その予感を知るために私は再び外に出ることにした。
七月も終わりの夏だった。私はいつの間にか夏が始まっていることさえも知らなかった。「そりゃそうだろ」と言われてしまえばそれまでなのだが、それを知っているのはこの街の人達だけなのである。
「土曜日、16時30分に関内駅で待ち合わせでお願いいたします」
会社の後輩に終業後に突然言われた。実際には数ヶ月前からプロ野球観戦に誘われていたことを忘れていた。そして私はオーケーの返事をしたことも自分の手から溢れてしまい、すっかり忘れてしまっていた。私はこの数ヶ月間の記憶がほぼない。何をしていたのかと問われれば「読んで、書いた」このたった七文字で終わる数ヶ月だった。
実際には日常生活を送っていたのだが、それ以外のことに興味を示さなかったのだと思う。私としては異常だ。文字に溺れていた。この数ヶ月の生活が私の今後にいったい何を及ぼすのかは私にも理解出来ないが、なんとなく以前の自分には戻れないような気もしている。それは、色々な人の感情を表現として多く浴びてきたからだ。
私は久しぶりに外の世界に興味が出た。思えば、人の思考や文章に色気を感じたり、刺されたり、抉られたり、面白い文章に嫉妬したりと、私は文章の奥にいる人達と多く対面していたが、実際の人間を感じていなかった。いや訂正しなければならない。私は文章の奥にいる素敵な女性達に感動していたのだ。ここはハッキリとしとかなければならない。私は女性が大好きだからである。
この日、久しぶりに現実世界に出ることになった私に、ご褒美の魔法の時間が訪れるかも知れない。そうなる予感がしていた。こんなことは滅多に訪れない。数ヶ月という期間を私が外で女性を感じなかったことが過去にあるのだろうか。自分の心に問い合わせてみても「そんな過去は存在しない」とハッキリ言ってくれている。自信を持っていいと思う。
私は、一日一恋を掲げてもう三十年程度になる。私の心が告げていた。
「外に出て恋をしろ」
お前は今、マジックアワーだ。
誰のためにも如何様にも心を染められる。
私は先輩として、溢れ出てしまう純粋とは反対側の感情を後輩に悟られぬように棒読みで囁いた。
私は昭和生まれの演者だ。
「16時30分で私が満足出来ているのか分からないが、16時30分には関内駅に存在しているよ」
私は、この日久しぶりに恋をすると決めた。
予定の16時30分までに恋をして失恋しようと決めた。恋とは失恋を繰り返し、溺れるものなのだ。溺れた分だけ思い出せて愛おしいのだ。
午前中に家を出ることに成功し、私は駅に無事に到着した。無事とはいうものの、実際はかなり危険だった。駅に向かうそばから久しぶりに街へ繰り出した私に、どんどん女性達は、ハニートラップを仕掛けてくるからだ。姿、香り、話し声、そして笑顔。見惚れてしまう。目を逸らすことが出来ない。途中でスレ違う女性には、とりあえずスレ違ってから後ろ姿にウインクをしてみたのだが反応されない。調子が良い時は振り返って笑顔が返ってくるのだが、いまいちしっくりこない。私の勘がまだ戻っていない気がしていた。
冷静に周囲を観察しようと久しぶりに外で深呼吸をした。深く息を吸い、ゆっくり吐くと私はとんでもない事に気付いてしまった。すでに世の中は薄着の世界となっていたのだ。私は季節の変化を見逃していたことに愕然としていた。急に目の前に現れる薄着のキレイな女性達にまだ免疫が出来ていなかった。
季節の巡りに合わせて植物に花が咲くように、洋服だって一枚、一枚と心を置くように重い想いを重ねて薄くなっていき、心もカラダもメイクさえも軽くなるように変化していく一年の過程の女性を感じるのが好きなのに、私に関係なく誰かのためにキレイに薄くなっていった女性達をみるのが辛く眩し過ぎた。
これはマスクがないとまずい。全身が警告している。
人が増えてきた。駅のターミナルから、改札をくぐるまでの間だけで、すでに道行く女性達を感じ「スゲー可愛い」の連呼が頭の中で止まらずに、無限ループされ、ついには無意識に声に出てくるようになってしまっていた。
世の中可愛い女性が多すぎる。
これが創作大賞の缶詰め効果か。
そう思わざるを得なかった。
駅のホームでは、一人の女性が電車を待っている。次から次へと女性が私のもとにやってくる。同年代だろうか。飾らない姿に女性がそれなりに背負ってきた人生が伺える。Tシャツにパンツの普段着だ。だけど、ジリジリと襲う暑さの中にいてその周辺だけが、ひんやりとするような白だった。別に白い服や白いパンツなどではない。佇まいが白なのだ。
暑さを忘れるような白に吸い寄せられた。セミの鳴き声が止まった気がする。私は予感した。
女性は私の視線を感じるように、長い髪を結んでいたゴムを急に外し、少しウエーブがかかった茶色の髪を結び直した。さっきまで見えていた肩口や耳、肌が髪によって一度隠れ、顔も半分隠れた。正面から見たいが、線路には降りれない。後ろから送る私の視線に気付いているように、髪はまた結ばれるために急に大人しくなり、束ねられた。隠して再び現れた露な肌に恋をした。
なぜ一瞬で女性はこんなにもキレイになるのだ。何とも思わなかった肌になぜこんなにドキドキするのだろうか。一度隠した心を再び私の前へ出してくれたその開放された心からだろうか。何より女性はなぜ私に往復肩口切符を魅せてくれたのだろうか。
私のことを好きなのか。
セミが再び鳴き始めた。
私は、一本電車を遅らせることにした。このまま同じ電車に乗ってしまっては私達はダメになるだけだと踏みとどまった。
さようなら。私はフラれた。
私は怖くなってきた。恋するペースが掴めない。この後きちんと関内駅にたどり着けるのかとても不安に襲われた。
何とか列車に乗り込んだ私は、冷静にならないとまずいと感じた。私の一日一恋が断じられたこの三ヶ月の久しぶりの開放は、私にとって危険過ぎた。もはや、全員好きになりそうだった。いや、今振り返るならこの時は全員好きだったのだと思う。
落ち着いて席に座る。まだ混み合う時間ではない。昼下がりだ。比較的空いている。私はこれ以上世間を覗いてはならないと携帯を取り出し「なんのはなしですか」というアホみたいな世界を覗いて回収しようとした。自分を取り戻さなければならない。それに、少しでも放置するとあとで泣くのは自分だ。
駄菓子菓子。もう三ヶ月恋をしなかった自分を抑えられなかった。私の頭の中はもう、回収どころではなかった。藤沢駅に着き、少しだけ人が乗り込んできた。まだ空いている。一人の女性が足早に私の正面に座った。また私は呼ばれているのを理解した。見てはならない。
だが止められない。予定通りに列車は動く。
その予感は正しかった。
女性は、足を組みキレイな姿勢で座っている。スラッとした指には、キレイなネイルが施されている。隙を与えない怖さも感じる。自分が今一番輝いている時と知っているかのような雰囲気だった。周囲の人間が自然と離れていくような空気だ。その空気を察してか、自分がキレイだと知っている女性の指は意思を持つように動いている。そのネイルが施された指先は、私を誘うようにカバンに入っていった。カバンから取り出すのは携帯だろうと思っていた。
本だった。
ダメだ。
こんなギャップを味わったのは久しぶりだった。私は完全に予想をひっくり返されたのだ。こんなにも新鮮な形で目の前で目を奪われる形で恋をするとは思わなかった。もうこれは完全な恋だった。
何の本なのかは、分からない。ただ彼女の指先まで緊張が伝わっているのが理解出来ていた。ネイルで本を傷付けないようにページを捲っている。
もし、私がそのページになれたとして私の方からどこまで彼女に優しく出来るだろうか。姿形が彼女から見えない私にいったい何が出来るだろうか。
私は、紙という概念から飛び出してもしかしたら私の意思でページを捲るかも知れない。それが自然の形でなければならない自然の掟ならば、風の力を借りる交渉をしてタイミングよく手伝えと合図をしてページを捲ってあげるのかも知れない。
彼女は、自動で完璧に捲られるページを見て、紙である私に愛を感じ、そのキレイな指先でさらに優しく扱ってくれるかも知れない。
これが愛の相乗り効果だ。
電車が乗り換え駅である横浜に到着した。
私は降りなければならなかったのだが、彼女が電車を降りて行ったのを確認したので、私は降りるのをやめた。
これ以上、私達がいきすぎるのは良くないと思い、電車が行き過ぎるのを待つことにした。遠回りしてもそれが正しい。
私はフラれた。
すでに、何人と恋をしたのかも分からなくなった私は、友人のポップに連絡をとった。
「今日野球観戦に行くのだが、その前に恋愛から逃げられない。私の前に次々と女性が現れる。どうしよう」
折り返しの連絡はすぐにきた。
「野球は何時スタートなんだい?」
「18時プレイボールだ」
ポップは、何が知りたかったのだろうか。ポップからの返信がきた。
「ということは、まだ始まってもいないね」
そうか。恋だと思っていたこれは恋が始まってもいなかったんだ。私に襲ってきたのは、恋に浮かれる乙女心の爆発だったのだ。私は大事なことに気付かせてもらったポップにお礼と乙女心をしっかり取り戻したことを伝え、関内駅にようやくたどり着いた。
後輩が、私を見つけユニホームを貸してくれた。
「もうすぐ始まりますよ」
グラウンドが見下ろせる位置から、後輩が私に話しかけてくる。
「ここからだ」
私は、本物の恋の予感がした。
なんのはなしですか
私は久しぶりに戻ってきた。そもそも人と争うのが苦手だ。真剣には真剣の良さがあるが、私はこういうことばっかり書いていたい。
真面目に書くと下記記事みたいなことも起こり得るが滅多にはない。
日常で遊びたい。
初めましての人もどうぞよろしく。
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