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【SNS分析③】「ちいかわ」から考える人間の残虐性のコントロールと、それができずに成長したおとなの人たち。


 あたいはへんぴな地方で生まれた。クソでかい一軒家の集落と、団地と寂れたニュータウン、山と田んぼと墓と池に囲まれた土地で育ち、16歳になって原付とアルバイト代という足が手に入るまでは、丘の上から見下ろせる幹線道路に並ぶチェーン店にも行かずに、ずっと自然の中で遊んできた。それで足りる子どもだった。

 今はもう廃校になった母校の小学校の周りには、子どもが溺れて死んだから近づいちゃダメになった池と整地されていない草原があり、そこには鼬鼠や狸や野犬もいたし、蛇や虫もたくさんいた。

 ガキの頃のあたいは自分の力でどうにかなる生き物が好きだった。なのでよく虫を捕まえたり、蜂の巣に石を投げたり、カエルを追いかけ回したり、短小なヘビ程度ならみんなでチャリで轢いたりしてた。

 あたいはとりわけセミが好きだった。その奇怪なフォルムと、宇宙人のような顔。痛みなどを感じても素知らぬ無表情。仮面ライダーみたいなかっこよさと、自分の手の中で無力に悶える姿を見て、たまに羽をむしったり、足をちぎったりしてた。覚えている限りじゃ、小3の夏くらいまではよくそうやって友達とどれだけ残虐に虫を殺せるか比べあっていたような気がする。


 また、あたいはガキの時分、多動性のきらいがあって、授業中に椅子に座っていられずに飛び出したり、勝手に早退して学校の外で遊んでいたりした時期がある。これは小4の時に担任の先生が心臓病で倒れて、その先生以外の授業を受け始めてからはかなりおさまった。どういう理屈かも今じゃ言語化できないし推測もできないけれど、なぜかいつの間にか多動がおさまったのだ。

 ちょうどその時期に、あたいは生き物に対する残酷な試し行動もしなくなった。

 多動と試し行動が無くなる少し前ーーあたいはまだ体が小さく貧弱だったので、母ちゃんからはまだ肉体的な虐待も多く、ベランダに締め出されたり、ゴミ袋に詰められて捨てられたりと放置行動が目立った時期だった。なのであたいはできる限り家に帰らずに、補導されずに遊べる場所を求めていた。

 そんな時、不登校の先輩(おそらく小6か小5の児童)になぜかあたいは気に入られた。仲良くなった経緯はあんまり覚えていないけれど、お腹が減って団地の下で水道水ばっか飲んでたあたいに、彼が「米屋さんで万引きしてきた」とジュースをくれた記憶がある。あたいが学校を抜け出した日だったのかもしれない。彼も学校がある日に、外をフラフラしている同校生を見て(不登校仲間だ)と声をかけてくれたのだろう。

 その先輩の家は、あたいが住んでる5階建ての団地群とは少し離れたところにある10階建くらいの団地だった。彼の家は、いつも親がいない代わりになんでもあり、いわゆるゴミ屋敷だったんだけれども、それがあたいには夢の遊び場のようで面白かった。一緒にAVを見ようと誘ってくれたけど、あたいはその頃からゲイ(というか女体に興味が無く、うっすらとパパが欲しいと思っていたくらい)だったので断った。

 その先輩と遊んでいる時に、彼がエアガンを持ってきたことがある。

「これで野良猫を撃とう」と彼は誘ってきた。

 どうやらそれは改造したガスガンというものらしく、殺傷能力こそないと言っていたものの、かなり威力が高めてある代物だったようだ。小さい哺乳類でも当たりどころによっては死ぬだろうし、人間に当たっても失明や事故に繋がることはガキのあたいでも理解できた。

 なので、

「いやや、怖いもん」

 とあたいが断ると、

「じゃあ絶交な。撃っていい?」

 と聞かれて、あたいが嫌だと言う前にあたいは撃たれた。火傷のような痛みだった。腕にミミズ腫れのような跡が残った。ジーパン越しでも太ももに激痛が走って、めっちゃ泣いた記憶がある。


 不登校の先輩、彼がその後、どういう人生を過ごしたのかは知らない。小学校でも中学校でもついぞ見かけることはなかった。

 あたいは彼のガスガン事件を機に、虫や生き物に対する残酷な行為をやめた記憶があるし、なぜか学校にもちゃんと通い始めた覚えがある。それが大人になる痛みだったとか、そのことが教訓になったとか、彼の存在を反面教師にしたとか、そんな大それた思い入れもなく、ただなんとなくだったと思う。強いて言うなら学校に通えば、あの不登校の先輩と離れられる、という感情は少なからずあったかもしれない。

 担任の先生が病気で急に別の人に変わったこと、いつの間にか学校に通う周りの同級生も残酷な遊びをする子はいなくなっていたこと、不登校になればあの先輩にまた声をかけられるかもしれないこと、そんなさまざまな要因が重なってか、あたいは大人しくーーいや、大人らしくなった。

 もちろん10歳のガキなので、急に成長した訳でもない。思い出してみても、まだ年相応の稚拙さと無思慮さには塗れている子どもだった。

 ただ、なんというか欲望のまま行動するのではなく、善悪にも近い利己的判断を持って物事を考慮することで、いたずらに何かを行うのではなく、一旦我慢して「もう、ガキじゃないしな」とか言えるような、そんな達観したふりができる段階になった。

 これは弟や妹などを持った人間なら、もっと早くに親から言われるような「お兄ちゃんなんだから」「大人になりなさい」という教育で身につける仕草であるのかもしれない。つまり分別だ。

 父ちゃんも自殺し、母ちゃんもちょっと病んだ大人で、姉ちゃんが家におらずずっと働いている家庭の末っ子だったからこそ、あたいはあまり分別がなかった。身につける機会が乏しかった。協調性なども含めてやや発達が遅かったかもしれない。

 あたいの中にあることはどこまでも《自分が我慢しなければならないこと》《自分が我慢せずにできること》の基準しかなく、そこに他人や他者や他の事情を慮るという基準はなかった。誰かのためにではなく、自分のために母ちゃんを怒らせないようにし、ゆえに心の底では苦手だった母ちゃんと苦手なまま暮らしていたし(この点は親が好きで親に尽くす毒親育ちとは違う点かもしれない)、そういう基準で生きているからこそ、小3(9歳)になるまで自分の興味関心のためだけに、自然に生きる昆虫の命を無造作に奪っていたのだろう。

 つまり母ちゃんと違って、自分の力が敵う相手には、自身の欲望を我慢しなくていいという、道徳のない合理性を誤って学習していたのだ。

 そんなあたいがようやく身につけた、「もうガキじゃないしな」と言う観念は、つまり自身の行っている行為が子どもゆえに許されていた残虐な行為であり、虫をいたずらに殺すことは大人に咎められるべき罪であり、なにより冷静に自己を顧みて罪悪感というものが芽生え始めたという、大人になるための準備だった。

 それは、あたいより体のでかいガキである先輩が「野良猫を撃とう」と無邪気にはしゃいでいる姿を見て、そこに異常性を感じたからようやく芽生えた観念だったのかもしれない。あの出来事が無関係だったとも断言はできない。

 けど、あたいは彼のことをただの反面教師だとは思わない。彼の人生が、誰かの誤りを正すための舞台装置ではなく、あたいが痛みを知るための虫の羽でもないことをここでは伝えたい。そして彼も、あたいと同様に自身の痛みの晴らし方を知らなかった人間の一人だと思いたい。


 そういうわけであたいは、人間が自分より弱い生き物を慈しむ気持ちが、標準に備わっているものではなく学習で身につけるものーーあるいは本能的に備わっている庇護欲をさらに発展させるために後天的に学び取る道徳だと思っている。

 この庇護欲に関しても全ての人間に備わっているとは思わない。あたいの母ちゃんのように、心の底からあたいを「産みたくなかった。嫌いだった」と言える大人がいるように、誰もが赤子を可愛がるわけじゃない。自分の赤ちゃんや子どもであっても不気味や憎しみを感じてもおかしくはない。

 産めば母になるだなんて、システマチックなスイッチが人間にあるのなら、虐待はバグなのだろうか。いいや違うだろう。それも個々人の本能、それも個々の人生においての学習。ゆえに起こる誤りと過ち。ただそれだけだと考えていますわ。

 猫や犬といった愛玩動物に対しても、可愛いだとか感じる感情は人とそれぞれだろう。価値観の相違ーーその範疇だとあたいは思う。ちなみにあたいは子どもや赤ちゃん、そして犬猫や動物に対して可愛いと思ったことがない。

 猫を3匹飼っているけれど、彼らに対しての感情は人間的な支配のエゴと、一方的な慈しみと、あたいの生活スペースに生き物がいることでの生活様式の変容、そこに満足を覚えているからであり、野良猫がいるという日本の社会事情が異なっていれば、あたいは猫と暮らしていなかっただろう。もしもそこら中にいる野良〇〇が別の生き物であれば、それを飼っていただろうと思う。まぁこれもこれで愛なのかもしれないけれど、彼ら3匹はあたいが彼らを終生飼育するという行動をどう感じているかは分からない。

 あたいのこういった考えは、人によっては冷めているのかもしれないし、赤子や子どもを可愛く思えないのは「ゲイだからだ」「まだ子どもを持っていないからだ」「成熟した精神を持つ大人なら普通は愛しく思えるはず」という人間性の批判を受けたりもする。あたいとしてはそういう批判には耳を傾けつつも、実は考えた上で一蹴していて、「子どもを作ってこそ一人前。つまり子なしは社会不適合者」という呪いに苛まれてはいないだろうかーーと、むしろ指摘者を心配したりする。

 あたいとしては人間の子どもや、人間社会で野良として都市生物化していない生き物は、保護対象であり、可愛いというよりか弱い。なのでむやみやたらに無邪気で守ってやりたくなる庇護生命的な可愛さを誉めるよりも、命に対する責任や大人としての支援でのみ関わりたいと思う。

 それゆえ自身では家庭を持たずに一社会人として間接的にはあるが、今この世に生まれている子どもができるだけ虐待や自殺を免れ、せめて大人になるまでは「生まれてよかったな」と思えるようにしていきたいと思っている。これも責任ある大人の言葉のようで、自分自身では子どもを直接的に育てられない・責任を持って養育できないと言い表しているだけなので、鼻で笑ってもらってもええ。

 ただどうも、世の中には「可愛いものを可愛いと思える、それが人の標準に備わった力であり、欠けた人間は異常だ」という固定観念や不文律があるようですわ。でも、その《弱きを愛する能力》が、多くの人間の中で正常に働いているだろうか、と疑問に思ったりもする。

 だって《弱いから、愛しい》には、弱い存在だから無私の心で自分を投げ捨ててでも・死んでも守りたいという気持ちと、《弱いのだから愛しい》の側面があるからだ。

 それはつまり、幼少期に身につけた虫や小動物への執着、そういったものを発端とした、エゴ的な残虐性。つまり「自分の力でどうにでも相手を支配できる」その相手のコントロールの手綱を引いた権力性。それが愛の皮を被っていないだろうか。


 ここから、タイトルにある「ちいかわ」に触れていく。

 ちいかわはイラストレーターのナガノ先生によるSNS連載マンガであり、2022年にバズってヒットした大人気コンテンツだ。その市場規模は数百億にまでのぼる。

 知っている人も多い作品なので、委細は割愛するとして、簡単に言えばちいかわは児童でも大人でも読めるキャラクター漫画でありながら「愛くるしいキャラクターのほのぼの生活と、少し闇の深いシビアな世界観が絶妙なバランスで噛み合ったお話」だと思う。

 お話をなぞり、絵を見て楽しむ層からすれば、可愛いキャラクターが可哀想な目に遭いながらも一生懸命生きる姿や友情などに愛くるしさを覚えるのだろうし、その世界観やワードセンスなどに魅力を感じた層からすれば、ネットやSNS上で誰かと話し合ったり、ミーム化したワードで交流したり、伏線や秘められた裏設定などを講談できるような楽しみ方もできる。そういう意味ではオタッキー受けのあるコンテンツ力も内包する作品なのだと思う。そしてそういう受け取りの両面性を持てるようにも、作品中では直接的な死亡シーンや捕食シーンなども伏せられて暗喩的に描写されている。

 ちなみにあたいはこのナガノ先生が個人的に大好きで、ちいかわが生まれる前の時期からフォローしている。2016年ごろからグッズを買い漁り、当時代表作だった自分ツッコミくまのご当地キーホルダーを買いに名古屋と神戸まで行ったりもした。 


ナガノ先生グッズ。これ以外にも書籍やLINEスタンプもほぼ全種類所持。


 ちいかわに見られる「キャッチーなキャラと、可愛い絵柄から出てくるとは思えないダークな世界観」はずっと昔の作品から見られており、たとえば化け物が住む城で中間管理職をするチュパカブラというキャラクターは、主人公たちである自分ツッコミくまたちを友情を結び(捕食や支配などの加害行為をせず)見逃したことで、上司のペガサスたちからボコボコにしばかれる。そこではとんでもない重症描写(ほのぼの絵柄でがっつり全身包帯とギプス)を作中で登場させていたりもする。

 あたいはその時にナガノ先生が、弱き生き物や、理不尽な世界で傷つく生き物に対して、人は慈しみと嗜虐心という両面性を得るということに自覚していて、そしてそれを作品に昇華するーーつまり健全な娯楽に落とし込み、なおかつ娯楽として楽しんでしまう人間の愚かさそれ自体も、背徳感という感じ方によって作品を通し、他者に伝えられる人間なんだと判断した。(決して人の残虐さに批判的でないのがミソだ。批判的でない=肯定、のネット社会においてナガノ先生作品はかなり優しい)

 つまり、その感情を飼い慣らしている側であり、大人にも幼少期にあったそれが備わっていることを自覚している大人なんだと思った。

 だけど、それらの作品群(ちいかわも含むナガノ先生作品)が浮き彫りにしたのは、それを飼い慣らせていない大人の多さにも見えた。

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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄