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私を縛る身体と言葉

文章を書いて生きてきた。

作家として生計を立てているわけでも、それを本気で目指したわけでもない。ただ、精神のアウトプットとして自分には文章があり、呼吸のように、誰にも発表せずに書き続けてきた。もう、年齢にして1桁のときからだ。
絵が描けたならば絵で、音楽ならば音楽で表現できたかもしれない。そうすればもっと多くの人に届いたかもしれない。が、私の傍にいたのはいつも言葉だった。静かな夜、自分の奥底に沸騰することばの断片と向かい合うとき、私こそが私であり、私以外の誰も私にはなれないのだ、と思うことができた。

当時の文章は大半が消失した。ワープロ全盛でフロッピーすらない時代のことだ。その後ネット黎明期に放流したごくわずかの言葉がデータの海に沈んでいるかもしれないが、それはきっと、役目を終えて海底に眠る化石が、さらに時間をかけて砂に還るのを待っているようなものである。過去とはどこに流れて行くのだろうと思いを馳せることがあるが、言葉もまた、時間のようなものなのかもしれない。

もう二十年以上前、言葉に関する職を探してとある大学に通っていた頃、担当教授にこう言われたことがある。

「君はクリアでクレバーだけど、身体感覚に欠けてるんだよね」

その大学に入る少し前、私は詩と短歌と俳句を詠んでいた。
高校時代に私に俳句を叩き込んだ師匠曰く、俳句は究極の断面、短歌は物語、詩は絵巻であるらしい。「いまの君には31文字は多すぎる」というのが師匠の口癖だった。
もちろんどんな表現であっても、五感で受け止めたものを言語化するプロセスは変わらない。だが、最終的なアウトプットである17文字や31文字と向かい合うと、感覚を凝縮するために必要なのは、言葉を捨てていくことだった。

削ぎ落とし、言い換えて、喩えて、記憶からなんどでも五感を呼び起こしては追体験し、また削ぎ落とし、言い換えて、喩えて。たったひとつの単語を導き出すために、説明的な物言いを排除するために、かなりの時間を費やした。そしてそれは、無意識に使っている言葉をすべて疑ってかかれ、ということでもあった。
言葉を尽くして説明すれば伝わる相手は多い。だが、それは無限の言葉の発露と、その理解を要求する振る舞いでもある。

正確に伝えようとしなくていい、正確に表現しろ。

師匠はきっと、そう言いたかったのだと思う。伝えようとする自分に寄り添うのではなく、感じた自分に寄り添え、と。

おそらく師匠は、私が「伝える者」ではなく、「書かないと死ぬ者」だと見破っていたのだろう。表現を生業にするのではなく、表現で生き延びるのだと。ゆえに社会への発表を薦めなかったし、自らの感覚に誠実であれ、と言い続けてきたのだ。

それが、いつからだろう。大学を選び始めた頃から、私は「人に見せるため」の言葉に大きく偏り出した。認められたい、将来につなげたい、これでお金を稼ぎたい。

書かなければ死ぬタイプの人間が持ってはいけない欲望だった。少なくとも、私の存在には余る希望だった。

書いて人に見せなければ。そう思うごとに、気は急き、ひとつの単語に何日もかけていた日々は終わりを告げた。何度となく思い返して追体験をするよりも、脳内でそれらしき言い回しを見つけられれば、それで伝わると思っていた。

伝えるのではない。感じた自分に寄り添う。

という基本原則を見失い、すっかり「頭で考えて予測した五感を使って言葉を紡ぐ」ことに慣れきった頃に、冒頭の指摘を受けた。
そして私は、その指摘を真に受けられないほど、身体感覚を手放してしまっていたのだ。

(続きはまとまったら書きます)


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