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ヤカー

宗家(本部朝正)は子供の頃、父、本部朝基から次のような話を聞かされた。それは糸洲安恒やその他有名な武術家たち多数が本部御殿の邸宅を訪れて、彼や兄・本部朝勇に「手」を教えていたというものである。こうした家庭教師を沖縄方言でヤカーと呼ぶ。

ヤカーのもともとの意味は「守り役」である。昔は沖縄の御殿や殿内といった貴族の子弟の教育のために、ヤカーが雇われた。また、こうした子どもたちのために同じ年頃の子供を遊び相手として選ぶこともあった。この遊び相手もヤカーと呼ばれた。戦前の皇室にあった「ご学友」の制度に似ている。教師のヤカーはウフヤカー(大ヤカー)と呼ばれ、遊び相手をヤカーグヮー(ヤカー小)と呼んで区別した。

ウフヤカーには、武術に限らず、和学や漢学、歌三線など諸芸のヤカーがいて、子どもたちの教育のために招聘された。

本部朝基の『私の唐手術』(1932)に、以下の一文がある。

糸洲先生と言えば体格と言い、武力と言い、たしかに傑出した武人で、実兄が稽古する時には、毎日のように拙宅へ御出になっていた(1)

『私の唐手術』より

この一文は、おそらく武術のヤカーについて述べた数少ない記録の一つである。

琉球王国には武官の制度がなかった。そのため武術に優れた人はヤカーとして雇われ、貴族の子弟に私的に武術を教えることで収入を得ていた。

ほかにも義村御殿の義村朝義が、東恩納寛量をヤカーとして自宅に招聘している。彼は自伝の中で、東恩納先生からサンチンとペッチューリンを習ったと書いている。これもヤカーについて記録である。

ちなみに、義村御殿は本部御殿の親戚だった。また、両家の邸宅は、隣同士だった。

(1) 本部朝基『私の唐手術』20、21頁。

出典:
「ヤカー」(アメブロ、2016年2月5日)。

参考文献:
高宮城繁・新里勝彦・仲本政博編著『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年。324頁にヤカーの解説がある。

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