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ジョルジュ・ルオー展から映画『きみの鳥はうたえる』へ

A『ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ』

ジョルジュ・ルオー(1871―1958)、キリスト像や聖書といった宗教的な主題を描いた画家です。「聖なる芸術」「宗教絵画」といった言葉が現代において用いられるにふさわしい稀有な画家といえるでしょう。たとえば、今回の図版には以下の紹介がされています。

独自のキリスト像を描き始めたのは、国立美術学校を退学し、新しい画風を切り開いていた1904年頃のことです。以後、表現主義的手法で自身の日常を取り巻く都市の風景や市井の人々を描く中で、キリストの真実を追求する作品もまた数を増していきます。ルオーは、伝統的な図像を取材しながらも、確固とした独自の様式で、「聖顔」、「聖女像」、「受難のキリスト」、「聖女の風景」など、宗教的な主題を絵画化しました。そうした主題を通して、人間の苦痛、あるいは慈愛や赦しを表現したルオーの聖なる芸術は、同時代の社会や人間に対する画家の深い共感と理解から生み出されたものであり、それ故、内向的なヴィジョンにとどまらないアクチュアルな問題を訴える力がありました。(図版ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ、主催者、P3)
ルオーは間違いなく、20世紀において、聖なるものの表現、すなわち神の神秘と向き合う芸術の挑戦を非常によく理解することのできた画家に位置付けられています。見る者と絵画との対話的関係を再び重要視する必要性の中で、画家自身は自らの制作を「熱心な信仰告白」と定義していますが、それは同時に信仰の手段でもあるのです。(図版ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ、バルバラ・ヤッタ、P4)

ルオーの初期の作品は、市井の人々、貧民や老人といった悲しみにくれる人々を重苦しいモノクロの色調を水彩によって描いています。「生きるとは辛い業、でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」とルオーがいうとき、それは生涯にわたる彼の仕事の主題をよく表しています。同時に、すでにキリスト像といった晩年の主題もまた現れています。初期の人々の苦しみと愛は、その後のキリスト像へと溶け込んでいっているといえるでしょう。中期以降のキリスト像は、しだいに明るい色調を帯び、油彩画となることで物質的な厚みをもちます。私たちがよく知る中期以降の絵画は、現代でも人々を感動させるに足る絵画を視ることの喜びを与えてくれます。

どうやら、この感覚は同時代的にもあったらしく、フランスの教会が中心になって行われた「宗教芸術運動」において、宗教的な力を近現代においてアクチュアルなものとして表現する芸術としてルオーが活躍しました。しかし、彼は決して「宗教」「芸術」という枠組みに身を任せていたわけではありません。「聖なる芸術というものはないのです。しかし、信じる者の聖なる芸術、信仰をもつ者の芸術、もはや見世物ではなく行為である芸術、深淵を探る芸術、そして『ミセレーレ』はあります。」という言葉にもあるように、既存の宗教絵画や教会の制度とは距離を置き、自身の能動的な行為として制作をしていました。彼のその宗教的な資質は芸術の普遍性を獲得し、その絵画は現代でも真に新しいものといえます。

B 映画『きみの鳥はうたえる』

函館郊外の書店で働く「僕」は、失業中の静雄とアパートで共同生活を送っていた。ある日、「僕」は同じ書店で働く佐知子とふとしたきっかけで関係をもつ。彼女は店長の島田とも関係を持っていたが、その日から、毎晩のようにアパートへ遊びに来る。夏の間、3人は、毎晩のように酒を飲み、クラブへ出かけ、ビリヤードをする。佐知子を束縛せず、静雄と出かける事を勧める「僕」。3人の幸福な日々も終わりの気配を見せていた…。

函館に生きる3人の若者による他愛のない日常、一言でいえばそういう映画です。しかし、見終わった後に、いろいろ考えてみると監督はおもしろい試みをしているように感じました。

これは「夜」を描いた映画です。デジタル技術の発展もあり、近年では夜の路上、夜の一室といった照明の条件が悪い場所でも、わずかな光によって克明に「夜」を描くことができます。そして、この「夜」の時間が長いことが、若さ特有の焦燥感やいらだち、けだるさをよく表現しているのでしょう。あの、永遠に終わることのない、そんなように感じられる「夜」の時間が、そのまま映画の時間へと転写された、そういう風に感じられるのです。恋愛、酒、音楽、ダンス…そういったものが「夜」において混沌としていきます。だから、3人の恋愛模様というのは「夜」の別の表象であり、佐知子と静雄は2人で「夜」にいないのです。物語に沿うように、しだいに、「夜」が後退していき、「昼」が強くなっていきます。静雄は母によって無理やり「昼」の存在になります。最後のシーンは、「夜」と「昼」の中庸として「夕日」が出てきます。「僕」は「夜」の世界から一歩飛び出し、佐知子という「夕日」の存在そのものと向き合うことになります。つまり、このように映画の世界の時間性に物語がついていくのです。以上のように考えると、映画監督・三宅唱の作家としての挑戦的な試みだと思いました。

A×B 「生きるとは辛い業、でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」

フランスの市井の人々がもつ生活の苦痛が、キリスト像の愛、信仰へとつながること、一方で、現代の函館の若者が単調な日常を過ごし、それを「夜」や「昼」といった時間が司っていること。この2つは一見、何も関係がありません。厳格な宗教絵画と、今どきの青春映画。それでも、この2つは根底に日常や生活を讃歌するという意識があります。若者の生活にも労働者としての苦痛があり、若者の恋愛にも本物の愛というものがある。それは一見、軽薄なものにみえても、ルオーならそこに神を見出すでしょう。「神」というと大げさに聞こえますが、超越的いう意味で「夜」もまた人間が抗うことのできない混沌とした力をもっているといえます。この映画にはそれだけの射程があるのです。

「生きるとは辛い業、でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」、あまりにも重い言葉のようでいて、わたしたちのそばに寄り添う優しさもある、そんな言葉です。


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