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アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉② ー「アナーキー」の思想

前記事ではアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」と「逃げ去るイメージ」の違いについて書きました。

「内と外の均衡する瞬間」という言葉からもわかるように、「わたし」という内側の世界と外側の世界というふたつの世界があります。外側の世界は、この世界それ自体のことなので、普遍的なものです。一方で、創作や作品に直接影響を及ぼすのは、「わたし」の世界です。ブレッソンにおける「わたし」の世界とはどのようなものだったのでしょうか。

私にとって写真は、世界を理解するための、ほかの視覚的表現と切り離すことのできない手段のひとつ。おさえきれない叫び、こころを解き放つ手段。自分の独創性を明らかにするとか、主張するものではない。生きる術なのだ。
アナーキー、それはひとつの倫理だ。
仏教は宗教でも哲学でもない。自らの精神を抑制し調和に向かわせる。そして憐憫の心で他者にもそれをわけあたえる。(『こころの眼 写真をめぐるエセー』P24)

ルイジ・ギッリのときと同様に、独創性やセンセーショナルさというものは彼らにとって重要ではないのです。「おさえきれない叫び、こころを解き放つ手段。」というように、身体として切実な行為と呼ぶにふさわしいものでしょう。写真というメディアの性質上、静的ですが、その中身はたぎるような熱情、それはダンサーに近い何かがなければならないのです。

そして、ここで、「アナーキー」という言葉がでてきます。「アナーキー」とは「無権力、無支配」という意味であり、「ヒエラルキー」の「権力的、階層的」という言葉の対義語です。それを仏教、東洋思想を例に説明し、これを倫理だといいます。写真において「アナーキー」を考えるならば、写真というものには「アナーキー」の思想が潜在している、写真という行為が生きる術として「アナーキー」を自身のうちに現実化しているといえるでしょう。次の文章は「アナーキー」の思想を写真に寄せた形で読むことができるでしょう。

これまでに一度として「写真そのもの」に情熱を傾けたことはない。私が愛するのは、自らをも忘れる一瞬のうちに、被写体がもたらす感動と形状の美しさを記録する写真の可能性だ。そこに現れたものが呼びおこす幾何学だ。(『こころの眼 写真をめぐるエセー』P26)

「写真そのもの」にも隷属しないというアナーキストとしての宣言にも聞こえるわけです。私たちは強く批判されているともいえます。アートに従属し、写真に従属し、世間の評価に従属しているのではないでしょうか。それはブレッソンにはまるで興味のない話でしょう。ブレッソンが愛するのは、外側の世界それ自体です。世界それ自体の側に、感動と美しさがある。それは幾何学、つまり、個人の独創性や才能に拠ることのない真に自由な外の世界そのものと「わたし」の関係なのです。「アナーキー」の思想、その倫理の射程はこの範疇にまであるといえるでしょう。

なぜ私が執拗に作家の言葉を探すのか、それは現代の芸術において思想が最も欠けているからです。アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真と、ブレッソンのような数多ある写真は、表面的には限りなく近しいものです。しかし、そこには途方もない“差”があります。私はこの差は「アナーキー」の思想だと考えています。有名な作家を表面的になぞるのではない、真にアナーキーであることを探究することが重要でしょう。


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