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アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉①

アンリ・カルティエ=ブレッソン。戦前から戦後に活躍した写真家で、説明するまでもなく、有名なスナップショットの名人です。「決定的瞬間」という言葉を知っている方もいるでしょう。

有名な話ですが、この「決定的瞬間」は、1952年にアメリカで出版した写真集の名前です。ところが、フランスでの原題は『Images a la sauvette』で「逃げ去るイメージ」となります。この違いは、思いのほか大きく、ブレッソンの作家性に関わるでしょう。たとえば、彼は「決定的瞬間」において次のように述べています。

現実がくりひろげる世界はじつに豊潤だ。私たちはそれをありのままに切り取り、しかもその本質を簡潔に見せなければならない。けれど、はたして本当に見せるべきものを切り取れているのだろうか。カメラを構えながら、私たちはつねに自分の行動を冷静に判断する必要がある。ときには最高の写真をものにしたと感じながら、つづく出来事の展開に確信が持てず、私たちは撮影を続行する。しかしそんなとき、慌てて機械的に、機関銃のようにシャッターを切ることは避けたい。余計な下絵は記憶を妨げ、明確な全体像を見失うだけだ。(『こころの眼 写真をめぐるエセー』P31)

ブレッソンはこの「決定的瞬間/逃げ去るイメージ」に直接言及はしていませんが、この引用からも多くのことがわかります。「決定的瞬間」という言葉は、完璧な構図、タイミング、光で撮られた完全なイメージを想像させますが、そうではないことがわかります。たとえば、現代なら4K映像で被写体を撮影し、1秒24コマ30コマの中から完全なイメージを取り出すことが可能です。しかし、ブレッソンが求めていたものはそれとは違うということです。記憶をもった人間がおり、そして、豊潤な世界がある。その連関において、シャッターは切られるのです。つまり、カメラが好き勝手に世界を切り取ってくれるのではなく、写真家の身体が感覚することが必要とされているのです。このことは次の一文にも同様に述べられています。

命あるからこそ、私たちは自身の内面を発見すると同時に、私たちをとりまく外の世界を見いだす。世界は私たちを形成するが、私たちも世界に働きかけることができる。内と外、そのふたつの世界の間には均衡がなければならない。絶えず会話をかさねることでふたつはひとつの世界になる。そして、そのひとつになった世界こそ私たちが伝えるべきものなのだ。(『こころの眼 写真をめぐるエセー』P46)

なるほど、写真を撮っている人なら「内と外の均衡する瞬間」というものがわかるのはないでしょうか。そしてそれは確かに「決定的瞬間」でもありますが、「逃げ去るイメージ」の方がその感覚を上手く表現できているといえるでしょう。これは前記事でのルイジ・ギッリの言葉を借りれば、前者には「見たこともないセンセーショナルな」イメージであり、後者は「人々の記憶、思考、関係性のなかに隠れているものを引き出す」イメージということができそうです。また、このブログで探究している人間を超越した「自然」への感覚というものをブレッソンももっていたといえるでしょう。


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