かわいそうな動物がいないと取り沙汰されない性被害と、ドラマの無い被害者たち。
⚠️まずはじめに。今回は戦争や性被害に関わることですわ。
心身の調子が優れない方や、思うところがある人は別のページを見てもらうか、ネットから離れてお茶してください。ベランダで深呼吸するのもオススメですわ。
そして被害の当事者だけじゃなく、周縁にいる方々にも読んで一緒に考えられたらと思い、書いてます。つまりどなたでも元気な時に読んでくださいってコト。
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先々週くらいに、とある記事が話題になった。
《戦争の渦中にあるウクライナの侵攻・占領された地域で、女性が性暴力を受けたあと殺害された》という凄惨な事実を報道するものだった。
しかし見出しはそのことを主としてしていなかった。
《女性に飼育されていた秋田犬が、戻らない飼い主を一ヶ月も待っている》
記事には、惨殺された女性が生前に飼っていた犬が、自宅前で待ちぼうけになった姿だけが写真に収められ掲載されていた。
また、記述によると飼い主女性は、パートナーの男性を新型コロナで亡くした矢先のことだったらしいので、それにより犬の身寄りは無くなってしまった、とも書かれていた。そしてその姿をいわゆる忠犬ハチ公になぞらえて、《キーウ州のハチ公》と称されていたのだった。
Twitter上でも、その記事を報道したツイートのリツイート数やいいね数は大きく伸び、こぞって引用されたり反応を受けたので忠犬ハチ公という言葉自体もトレンド入りしていた。また、Twitter以外でもYahoo!ニュースなどで多く反応されてトップページに大きく上がっていたのを見かけた。
その記事に対しての多くの反応を見るに、戦争の惨禍や凄惨さにみんなが憂いの声をあげて、そして同情し、心を痛めていたようだった。
これ自体はとても道徳的で、戦争を経験し、歴史に鑑み、恒久的な平和を求めるようになった人間という社会的な生き物が獲得してきた規範的な良心と、培ってきた道徳の賜物だと思う。
でもその声の多くは、犬に対してだった。
ーー犬がかわいそう。さすが日本の犬だ。忠義があって感動した。犬を助けてあげたい。どうか動物だけは助けてあげて欲しい。犬を思うと涙が止まらない。
そんな声がほとんどを占めていた。そして犬に追随する形で、性被害と殺害によって命を奪われた女性について声がちらほらと上げられているのが現状だった。そもそも記事の見出しや取り上げ方的にも動物が主とされていたので予想できた反応の仕方ではあるのだけれども、それにしてもあまりにも非対称だった。
確かに戦争の犠牲者になるのは人だけではなく、動物もそうだ。自然も文化もそうだ。全てが破壊され、蹂躙され、奪われていく。
でも記事の見出しも内容も、そしてそれに対する反応も、あまりにも動物という存在を介すことによってドラマチックに、そしてセンセーショナルさを出すことに専心していたし、なにより《かわいそうな犬》という存在が無ければ、取り沙汰されない性被害者の女性という構図を見て、危惧した。
もしかすると、この記事のあり方や世間の反応を見て、いまも昔もたくさんいる性被害者の方々は、
「ああ、動物みたいな存在がいないとかわいそうだと思ってもらえない」
「かわいそうな存在がいないと取り沙汰されないくらい性被害は《当たり前のことで》《かわいそうじゃなくて》」
「私の被害も、《当たり前のこと》なのかもしれない」
と感じるかもしれない。
あたいはこの記事で《ドラマチックに描かれる被害》というものに対する危機感を書く。そして被害者が規範的で、なおかつドラマチックな存在を求められる危険性も挙げる。
あたい自身もエッセイ作家として自覚的に自分の過去を《物語化》してきた事実はあるが、それを踏まえてなお、被害者に対する世の中からの風当たりや視線の歪み、そのものに対してあたいなりの経験を踏まえた意見を書きたい。
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天然温泉旅館「もちぎの湯」
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