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泊のナイハンチ

戦前の大阪は日本最大の産業都市で、沖縄からもたくさんの人達が出稼ぎに来ていた。

彼らの中には、廃藩以降特権を失い、生活に困窮した士族出身の人たちも多くいた。生活は苦しかったが、彼らは「士族の嗜み」として、王朝時代の唐手や琉球舞踊といった教養を身につけている人も多かった。

さて、ここで紹介するのは宗家(本部朝正)の青年時代からの友人である普久原朝盛(ふくはらちょうせい)が継承していた「泊のナイハンチ」である。

普久原氏はその名字でわかるように沖縄出身だった。もっとも生まれは沖縄だったのか大阪だったのか、筆者は正確にはわからない。いずれにしろ若年の頃から空手を稽古してきた人で、大阪府南部では有名な空手家であった。

実は筆者も小学生の頃、普久原氏の道場「盛道館」に通っていたことがある。貝塚市立病院のそばにある常設の道場で、ちょうど空手ブームのさなかだったから、たくさんの道場生がいた。普久原氏は、筆者の子供の頃の印象では、やさしい立派な先生であった。

当時、普久原氏は本部御殿手の上原清吉に師事しはじめた頃で、それで「本部流」を名乗っていたが、その少し前は「少林流」を名乗られていた。もう道場は閉鎖されたが、いまも当時の道場の看板が残っていて、そこには沖縄本部流とともに少林流と書かれている。

盛道館の看板

宗家によると、普久原氏は上原先生に師事する前は、松茂良流の屋良朝意(やらちょうい)宗家に主に師事していたそうである。屋良氏は泊手の久場長仁の弟子で、やはり沖縄出身者で大阪では有名な空手家であった。

前列左から:屋良朝意、普久原朝盛、宮城調常、本部朝正、昭和50年代、大阪。

普久原氏は本部流を名乗られてからは、この経歴はおおやけにはしなくなったので、おそらく当時の道場生でも知らない人が多いのではないだろうか。普久原氏の道場も最初は屋良氏の「支部道場」だったのである。

屋良氏は松茂良流のHPを見ると、松茂良興作→伊波興達→久場長仁→屋良朝意、という系統の方である。また沖縄時代には、一時期、松林流の長嶺将真先生の道場で師範もしていた。

このナイハンチも、屋良氏から普久原氏へ伝授された泊のナイハンチである。これが「松茂良のナイハンチ」なのか「伊波のナイハンチ」なのか「久場のナイハンチ」なのか、あるいはそれらのミックスなのか、筆者には分からない。

また、これが唯一の泊のナイハンチと主張するつもりもない。あくまでも泊系統のナイハンチの一つである。

泊系統のナイハンチでは、沖縄の会派である剛泊会でも継承されていて、以前空手雑誌でも写真付きで紹介されていた。剛泊会のナイハンチは、泊の仲里睦弼(1835-1902)から伝わったものだそうである(注)。

剛泊会と松茂良流のナイハンチは、動作のニュアンスというか趣きは異なっているようであるが、やはり同系統のナイハンチであると思わせる共通点がある。それは、

・最初に左へ進行する。糸洲系統は右進行である。
・交差立ちのあとの手を突き出す動きは、糸洲系統の「背刀受け」ではなく、「背手打ち」である。
・立ち方は、やはり糸洲系統の膝を内側に絞る立ち方ではなく、四股立ちに近い、膝を開く立ち方である。

泊のナイハンチは本部流のナイハンチとも似ているが、運足は本部流はあまり足を高く上げずに静かに運足するのに対して、この泊のナイハンチでは足を高く上げる。

この運足について、宗家と普久原氏との間でちょっとした論争があって、普久原氏は「足は田んぼの泥濘から引き抜くように、力強く上げるべきである」と言っていたそうである。

本部朝基はこういうドスンドスンとした運足が嫌いだった。それはドスンと足を降ろして、もしその下に小石など鋭利なものがあった場合、足裏を怪我して危険である、と考えていたからである。だから、本部流では運足は高く上げ下ろししないのである。

こういう違いはあるが、やはりこの泊のナイハンチも昔の沖縄のナイハンチの特徴をよく残していると思う。泊系統のナイハンチは残っているものが少なく、残っていても糸洲のナイハンチの影響を受けていたりするので、この泊のナイハンチは古い時代の特徴をよく残す古流ナイハンチの一つであると言えるであろう。


注 渡嘉敷唯賢『沖縄剛泊会空手道――20年の歩み――』沖縄剛柔流・泊手空手道協会、昭和61年、36頁参照。

出典:
「泊のナイハンチ」(アメブロ、2016年7月10日)。

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