の著書『空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝』(1970年)に掲載されている「武士松茂良空手系統図」と題されたものである。この系統図を以下に引用させていただく。

『松茂良興作略伝』53頁より。

この系統図は、松茂良先生の孫が当時泊に住む古老や空手家にインタビューをして作り上げたもので、もっとも信頼できるものの一つである。ここには本部朝基の名前も載っている。

また、先日紹介した「泊のナイハンチ」を受け継ぐ屋良朝意も、この系統図に「範士在大阪」として記載されている。

そして、この系統図を見ながら筆者は興味深い事実に気づいた。それは今日流布している泊手の系統図はこの松村氏が作成したものをもとにしており、松茂良の直弟子8人のうち、ただ本部朝基の名前だけが誰かによって削除されたものが広まっているということである。

おそらく本部朝基の名前は著名なので、その名前を削除すれば、相対的に自分の系統がそれだけ注目されると考えた人物がいたのかもしれない。

さて、松村氏の系統図も戦後の口碑をもとにまとめたものなので、今日の空手史研究の水準から見ると不足している点もある。特に近年では本部朝基の戦前の新聞記事も発掘されて、そこに従来知られていなかった松茂良先生の弟子の名前も挙がっている。

こうした一次史料に、「武士・本部朝基翁に「実戦談」を聴く!」(『琉球新報』昭和11年11月9、10、11日)があるが、そこで本部朝基は以下のように述べている。

「それは私が二十歳の頃のこと、亀谷とか屋部、それに私の兄などが泊の松茂良先生のもとへ教えを受けに行った時、先生から『受け手について』質問されたところ、彼らは一週間も頭を悩ましてなお解らぬのを聞いたので、……」

ここには上の系統図にはない、本部朝勇、屋部憲通、首里久場川の亀谷といった人物が松茂良の弟子として紹介されている。

また、喜屋武朝徳先生の「空手の思出」(『沖縄新報』昭和17年5月7日)と題された新聞記事にも、喜屋武先生が松茂良先生に師事されたことが記載されている。これらを図にすると下記のようになる。

厳格に学問的にいうと、戦前の一次史料から松茂良興作の弟子と特定できるのはこの図に記載の人物だけである。そして、このうち、本部朝基だけが松村興勝氏の系統図に名前が載っている。

このように、実際に松茂良先生に師事したと証明できる人物の名前が忘れ去られて、口碑としては伝えられていない事例が空手史にはある。空手史研究はまだ学問として見た場合、依然として未成熟な分野であるので、こうした史料調査に基づいて系統図を作成することは大切である。

出典:
「松茂良興作の弟子」(アメブロ、2016年7月13日)。

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