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「関係」「信頼」のコミュニケーション(1)
元イさんなのだ。持病の双極性障害が鬱ターンなのであんまり元気がなくてテキストに覇気がないのだが、ポツポツやっていくのだ。
前回のあらすじ
コミュニケーション能力とは、人と人との間に蓄積するもので、別の人に対してはまたその人との間に別に蓄積させるものである、というのが、前回の記事の雑な要約なのだ。
コミュニケーション上手な人は、別の人や別のコミュニティでも積極的にコミュニケーションをとって、迅速に蓄積させる人、ということなのだ。
つまり、雑にまとめるとコミュニケーション強者は人と有効的な関係を築くのが上手い、早い、ということになるのだな。
他人の存在と、他人の間にある見えないものをどれだけ認識できるかが勝負、みたいなところあるのだな。
爆笑問題・太田さんのラジオ発言
先日、Twitterで爆笑問題・太田さんがラジオでこういうことを語っていた、という話が流れてきたのだ。
ラジオでは、柳田國男さんの体験について語る小林秀雄の講演についてから始まるのだ。
ポイントは感受性、なのだ。
一つの現象をただの気のせいと思ってスルーするか、大事な「なにか」を感じとろうとするか、それが大事、という話だったのだ。
太田光:「そこに何かを感じて、受け取れるかどうかっていうのが、今の学問の一番足りないところなんだ。それを君たち、よく覚えておいてくれ」って、小林秀雄は言うわけですよ。
ここから話は大きく別の方向に展開するのだ。
相模原障害者施設殺傷事件なのだ。
2016年の事件なのだが、裁判などのニュースも流れてくるので記憶に新しい人もいるかと思うのだ。
元施設職員の26歳男性が、19人の入所者を殺害したのだな。
ラジオの文章を引用するのだ。
太田光:その時に思ったのは、人に伝えるコミュニケーションってものは、教科書通りじゃいかないっていうのと、これはシビアな話になりますけど、殺人事件があったでしょ?施設で。
田中裕二:はい。たくさんの方がね、亡くなって。
太田光:犯人の彼が…バカ野郎ですよ。それが言ってることがあって。要は、「意思の疎通ができない人間が、生きてても意味がない」って言ってるんです。
太田光:俺はね、それに凄く引っかかってるんです、いまだに。
田中裕二:うん。
太田光:コミュニケーションですよね。それで、僕は「意思の疎通ができないのはどっちだ?」って思ってるわけ。施設にいる人たちは、たしかに普通の言葉を喋れないかもしれない。色んな表現ができないかもしれない。
田中裕二:うん。
太田光:でも、彼らの周りには、彼らを大切に思って、彼らが生きていてくれなかったら困るって人、たくさんいて。彼らが「ウーッ」って言ったときに、「これは何を表現してるんだろうか」って、一生懸命受け止めようとしてる。つまり、小林秀雄の言うところの感受性ですよね。
田中裕二:うん。
太田光:それは、学問ではない感受性なんですよ。それを受け止めようとする人がいっぱいいる。それで、そこに伝わるものがある。つまり、コミュニケーションがとれないのは、あの犯人の方なんですよ。アイツは、色んなことを発信してるかもしれないけど、発信して「さぁ、受け取れ」って態度なんですよ。
田中裕二:うん。
「意思疎通のできない人間が、生きていても仕方ない」
これもある種の意思疎通、コミュニケーションについての問題なのだな。
被害者の人たちにはできない表現手段がたくさんあった、でもそのまわりには、その人たちが何を伝えようといているのか一生懸命に感じとろうとした人たちがいた、それこそ小林秀雄の言った感受性じゃないかと爆笑問題・太田さんは言うのだ。
感受性、受け止めようとする人たちがいて、初めて伝わるものがある、ということなのだな。
一方で、犯人のメッセージというのは、事件のwikiを見てもわかると思うのだが、伝わらないのだ。能弁で、書簡まで書いて、発信して、そして伝わらないのだ。
表現にとって大事なのは受け取る側の感受性
太田光:勘違いしがちなのは、表現っていうのは、表現の豊かさや表現のみが大切だって思うけど、そうじゃないんです。本当に大切なのは、受け取る側の感受性なんです。受け取る側に感受性を持つ人が、どれだけその人の周りにいるかってことなんです。
田中裕二:うん。
太田光:だから、自分の話を「面白い」と思って聴いてくれるくらいに、魅力的な人間であるかってことが、コミュニケーションが達者な人なんですよ。
田中裕二:うん。
太田光:つまり、受け取ろうとする人が、多い人がコミュニケーションが達者な人。それはつまり、赤ん坊なんですよ。
田中裕二:うん。
太田光:赤ん坊はまさに生まれて、言葉も知らない。何も言えないよ。俺は「辛かった…」とか言ったらしいけど。
田中裕二:ウソつけ(笑)
太田光:まだ、言葉の前の段階ですよね。だけど、母親っていうのは、言葉の泣き方一つで、「あ、お腹減ってんのかな?」とか、「おむつかな」とか色々思うでしょ。それは、コミュニケーションが達者なんですよ、赤ん坊の内は。というのは、受け取る側がいるから。
田中裕二:一生懸命、分かろうとするからね。
太田光:彼のことを分かろうとする人、誰もいなかったじゃないですか。あんだけ体中に入れ墨いれて表現しましたよね。ツイッターとかやって。でも、彼の言葉に耳を傾けようとする人は、1人もいなかった。1人2人いたかもしれないけど、諦めた。「コイツ、何言ってんのか」って思われて。
田中裕二:うん。
太田光:それよりも、彼が殺害した人たちの方が、よっぽどコミュニケーションしてるんです、人と。そこが僕はね、一番大事なことだと思う。
正直に、このラジオでの爆笑問題・太田さんの発言は胸に来るものがあるのだ…真に迫っているのだ。すごみのある文章、言葉なのだ。
そういうここで引用した太田さんの発言も、どれくらいのものが伝わるのかというのは受け取り手の、つまりいまこれを書いている元イさんの感受性次第でもあり、このnoteを読んでくださっている皆さんの感受性にかかっているとも言えるのだな。
いわゆる「コミュニケーションテクニック」というのは、
「話し方」
つまり、何をどうやって話すか、どう話せば伝わるのか、どう話せば人の心を引きつける話し方ができるのか
みたいな側面があるのだが、ここまでこのnoteで書いてることは真逆なのだな。前回のnoteも含めて「まず相手、他人ありき」なのだ。
前回は
他人と自分との間に個人的に蓄積されたものがコミュニケーション能力である
という記事、そして今回は
自分のまわりに自分の話を受け取ろうとしている人が多くいるのが、コミュニケーション達者である
という話だったのだ。
つまり「何をどう話すか」というような話ではなくて、
コミュニケーションの鍵は「他人」でしかないのだな。
おそらく長くなるので、話題提起の「起」のここでひとまず切りますのだ。
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