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「である」ことと「する」こと

リタイア生活を株式投資で楽しむモト3の妄想エッセイ

先日動画を見ていたら、「現代国語の授業ほど無意味なものはない。”それ”とは何を指すのか? そんな問題を出す前に、もっとわかり易い文章を書け!」という発言を聞いて、私は心を射抜かれたような気がした。

現代国語の業界では、難解で分かりにくい文章ほど学問的価値が高いと崇拝されているのではないか? 平易でわかり易い文章は低級で価値が低いとみなされているのでないか? 

高校時代に現代国語の成績も悪かったので、こんなことを言うのは気が引けるけど、難解な文章が理解できても、また書けても現代の仕事や実生活にどれだけ役に立つのか?と疑問に思う。

もう半世紀以上前になるが、私が高校2年か3年の時の現代国語の教科書に『「である」ことと「する」こと』という表題の3、4ページの文章が掲載されていたことを覚えている。

文章は難解であることはもちろん、「ドグマ」という聞いたこともない単語が出て来て理解もできなかった。だが、今でも私がこの文章をを覚えている理由は、「である」価値観から「する」価値観へと日本人の意識構造が変わって行かないといけないのだ、という著者の主張に納得感を覚えたからだ。

大学に入って、難しい本を読む大学生に憧れていた私は、著者の丸山眞男の新書版「日本の思想」を買ってきた。最初から読もうとしたが難しすぎてすぐに挫折してしまった。

ただ、社会人になっても「である」ことより「する」ことの方がずっと大切だよなと、ビジネスのいろんな場面の中で自分に言い聞かせることが多かった。自分の判断基準として「する」価値観を大切にしたいと今でも思う。

思いかえしてみると、丸山眞男の難しい文章というのは著者自身が嫌う「である」価値観そのものではないか、と思うのである。文章とか本とかは伝えるために書いているのである。読者に正しく伝わらなければ、書いただけという「である」価値の自己満足にすぎない。

私の解釈では、自分の考えをわかり易い文章にして伝えることが、「する」価値感に基づく表現方法なのだろうと思う。だから冒頭の動画の発言がスーッと私の心を射抜いたのだろう。

「わかり易く伝える」というのは、私の現役時代の仕事の中でも大切な要素だった。A4一枚で簡易報告書を作ったり、パワーポイントでプレゼン資料を作ったり、A3一枚の顧客報告資料をまとめたり、正しくわかり易く伝える資料を作るのに夜遅くまでかかっていた。

高校の現代国語の授業では、難しい文章を学習させることはほどほどにして、読んだ文章をパワーポイント3枚でまとめ、3分でプレゼンする授業にしたら、さぞ社会で役に立つ授業になるのだろうと思う。

この文章を書く途中で表題の「である」・・の言葉を検索してみたら、この丸山眞男の文章は現在でも現代国語の教科書に使われていることを知った。50年前の教科書の文章が今現在でも変わらず使われていることに驚いた。

古文の教科書なら、徒然草などの題材がずっと使い続けられるのは分かるが、現代国語なのだから題材は昭和、平成、令和へと変わって行くべきではないのか?と思ったりする。

時代と共に、日本人の意識構造は変化してきている。令和の高校生はこのビンテージ国語をどんな風に感じているのだろうか?
<了>


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