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「顔」の消失から<非―人間性>へ ー山元彩香、個展。

山元彩香さんという写真家の個展へいきました。
とてもよかったので共有したいと思います。
まずは、以下に参考の写真を載せています。

彼女の撮る人物は、顔が覆われていたり、横顔であったり、顔が見えても生気を欠いているのが特徴的です。その人物の写真は、「普遍的な人間の姿」「無意識の姿」と形容されています。私たちはその写真をみると、美しさや静謐、不気味さ、妖しさといった様々な感情を思い浮かべるでしょう。単純な言葉では言い切れない深淵なものに、「普遍」「無意識」という言葉をあてがいます。

ではなぜそのような思いを抱くのでしょうか。
彼女の写真の特徴を言い換えるならば、<非―人間性>ということができると思います。それは被写体が「あまりにも人間からかけ離れた存在」であると同時に、「あまりに誰よりも人間らしい存在」ということです。

「顔」は人間にとって特に重要な情報と呼べるでしょう。免許証の写真には「顔」が写っており、「顔」によってその人が特定できます。指名手配でも、「顔」によって犯人を特定し、それが手足や首といったことはありません。もちろん、私たちが誰かと会うときも、「顔」がわからなければ人物を特定することは難しいでしょう。このとき、「顔」は名前と同様のラベルとしての働きをしています。
また、「顔」は喜怒哀楽を示す表情をもっています。怒っている人がいれば警戒しますし、泣いている人がいれば心配します。人間の感情の機微をいち早く教えてくれるのも「顔」です。私たちは意識せずとも、「顔」を注意深く視ているのです。

そうした「顔」が隠されると、その人物の表面をなぞることが困難になります。そのとき、私たちは本当に視なければならなくなるのです。しかし、それは作者がそうした効果を狙って行っているのではありません。作者は単に「顔」を隠しているのではなく、「顔」が消失し、人間が人間でなくなる一瞬を捉えているのです。例えば、次のように述べられています。

ファインダーをじっとのぞいていると、さっきまで見ていた彼女ではない「何か」に変化する瞬間が存在する。それはこの世のものとは思えないくらい崇高かつ理解を超える瞬間で、心が震えるのを必死に落ち着かせながらシャッターを押す。その一瞬は、彼女に蓄積されてきた時間のレイヤーや彼女らしさと呼ばれるものを全て取払い、自身も気づかず内に宿している「何者か」を露にする。(山元彩香「We are made of Grass, Soil, and Trees」P6)

人間を人間そのものとして視ようとするとき、「顔」は自然と後景化するでしょう。「顔」が「顔」でなくなっていきます。顔も、手足も、胸も、腹部も、すべてを同質に視る努力を経ることで、人間の表面的な理解を超えた人間の内にある「何者か」が露わになるのです。彼女の制作方法もまた、それに則しているものと呼べるでしょう。東欧の田舎で、言葉の通じない少女と手取り足取り接触を交えながら、視線を誘導し、撮影をする。この過程を経ることで作家自身の感覚と本能が研ぎ澄まされると自身の言葉で述べられています。

山元彩香さんの写真というものはある系譜に基づかれるべきだと思います。膝上から全身を写すとき、それは画家ハンマースホイのそれであり、ウェストから頭にかけて人物が無表情で撮られるとき、それは映画作家ロベール・ブレッソンのそれであるのです。これらは表面的な類似ではなく、彼らが魂や祈りといった深淵なものを直接に扱うことで生まれる響きの共通性といえそうです。これらは世間でいわれる「生き生きとした」「生命力あふれる」といった形容とは無縁でありながら、人間の本質に根ざしているがゆえの生的な傾向を有しています。<非―人間性>、つまり、一般的な常識としての人間から、人間が人間の内に有している記憶や時間、魂を露にするという生成変化こそが彼女の作品が「普遍」「無意識」と呼ばれる理由だと思います。

最後に、ロベール・ブレッソンの次の言葉を引いて終わります。

創造すること、それは人物や事物を歪曲したりでっちあげたりすることではない。それは、存在する人物たちや事物たちの間に新たな諸関係を取り結ぶことだ、しかもそれらが存在しているままの姿で。(21)

(ヴィルヘルム・ハンマースホイ)

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