見出し画像

カメラは機械である ー畠山直哉・木村伊兵衛より

前ページで、畠山直哉さんの「自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの」という考えを取り出し、その説明をしました。そこから、「みえないもの」「豊潤な世界」「外の世界」のほかに、「崇高」や「スペクタクル」という言葉が引用されました。

立ち止まって考えてみると、なぜこのような思考が一部の写真家、写真作家において成熟されているのでしょうか。「自然」というものを扱ってきたのは、昔であれば、死をあつかう宗教家(牧師、住職、シャーマン)であったり、日本の芸能であれば、能楽師や茶道家ということもできるでしょう。あるいは、近代化以前は、職業にわける必要もなく、「自然」というものが身近に存在していたという言い方もできるでしょう。近代化後、「自然」という概念が形成され、人間と「自然」が分離したのちに、再びその両者の関係を再構築する回路があったと考えることができます。その接点となったのが「カメラ」である、そのように考えることができるのではないでしょうか。

いまや「カメラ」は単なるイメージ生成機になってしまったといっても過言ではないでしょう。しかし、「カメラ」そのものの原理は不変であり、それについてより考える必要があります。ではその原理とはなんでしょうか。畠山さんは、ボードレールの「謙虚な召使い」というカメラを喩えた言葉を用いて説明しています。つまり、「謙虚な召使い」とは、その機械のように精確で、主人に口答えせず、黙々と用をこなし、働くことを決して止めない、そんな有能な召使いという意味です。次のように話は展開します。

自分の仕事のために雇った、この機械のように黙々と仕事をこなす謙虚な召使いは、主人公の世界などではなく、主人の現実の世界に身を置きながら、見事に主人への奉仕を続けている。主人の方は想像世界の領域に生きていますが、この謙虚な魔法使いの方はそのようなことには無頓着で、徹頭徹尾、現実に留まり続けています。謙虚な召使いの、この徹底した現実性によって、主人の想像世界の領域は常にリフレクション(反射=内省)の対象となるでしょう。時に謙虚な召使いの思いもよらない動作によって、その後の主人の想像世界の領域が変質してしまうことすらあるかもしれません。
突飛な想像でしょうか?でも写真の機械性を肯定する、とは、それまで芸術とは見なされず、むしろ芸術の足を引っ張っていたとされる写真の機械的な性格。つまり冷たさ、精確さ、強力さ、完璧さ、融通のきかなさ、公平性、愚鈍さ、故障したり壊れたりすること、偶然性、無関心性、反人間性、といったようなことを「肯定する」ということでしょう。これは他者としての「召使い」を肯定する、ということにほかならないんじゃないでしょうか?(畠山直哉『話す写真』P242、243)

「カメラ」が機械であることは自明であり、私たちはそれについて考えることもありません。日々、その便利さを享受しているだけです。しかし、この「カメラ」の機械性について、優れた写真家はその性質をよく理解しています。次の文章は、木村伊兵衛(1901―1974)によるものです。

カメラは機械である。
意思も感情もなく――一定の条件をあたえて一定の時間に一定の空間をシャッター付けると、にべもなくきまりきった映像がとれる――。
乾板だ。フィルムだ。レンズだ。
それ等は明瞭に物質で、そしてそれ等はうたがいもなく存在している。
レンズを通して光線が入って来る。乾板或いはフィルムに感光する。薬品は数字的である。数字的なものに依って、それはその感光膜を表して来る。
印画紙はその化学変化を整調の黒白灰の三色によって表わす。
それを写真と言う。
そして実に、実にたったそれだけの事である。
(木村伊兵衛『僕とライカ』P79)

「カメラは機械である。実にたったそれだけの事である。」ただそれだけのことを木村伊兵衛は何度も書いています。「カメラが機械である」ことを確認することは私たちの想像以上に難しい問題なのかもしれません。「カメラ」の機械性とは、「謙虚な召使い」であると同時に、「カメラ」が人間の原理を超えた知覚であることを意味しています。もはや、それは手のつけられない怪物といってもいいかもしれません。「カメラが機械である」という言葉を繰り返す木村伊兵衛は、この手懐ける事のできない怪物といかに向き合うかを何度も問うているのでしょう。「カメラは機械である」=「カメラは人間ではない」といった当然の道理がここにあります。木村伊兵衛が「カメラ」と向き合った末に、たどり着いた困難だともいえるでしょう。では、なぜただの機械(からくり)である「カメラ」が人間の原理を超えていることができるのでしょうか。もちろん、それは知覚において「自然」に属しているからにほかなりません。

「カメラ」は、三次元を二次元に変換し、被写体は被写体そのままに写される、部分ではなく全体を一挙に把握できる、こうした性質は人間の知覚ではないことは明らかです。このとき、「カメラ」は「自然」を人間のそれとは異なる原理で受け止めています。このときの写真とは、人間の知覚を超えた質量そのものの世界と機械によって生み出される、人間にとって不気味なものとも呼べるでしょう。一部の写真家は、この「カメラ」を通じた「自然」と向き合うことになりました。この現象は、機械性という本来、利便性や効率化のために作用し、人間と「自然」の分離を進める性質が、反転して、人間に「自然」を啓示する性質を帯びてしまったということができます。これは自動車や工場とは異なる「カメラ」だけがもつ機械の性質なのです。無論、私たちはこうした意味で変質しているかというとそういうわけにはいきません。「カメラ」がそのような性質をもっていても、それを活かした写真を撮る人は後にも先にも数少ないでしょう。それでも、この関係に基づく写真家、あるいは、芸術家の系譜というのは確かに存在するでしょう。

最後に、畠山さんがまとめたロラン・バルトの言葉で終わりにしたいと思います。

死が象徴的なものではなくなった一九世紀後半からの時代に、死が宗教的なものの中にはもはや存在しないとしたら、写真映像という場所に存在するのだろう(畠山直哉『話す写真』P157)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?