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本部朝勇の影響力

坂口拳風(三重県古武道振興会、喜屋武朝徳伝少林寺流)の「武道の修練は道を離れず」(1982)という記事に以下の一節がある。

上原清吉先生「談」
大正13年頃、本部朝勇先生は空手研究クラブで、喜屋武朝徳先生、摩文仁賢和先生、宮城長順先生など当時の大家を集め夫々それぞれに応じた使いの指導をされた。その指導の仕方は空手の大家であるゆえに、一緒に指導することはなく、名を傷つけないようという配慮から個人個人に指導したが、今日伝わっていることは、そのことは一切発表されていない(注1)。

坂口氏は三重県の空手家で、昭和51年(1976)3月に上原清吉宅を訪問してインタビューをおこなった。上記引用箇所はその一部で、上原先生が本部朝勇と沖縄唐手研究クラブの関係について述べたものである。

唐手研究クラブの目的は、当時の空手の大家たちが一般の生徒に空手を指導することであったが、同時に、会長の本部朝勇が当時まだ若手であった大家たちを指導するという「二重指導」の構造になっていた。

喜屋武、摩文仁、宮城各先生らも、唐手研究クラブで本部朝勇から指導を受けた方たちである。しかし、残念ながらこの事実は戦後一般には忘れられてしまった。その結果、唐手研究クラブで果たした本部朝勇の役割も正当に評価されないか、全く知られなくなってしまった。そのことを上原先生が残念がっていたということである。

さて、今日、糸洲安恒や東恩納寛量に由来するとされる型は多数ある。しかし、実際に彼らが教えたと文献から確実に証明できるものは、せいぜいその半分程度に過ぎない。大正末期から昭和初期にかけて、首里手や那覇手の型の数が急に増えて、それらは糸洲先生や東恩納先生が教えた型である、とされてしまった。

前回の記事で紹介したシソーチンもそうした型の一つである。このような型のレパートリーの急速な拡大の一翼を担ったと思われるのが、唐手研究クラブで会長を務めた本部朝勇である。

本部朝勇は唐手研究クラブ以外でも、夜に自宅で2、3名の弟子に型を教えるクラスを持っていた。上原先生によると、「教授していた型は30以上にわたっていたと記憶しています」という(注2)。どうしてこれだけの数の型を、本部朝勇は知っていたのであろうか。本部御殿には多くのヤカー(家庭教師)が来て武術を教授していたから、彼らから学んだのであろうか。

大正末期にこれだけの型を知っていた武術家は、沖縄には他にいなかったと思われるので、本部朝勇の知識は当時の若手の空手家からしてみれば、喉から手が出るほどほしかったものに違いない。

ちなみに、本部朝勇は取手や独特の拳の握り方等も教えていた。しかし、こちらも各流派には今日あまり伝わっていない。上原先生は、各大家はこうした技法は秘伝として自分のために取っておいて指導しなかったのであろうか、と感想を述べられていた。

注1 坂口拳風「武道の修練は道を離れず」『全国空手道選手権大会 日本空手道連合会会誌 25周年記念 第20回』日本空手道連合会、1982年、41頁。
注2 上原清吉『武の舞』BABジャパン出版局、1992年、90頁。

出典:
「本部朝勇の影響力」(アメブロ、2020年8月22日)。



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