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ルイジ・ギッリの言葉 ー「ふつうのイメージ」

自分の写真観を説明するために、偉大な写真家の文章を拝借したいと思います。

今日は、ルイジ・ギッリの「写真講義」という本です。ギッリは画家ジョルジョ・モランディのアトリエ撮影の写真が有名です。30歳ごろから49歳で夭逝するまでのわずか20年弱の間、写真での制作を行いました。日本では昨年、個展が開かれ再評価されています。上記の画像は、「写真講義」の背表紙で、モランディの作品を撮影したものになります。シンプルで、温かみのある作風が特徴です。

ギッリの「ふつうのイメージ」

私にとってギッリは「写真とは何か」「みるとは何か」を考えた写真家です。そのため、コンセプチュアルで、形而上学的と呼ばれることもありますが、その思想と写真はいたってシンプルです。

見たこともないセンセーショナルな創作をするより、記憶やすでに書かれた歴史そして人々のイメージ記憶に働きかけながら驚きを喚起しようとしたのです。人々の記憶、思考、関係性のなかに隠れているものを引き出す方が面白いと私は思うのです。魚眼レンズを買ってきて、見たこともないアカデミア橋やアルセナーレを撮るよりもずっと遊べますし、楽しいのです。…私にとっては、こうした探究こそが制作の喜びや楽しみであり、最終的には、それこそが素晴らしい遊びになるのです。(『写真講義』P176)

さて、この一文だけでギッリの立ち位置は明確になります。おおよそ、写真家と呼ばれる人種は、喉から手が出るほど「特異なイメージ」というものを探し回っています。報道写真家であれば、焼身自殺する人や飢餓で苦しむ子どもを撮りたいと考えるでしょう。風景写真家であれば、「絶景」を求めて地球のどこへでも行きます。あるいは、例えば、蜷川実花さんの写真のようにそれだけで個性が溢れているものもあります。しかし、ギッリの撮る写真はどこまでも「ふつうのイメージ」です。その表面的には「ふつうのイメージ」は、「人々の記憶、思考、関係性のなかに隠れているものを引き出す」何かが宿っています。それに必要なのは、ギッリの視覚であり、思考であるといえるでしょう。

私は見えるものとそうでないものについて問い続ける方がいいのでそうしているだけです。現実のなかにどのような神秘の場所があるか、計り知れない場所があるかを見せる方が私はいいと思いますし、そうした場所は写真イメージの面白みも決定づけるのではないかと考えています。(『写真講義』P182、183)

ギッリは、初期の作品で広告物自体を撮ったり、地図自体を撮ったりといったコンセプチュアルな作品も制作しています。「見えるものとそうでないものについて問い続ける」ことは、すでに初期の段階から考えられていたでしょう。そうしたイメージの探究の延長線上に「ふつうのイメージ」は現れてきます。その深層には、過去の作品の思考が混じり合っているのです。彼の思考と視覚は、日常という現実に神秘的なものを見出し、その写真は「特異なイメージ」になりえるのです。まさに、それは人間の探究が生む最も困難な作品と呼べるでしょう。

写真はボケでも、個性でもない

ギッリは次のようにも言っています。「私がピンぼけの背景の写真を撮らないのは、なにより視覚的に好みではないのと、やや下品だと思うからです。(P185)」多くの写真家が耳が痛いのではないでしょうか。私たちは高価な明るい単焦点をもつと、背景がボケた写真を撮りがちです。そして、それが上手な写真を呼ばれているでしょう。ここに写真作家と職業写真家の違いがあると思います。上手でキレイな写真が撮れることが職業写真家としての条件です。しかし、写真作家は「上手」「キレイ」という価値観から抜け出して、探究を行う人々です。ギッリからすれば、彼の探究にボケは全く必要がないのです。また、ギッリは以下のようにも述べています。

私は、一枚の写真のイメージを超越し、続いて行く物語のようなものを考えながら写真を撮っています。そのため、私の写真には消失点や消失線が残っています。ともかく、一枚のイメージのなかに自分を閉じ込めないようにしています。(『写真講義』P179、180)

ここで述べれれるイメージを超越した物語とは、単なるストーリー性ではないでしょう。より大きな普遍的な秩序と呼べばよいでしょうか。単なる自分の表現にとどまるのではない、非完結的なイメージの重要性と読めるでしょう。言い換えれば、「上手」「キレイ」という価値観からの脱却ともいえます。私たちはこの言語化し難い、みえない何かを感じることができるでしょうか。ギッリの写真にはそうした感覚が満ち溢れています。

私はギッリの写真を「ふつうのイメージ」と呼びましたが、それは決して普通ではありません。その中心には、彼の思考と視覚があります。「見えるものとそうでないものについて問い続ける」という途方もない問いを探求すると、余計なもの(ボケや「キレイ」という価値観)は捨てられ、よりシンプルに対象と向き合う必要があります。そうして深化された先に、「ふつうのイメージ」が生まれるのです。カメラと身一つ、思考と視覚、写真作家が作家であるための条件は極めてシンプルといえそうです。


(以下の写真は、自分の写真です。人の背中を撮ることを続けています。「人々の記憶、思考、関係性のなかに隠れているものを引き出す」何かを感じるからです。一方で、F2.0で撮っているので背景はボケています。一応、狙ったのですが、ギッリのいうようにより平滑に撮りたいと思いました。)


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