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狂っていて、頭おかしくて、イカれているということ。





 数年前、ゲイバーにて。お客さんの一人が、たまたま隣に居合わせたゲイと意気投合し盛り上がっている最中に、ふと「それは障害者すぎる(笑)」と半笑いで口走っていたのを見かけた。

 会話の脈略はそこまで覚えていないけれど、ゲイの子が身内の失敗エピソードか何かを話していて、おそらくそれに対して「そんなことをする奴はおっちょこちょいのダメ人間である」という旨の辛辣なツッコミの意味で「障害者」という語句を何気なく用い、そう言ったのだと思う。

 するとそれを言われた側が「ああ、実際にガチで障害あるんですよ。知的障害が。今のうちの姉の話なんですけど。それでもべつにただの姉のおもしろエピソードなんで笑っていいですよ」という風にケロッと返した。

 だけれど反対に、それを言った側の表情はどう見ても引き攣っていたし、なんとなくその会話が聞こえていた人間全員が一瞬押し黙ったのも感じた。もちろん茶化しなんてできないが、だからといって受け流しも、重く受け止めて大ごとにもしづらい曖昧な空気だった。

 だけど飲み屋は基本騒がしい。すぐに周りの雑音につられるように猥雑でワイワイした空気に戻っていった。

 そんな何気ない営業中の一景色だったけれど、その時のことは今でもあたいの頭の中に残っている。


 おそらくこの時、障害者の姉を持つゲイの子ーー彼自身は「姉が障害者である事実」に対して、誤魔化すいわれも、隠す必要も感じていなかったのだろう。なので「“みたい“」「“のようだ”」じゃなく「実際にその人は障害者である」と明かしてくれたのだと思う。あたいはそれを誠実さだと感じる。

 こういう打ち明けに対して「空気が読めてない」とか「同情を買うためか」「飲み屋でする話じゃない」というような反感を買うこともあっただろうし、この記事を公開した時点でも、きっと同様の指摘や反応がネット上で見られることもなんとなく予想できる。

 おそらくこの応対に怒りを感じる人たちは「自分が人を傷つけてしまったかもしれない」という事実を、じっくり噛み締めることに耐えられないのだ。

 じっくり噛み締めるとは、いったん反論や弁明をする前に、自分の非や落ち度を改めて考えてみるということだ。つまり常にその場において、とりあえずでも形だけでもいいから「自身の失敗を認める者」として存在することになる。

 それは、瞬間的な情緒によって身を守って生きてきた、あるいはそう生きなければならない生活や環境で過ごした背景がある人からすれば酷なことかもしれない。周りから失望されたら終わりで、過ちを認めたらナメられ、落ち度を見せれば不完全で落伍者で敗者として扱われてしまい、そこから挽回するには苦労するーーもはや致命傷と同義。そんな強迫感に強いられている人は多い。


 だから自分の生命線でもある地位や立場を守る防御反応から、相手に非があるように話の方向を持ち込んでしまうのだろうと思う。今回のような場合だと「こっちが悪いんじゃない。せっかくの楽しい雰囲気を壊したのはお前だ」というような反応も、こういった自己保身から来るものだと思う。



 でも人は誤ってなんぼだ。今回のような場合ならただひとこと、配慮が足らなかったことを伝えて、周囲を傷つけたなら謝って、今度しないようにすればいい。誤ったらまず謝ることから始めればいいし、謝っても人は死なないし、謝ったからといって必ず許されたり、起きてしまった過失がなくなるわけじゃないけど、それでも失敗を自覚しないと自分が自分を貶めるから。

 ーーとは思うけれど、でもそういうことが何よりも難しいってことはあたいも理解してる。


 あたいだって他人の心を踏み躙ってまで優先されてしまう自己愛のことを「プライド」と呼んでしまうことがあるし、他人を傷つけてしまった時のことを考えると怖くて恐ろしくて仕方がない。

 失言によって失う信用や信頼を考えると、失言を指摘してくれた人にすら恨み節に「お前が指摘しなければ」と責めてやりたくなる気持ちもわかる。

 
 でも間違える時は間違えるし。その時に今考えているような冷静さをひとかけらでも思い出して、ゆっくりでいいから正しい行動ができるようになれたらいいなと、自分に期待している。




 この話をふと思い出したのは、行きつけの老け専ゲイバーでとあるお客さんの話が出たからだ。その人はまだ存命なんだけれど、最近はもうとんと飲みには出てこなくなったようだった。

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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

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