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ゲイの友達が結婚した。相手は、




 今年、ゲイの飲み友が、いつのまにか結婚してたわ。



 まぁ今回、人様の結婚について記事を書くあたいが言っても説得力にかけるかもしれないけれど、基本的にあたいは他人が結婚した・離婚したとか、どこの誰と結ばれたとか、どうでもよくはないけれど興味があんまりない

 本人が幸せなら、お見合いだろうがマッチングアプリだろうが、合意した上での偽装結婚だろうが政略結婚だろうが、熱に浮かされただけの軽率にも見えるスピード婚だろうが、離婚だろうが死別や自然消滅だろうが、結ばれた相手がとんでもなく変な奴だろうが、挙式した相手が同性だろうが二次元だろうが、本人さえ心から喜んでいたら、あたいは「ええやん。よかったやん」と素直に祝える。

 どうでもよくはないけど、心の底からガチ喜びするわけでもない。
 結婚なんて他人の選択、他人の人生の一片。
 良い意味でも悪い意味でも、ただの他人事だと、あたいは思う。

 またこれには、あたいは自分が同性愛者で、現状は国内で結婚できないから、とか。

 身内の既婚者でたびたび死別や離婚したのを目の当たりにしてきたから、とか。

 将来、日本で同性婚が法制化されても自分がするつもりがないから、とか。


 きっと、そういった“結婚という人生イベントに対する個人的な思い入れと期待の無さ“もあたいの関心の薄さの理由にあるんだろうけれど、それ以上にシンプルに、結婚が途端に人を変えるとは思わないから、だからあたいのリアクションや関心は薄いのだと思う。


 たとえば、結婚以外の人生イベントーー「手術した・転職した・開業した」と聞けば「大変だね」とは思う。場合によるけど、住むところや生活リズムや体のあり方も変われば、劇的に生活が変化するし、苦労することも多いだろうから。

 けれど、それでも途端に“人が変わること“は少ないと思っている


 他にも役職や肩書や立場によっても人は変わる。けど、それでもやっぱり“途端にそれらしく振る舞える”わけじゃない。人というのは、時間をかけてそのロール(役割)が板についていくものだから。だから急には変わらない。あたいはそう頭の中のどっかで信じている。


 とくに、人の内心の変化というものは緩やかだ。

 絶望や忙しさや理不尽に晒され続けてようやく鬱屈とした精神を持つようになったり、人の優しさや愛や好条件の環境に浸ることでゆっくり傷が癒やされ、少しずつ柔和になっていったりする。急にいい奴にも、急に悪い奴にもならない。誰だって段階を経ている。

 環境以外にも、体調でもその人そのものは大きく変化するけど、そういう変化もじっくりと積み重ねるように少しずつ起きている。絶望も希望もなんだかんだ遅効性だ。じわじわと実感していくことで、人はやつれた病人の顔になったり、この世全てを憎んだ悪人の顔に染まっていったり、まるで怖いものなんてないみたいな高慢な成功者の顔に仕上がっていったり、この世界は平和で愛に包まれていると早計に確信する楽観おバカな顔面に成ったりする。



 ましてや結婚なんて、大概においてそんなに急激に生活が変わるわけじゃないだろう、という気持ちがあたいの中にはある。


 初めての同棲やお見合いでの生活を始めたとしても、最初はすり合わせを重ねる時期が続く。恐る恐る、そして少しづつ、自分の今までの培ってきたものを捨てたり、アップデートしたり、相手の経験や意見を取り入れたりして互いに変化していく。いきなり変わろうとしても、それはその役を“演じている”だけで、その人そのものが変わったわけじゃない。

 だから、結婚によって、その人の苗字や法的な関係性に変化があっても、急には「既婚者の人生」にも「既婚者らしい既婚者」はならない、と考えている。なのであたいは他人から「結婚した」と報告されても、薄いリアクションで、今まで通りに接する。あたいの目の前のその人は、まだ今は、今までとあまり変わっていないはずだから。


 もちろん本人が「今日から既婚者だからお前敬語な」とか言ったら今までの関係性とは一線を画すだろうけれど、今のところそんな奴は周りでは観測したことない。ていうか、いたらビンタしてますわ。




 さて、その変化によってじわじわと形成されていく「既婚者の人生」というのはどういうことだろうか、と考える。


 おそらくそれは周りから《あの人は家庭のある人間“だから”》と既婚者枠で扱われ始めた時。

 そして自分自身も「もう独り身じゃないから」ってことを理由に行動を選び始めたときに始まる、とあたいは個人的に考えている。

 行動制限だけじゃなく、選択の広がりや、選択肢の出発点と行動範囲の違い、という意味での「行動の変化」だ。


 こう考えると《家庭を持つと or 子どもを持つと人生が変わる》と言うけれど、それはシンプルに子どもという存在が人生設計や生活に組み込まれたり、母性父性というものを実感したり、物事の優先度とお金の使い方による考え方という《自覚的な面》だけじゃなく、それに伴う人付き合い(環境)の変化が大きいからだとも思う。

(この場合に多くの人から想定される《家庭》とは、有子世帯や、今後子どもを持つ可能性がある夫婦関係であって、共働きパートナー家庭ではないっぽいことは留意する必要があるかも。あたいとしては夫婦2人でも家庭だとは思うけどネ)


 人付き合いは、双方の考え方によって影響し合って変化するものなので、本人が「もう家庭があるから独身時代と同じように遊べないな」と考えているのと同時に、独身者を含む周りも「もうあの人には家庭があるから独身時代と同じように誘えないな」と配慮・遠慮をしてしまうことで変化は顕著になる。その積み重ねでその人は自他共に認める「既婚者の人生」になっていくのだと思う。


 既婚者である本人も、既婚者同士じゃないと話し合えない共通の話題、子どもができたら子どもたちの関係を軸にした親同士の付き合い、それと子持ちであるがゆえの経済観や時間感覚も培われていくだろうから、気づけば独身時代とは人間模様もすっかり異なっていくだろう。すると、いつのまにかどこに行ってもどこにいても自分が《親である人間》で場に存在することを実感すると思う。

 それ自体は仕方がないことだと思う。いつまでも固定化した人間関係だけでつるむことだけが人生じゃないし、それぞれのステージとスピードで変容する関係なんて、結婚以外でもたくさん発生する。

 だけど、少なくともあたいは、相手が独身時代にあたいと築いてくれた関係を、あたい側から「もう結婚したならあんたは安定しなきゃね。飲み屋で飲み歩いてる場合じゃないね」だなんて言ってこちらから突き離したくない。

 人は急には変わらない。変わるとしたらそういう突き放しの積み重ねによる、溝の深まりだ。小さな絶望、ささやかな拒絶の繰り返しによって人が変わっちゃうのだと思う。


 もちろん、不変も存在しない。いずれ、どうせいずれ時間が経てば相手はだんだんと既婚者の生活になっていく。独身時代とは違う遊び方や考え方にもなるだろう。お互いに歳をとっていくので、話すことも変わって付き合いも疎遠になるかもしれない。

 でもせめて今だけは、そういう先々のことなんて忘れて、今目の前にいる相手をしっかり見つめて話したいから、だからあたいは他人の結婚にあんまり興味がなく、「どうせすぐにはこの関係性は変わらない」と楽観的に捉えているのだった。

 それがあたいの、結婚観を含む“人生ステージの捉え方”だ。

 相手からの報告によってあたいは付き合い方を変えない。
 変えるのは面倒だ。
 いつまでも、「うんこちんちん」で笑っていたい。




 でも、そんな他人のゴシップや人生の選択に興味関心の薄いあたいだけれども、今回のような《ゲイが結婚した》という事実を他の人が聞いた時、一体どう思うのだろうということは気になった。


 あまりLGBTに関心がない人は「あれ?同性婚ってできたっけ?渋谷や新宿ではできたんだっけ?」ってなるだろうし。

 そこそこ興味関心がある人でも「あれ? パートナーシップって条例であって婚姻ではないよね? まだ日本では同性婚って法制化されてないし、国外の話だろうか?」と疑問に思うことだろう。


 でも、ゲイの世界に親しみのあるゲイは、ちょっと違う。


 そんな話を聞いたら、まず思うのが「あの人、女もイケたんだ」ーーというような反応だ。


 「とあるゲイ男性が結婚した」と聞いても、多くのゲイにとっては「海外に行ってまで同性と結婚したのかもしれない」という難易度の高い障壁をこなした夢物語を想像するのではなく、“日本国内で女性と結婚した“という現実的な選択を想定する。


 それにはまず一つの理由として、ゲイの世界では、確かに今から結婚するってゲイこそ珍しいものの、すでに結婚しているゲイーーつまり既婚者のゲイ(既婚ゲイ)の存在は珍しくないってのがある。

 ある程度の年齢がいってるゲイなら子持ち孫ありやバツイチなどの元既婚者も少なくない。「男とは性的な遊びだけしたい。付き合いたいわけじゃない」ってことでウリセン遊び(ゲイ風俗を買うこと)をする既婚者の男性はかなりの数存在する。

 そもそもゲイバーによく来ているからといって、ゲイアプリに登録しているからといって、彼氏がいるからといって、ゲイじゃないこともざらにある。ゲイだとは名乗っているけれど実はバイセクシャルの人もいる。


 以前、あたいは「妻と子ありのノンケ生活してる既G(既婚者ゲイ)です。誠実な彼氏募集」ってプロフィールのゲイも見たことがある。「お前がまず誠実であれよ」と思ったけれど、既婚者やノンケ(異性愛者。あるいはノンケ生活とも呼ばれる女性関係を有している状態)の男性が、ゲイ業界ではある種のブランドを確立していることは実際にままある。


 それもまた聞き慣れぬ人からすれば、不思議だろう。

 既婚ゲイと聞くと「男が好きなのに女と結婚するの?つまり偽装結婚? 」「それってただのバイセクシャルじゃないの?」と疑問が浮かぶことだと思う。

 “男性が好きな男性が女性と結婚すること“に、必要性(世間体や体裁など)こそ見出せても、必然性(望んでおこなったという自主的な意思)は到底想像しづらく考えづらいはずだ。

 あたいもそう思う。長年ゲイ業界にいて、さまざまな人と接してきて、それでも依然、既婚者のゲイなどに対して頭で理解していても心の中では「不思議だなぁ」と思うことがある。

 あたいは一度も女性経験が無いし、今後も確実に無いだろうし、今まで一度も“ノンケとして生きられる“と思ったことがない。物心ついた時からゴリッゴリのゲイだった。だから一層「既婚ゲイの感覚を言葉で理解はできても、頭で共感できない」と思うのだろう。

 だけれど、実際にそれは存在する。つまりいわゆるセクシュアリティのグラデーションや可変性というものだ。

 それは本当にややこしいもので、人それぞれ存在しているので、ゲイといってもその濃淡や過程は人によって大きく異なることが多い。

 たとえば結婚してからゲイだと自覚した人。バイセクシャルの中でも度合いがあり、その中でも自分が“ゲイ寄りバイ“だと自覚した人。女性との間に子どもを作った後から少しづつ同性愛の傾向が強まった人(これを遅咲きだとか、結婚後に“男に目覚めた“なんて言い表すこともある)

 ゲイだと隠して結婚したけれど、向こうもなんとなく察しているので性的交渉のないパートナーとして女性と暮らす人。ゲイだとカミングアウトして、それでもパートナーとして女性と結婚生活を続ける人。(もちろん不本意な形でもあるだろうし、相手の女性が納得しているかはあたいの与り知らぬことでもある。良いことかどうかは当事者たちのみぞ知る)

 そういった場合、定義上ではそのゲイ男性はDINKsーー《共働きで子どもを持たない夫婦(Double Income No Kids)》として女性と暮らしている、ということになるのだろう。

 そう思うと同性婚が法制化した場合、同性愛者だけじゃなく、ヘテロセクシャルであっても気の置けない同性と人生のパートナーとして結婚する選択肢があるのかもしれないとも思った。



 まぁとにかく、ゲイが女性と結婚するというのは、いろんな理由で確実にこの世界に存在する。

 もしかすると「ええ〜……」って思って理解できないし、受け入れられない人もいるとは思う。場合によっては女性が知らぬまま騙された構造になっているので、擁護の余地のない褒められないケースもある。



 ただ今回、あたいが引っかかったのは、その結婚したゲイが、彼氏持ちだったということだった。

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