自分よりすごい奴なんていっぱいいるけど、それでもうちらが何かをやる理由。
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何かを始めた人・何かを始めようとする人が、その道を極めた者や、上位層にいる小慣れた人間を見て「自分なんかがやったところで敵わない……」と尻込みする。
何かを続けている人・何かを挫折した人が、自分よりメキメキ上達する誰かや、努力が報われた成功者を見て「自分なんかじゃダメだ、きっと叶わない……」と嘆く。
このような自信の喪失は多くの人が味わうものですわ。お調子者のあたいですら、ある一定のレベルまで努力によって上達してくると「この人には勝てねぇな。蓄積が違いすぎる」「あたいじゃここまでで限界だな」と実感することがある。あたいはこれを“自覚“と呼んでる。
けれど中にはそういった経験を通して「自分よりすごい人なんてたくさんいるのだから、自分なんかがやっても意味が無い」なんて言って悟ったような口ぶりでそのまま身を引き、ひいては“何事においても挑戦そのものから離れる人“もいる。
あたいはそういう人に言いたい。
「そんなことないよ」とか「あなたは十分頑張ってるよ」「あなたはオンリーワンだから」とかそんな気休めな言葉や、なんとでも言えるような慰めじゃなくてやな。
「な〜に言ってんの〜? 自分よりすごい奴がいるなんて当たり前じゃん?」
という煽りの言葉を。
あたいもかつてはそうでしたわ。自分よりすごいと思う人間を勝手に「生まれ持っての資本や才能がある人」と別次元に押し込めて見上げては、「どうせ自分なんて」「あの人には敵わない」なんて言ってすぐに戦線離脱する癖を抱えていた。
それは謙虚や謙遜だとか、身の程を知っているだとか、力量を見定める力を持っているだとか、そういう風に言い換えてはならないただの臆病風で。
相手との実力差や、相手の実像(上達に至るまでの過程)をちゃんと知ろうとしない現実逃避でもあった。
今思うに、こういった目の伏せ方は自己防衛の一つだったのだと思う。
「人ができた人間というのは、はなから人としての作りが違うのだ」と思うことによって、相手の努力や培ってきた技法から目を逸らし、もっと曖昧な「チャンスや環境や才能」ばかりに責任の重きを置いて、「それさえあればと自分だって」と自身を慰める。
そうすることで自分の全体像や力不足であったり、この世界に生きる他人や社会の複雑さから目を背けられて、自分の不遇さ(つまり自身が持ってないものの中でも“与えられなかった“と感じるもの)だけに目を当てられる。
すると自分自身の欠点の本質や、取り組むべき自分の課題などからは目をそらせるので、心を守られたのだ。
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天然温泉旅館「もちぎの湯」
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