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サイコロシアン・ルーレット

全19話、合計49800文字(文庫本半冊ほど)。2019年12月に連載された同名小説の一気読み版です。連載版はこちらに。

◆1

瞳孔を大きく見開き、荒い呼吸を繰り返す。視線の先には直径20cm程度の鉄の椀。そしてその隣には何の変哲もないリボルバー式拳銃と、布切れが1枚。

「ハァ、ハァ、ハァ……!」

男の握りしめた右手にじっとりと汗がにじむ。手のひらから溢れた汗が腕を伝い、脇へと流れていく。その様子を見守るのは、テーブルの向こう側に座っていた少年……否、彼は今や地面から見上げている。代わりに南北の壁際に控えた4人の男女だ。そして……

「……知っての通り」

彼らの中央にある、ひときわ豪奢な椅子に座った厳かな表情の老人。彼がゆっくりと口を開くと、緊張に支配された場に冷たい空気が走った。

「この『ゲーム』はだな、おかしい。何がおかしいってな、言わんでも分かるな?」

男は荒い呼吸を繰り返しながら、彼の言葉を待った。

「天秤に乗せるもんが釣り合ってねェってことだ」

「その通りです」

対面の椅子の男が唐突に言った。彼の名はミハエル。老人とは対照的に年若く、切れ長の目元をフチのない眼鏡が覆い、軽薄な笑みを浮かべている。その両隣には、老人側と同じ数の男女。彼は足を組み、呆れたように老人を指差して言った。

「我々『ブルーオーシャン』の一員と、そちらのカビの生えた老木では……」

「エリック。お前さんはなァ、俺たち『ゴルデル・ファミリー』にとっては家族の一員ってだけじゃねえ。勘定に、交渉、帳簿の作成……縁の下の力持ちとして、絶対に欠かせねえ存在なんだ」

ゴルデルは無視して続けた。若者はやれやれと肩をすくめた。

「口の減らない老人だ!」

「口を開かにゃ生きてけん、そういう世界にいたからな。お坊ちゃん」

「あ……あ……」

エリックはロボットのようにぎこちない動きで、敬愛する親分を振り返った。瞳にわずかな輝きが戻り、救いを求めるかのように親分を見た。親分はニコリと笑い、言った。

「……だが、もう始めちまったし、お前もあの日、やると言った。今さら引き下がるってわけにゃァいかねえ。だから、やってくれるな?」

「あ、えっ、ああっ……」

エリックは答えようとした。だが、口からは言葉にもならない息が漏れるばかりだ。ゴルデルは厳かに目を光らせた。それでファミリーの一員には十分だった。エリックは息を呑み、碗に向き直る。

右手を掲げる。中に握りしめられたのは、何の変哲も無いダイス。

(神よ)

彼はゆっくりと手を開いた。わずかな汗とともに、ダイスが椀上に滑り落ち、カラカラと音を立てて転がり……やがて止まる。

『4』

エリックは絶望した。それは4発の弾を込めた銃を、自らのこめかみに突きつけることを意味する数字だった。


◆2

クアドンの町に行くには絶対に欠かせないものがある。行きの退屈しのぎと帰りの退屈しのぎ。それから滞在中の退屈しのぎだ。このジョークは他州のものの考案ではなく、クアドン出身者が自嘲げに口にするものだ。そしてこれは彼らの故郷を実に端的に表している。

クアドンには大抵のものがあり、カンザスの片田舎とは思えないほど様々なものが揃っている。だが特筆すべきものは何もないし、物が揃っていると言っても都会には及ばない。サービスの質も可もなく不可もなく、コミュニケーションは濃密で、些細な失言が思いがけない人物からの叱咤につながる。住民の新陳代謝は止まり、町会の顔ぶれは年々老けていく一方。

そんなクアドンにも、数こそ少ないが若者はいる。出ていく機会を逃した連中と、地縁に縛られた連中が。彼らは泥のような下働きをしながら、上の連中が体調を崩すのを待つばかり。なにせ、この町で上にのぼる手段はそれしかないのだから。

淀んだ反復作業の中で、何も成せないまま若さを失っていく日々。そんな日々を疎み、彼らは夜な夜な集まり、決まって翌日に差し支えない程度の酒を飲む。もっと危険なモノに手を伸ばしたい時もあるが、合法違法を問わず、この町でドラッグは手に入らないのだ。

鬱屈した不満を呪詛に変え、世を呪う姿。それは彼らより少しだけ歳を経た層のささやかな娯楽でもある。彼らもまた、同じ惨めさを味わい続けてきたのだから。そしてそんな若者たちも、やがて彼らと同じく嘲笑の蜜の味を覚える……クアドンでは、そんなありふれた惨めな日々が繰り返されてきた。

……ほんの数年前までは。


◆ ◆ ◆


日が高く輝き、緑を失いつつある町並みを明るく照らす。地上にはいたるところに冷たい風が流れ、枯れ枝に残ったわずかな葉すらも拭い去っていく。

エンリア・ストリートは一見すれば他と何ら変わりない住宅が並ぶストリートだ。だが住民は、祟り神のようにその名を口に出すことを恐れ、子供すらそこには決して近づこうとしない。だが今、黒いジャケットを着込んだ若い男が、車道の真ん中を息を切らせて走っていた。彼の名はキム。

「ヤ、バい、急げ、急げ……!」

白い息とともに独り言を吐き出す。彼に集合場所として伝えられたのは『エンリア・ストリートの赤い屋根』。該当するのは4軒。既に回ったのは3軒。全部ハズレだった。30分の余裕があったはずの集合時刻まで、あと2分。額ににじむ大量の汗は疲労によるものだけではない。

「赤い屋根、赤い、屋根!」

餓えた獣のように視線を走らせる。白い壁。青い屋根。緑の屋根。その奥に藍。赤。青。

(あった!)

キムはためらいなく緑の屋根の敷地に飛び込み、最短コースをひた走った。どうせこの区画は無人だ。車道を垂直に横断し、赤い屋根の玄関へと飛び込んだ。

「ハァー……!」

キムは胸を撫で下ろした。先客の靴が3足。時刻まであと1分。ギリギリだが、間に合った。彼はハンカチで滅茶苦茶に汗を拭い、荒い呼吸を僅かばかり整え、ゆっくりとリビングへの扉を開いた。

「おはようございま……」

「遅刻だよ、キム」

えっ。その言葉すら出ず、ドアノブに手を掛けたまま口をパクパクさせる。眼前の中年女性は威圧的に腕を組み、責めるような目でキムを見上げていた。彼女は親指を後ろに傾け、リビングの掛け時計を指差した。

「10分遅刻だ。時間を守るのは最低限の礼儀だって、いつも言ってたつもりなんだけどね」

「い、いや、それはその……」

アイシャ姐さんの指示が曖昧だったからです。キムはその言葉を飲み込んだ。集合場所は念のため直前に知らせる、彼女はそう言っていた。が、知らせが届いたのは集合時刻の1時間前で、しかも場所は特定すら不可能だったのだ。

「その、なんだい?」

アイシャは詰め寄った。ほつれた銀髪が顔の前で揺れた。キムはたじろいだ。

「それは……」

「10分だ」

割って入った声に、2人は同時に声の方向を見た。スキンヘッドの初老の男が掛け時計を指差した。

「この時計は10分遅れている。キムは間に合ったんだ。……ギリギリだがな」

「ヴィーコ兄さん? ……なんで誰も直さなかったんですか」

「直せと言っても直さなかった馬鹿がいたからな」

ヴィーコは抜けた後輩を白い目で見た。彼女は真顔で答えた。

「一体誰ですか、その馬鹿は」

……指先で額を抑え、ため息を吐く。

「ああ、もういい。今直せ。お前がだ」

「はぁ、分かりました……あー、キム。遅刻はしてなかったみたいだね、うん」

彼女は笑いながら詫びた。キムは目をぱちくりさせる。先輩は取り繕うように言った。

「だがアンタは一番若いんだ。一番に来てやる気見せるくらいじゃないと、そもそも駄目」

「はあ」

「次からは気をつけるんだよ。じゃ、アタシは重要任務があるから」

何食わぬ顔で掛け時計へ歩いていくアイシャを、キムは呆然と見送った。ヴィーコは肩を竦める。

「……変わらんな、アイツは」

「あ、えっと……」

キムは適切な返答を探ろうとする。ヴィーコは目を開き、彼に言った。

「いや、独り言だ。気にするな」

「は、はい」

キムは安堵し、座る場所を探そうと室内を見渡す。大きなテーブル。ヴィーコが新聞を読んでいる。尊敬できる人だが、怖くて気まずいので避ける。2人用のソファには、ウサギのマスコット付きのカバン。アイシャのものだ。気さくで話しやすいが、先の通りの性格だ。これも避ける。なら、残りは……

「キ、キムくん。こっちの席は空いてるよ」

後ろからのどもりがちな声に、キムは振り返った。大型テレビの前のカウチソファ。そこに腰掛けた中年男性が手を上げて挨拶した。

「エリック兄さん?」

いたのか。キムはその言葉を飲み込んだ。


◆3

エリックは視線をわずかに彷徨わせると、3日は伸ばしっぱなしの無精髭を撫で、ぎこちなく微笑んだ。

「あ、朝から災難、だ、だったね。うん。ほら。その……座んなよ」

チラチラとノートパソコンに目を落としながら、エリックは後輩を招く。キムが彼のそばに座る。先輩は口を開こうとする。だが言葉は出てこない。

「……?」

半端な沈黙が続く中、エリックが口をもごもごさせる音が響く。キムはなるべく注視しない程度に視線を向けた。こういう時は大抵、言いたいことがある時だ。

「……その。駄目だよ」

エリックはようやく言った。

「はぁ」

「ええと、ほら。キム君、遅刻は良くないよ」

「そうですね」

キムは相槌を打つ。間違いは訂正しない。ショックを受けるからだ。だがエリックは自分で気付いたのか、慌てて続けた。

「あ、いや、遅刻は……してないのか。でも、その……駄目なんだ」

「……?」

要領を得ない言葉にキムは首を傾げる。新聞を下げたヴィーコと、掛け時計を壊したアイシャが彼らのやりとりを見守る。エリックは最大限にシリアスな顔を作り、後輩に言った。

「その……キム君は一番後輩なんだから。や、やる気を見せるんだ。一番に来て。それじゃないと駄」

「ブフッ!」

アイシャが吹き出した。エリックは目を丸くして振り返る。

「あ、姐、姐さん?」

「クク……アンタがそれを言うのかい!」

「い、今、俺は先輩の威厳を……」

「その威厳とやらは、アイシャの借りものか?」

ヴィーコが静かに言った。

「い、いや、兄貴。俺はただ……」

「気付いていないようだな……お前のさっきの言葉、直前にアイシャが言っていたのと丸切り同じだったぞ」

「えっ? ……ぁあっ!」

エリックは仰天した。アイシャはツボを押されたのか、ますます笑いを深めた。ヴィーコはやれやれとため息をつき、キムが3人の間に忙しなく視線を彷徨わせる。

「先輩らしく振る舞いたい、その気持ちは分かる。俺にもそういう時分があったからな。だが、それはもう少し落ち着きを得てからにしろ。無用な恥を掻くぞ」

「す、すみ、すみません兄貴……!」

エリックは平謝りした。アイシャは笑い転げ、ついに咽せ、キムに背中をさすられていた。最年長者は彼女を横目で見た。

「アイシャ、お前もだ。偉そうに言う前に少しは落ち着きを見せろ」

「く、クク……ハァ、いいじゃないですか……クフッ、仕事の時はちゃんと冷静なんですから……!」

息も絶え絶えにアイシャは言った。

「やれやれ……口の減らん奴だ」

三者三様に忙しない後輩たちを見て、ヴィーコはため息をついた。今回この4人に、同期のラルフを加えた5人が呼び出されたのは、ボスから重要な話があると言いつかってのこと。こんな調子で大丈夫なのだろうか。ラルフの奴もまだ来ていない。弛んでいる。

……少し気合いを入れておいてやるか。彼はゆっくりと立ち上がり、口を開こうとした。アイシャの笑い声がピタリと止んだ。

「おい、お前たち……」

その時ドアが開き、短い金髪の男が入ってきた。ラルフだ。

「おはよう、皆」

後輩3人が立ち上がり、礼を返す。ラルフは頷き、なぜか立ち上がっている同期を見た。

「……お前まで立って挨拶しなくてもいいんだぞ?」

「ああ、そうだな。……お前の間の悪さは治らんな」

「?」

ラルフは首を傾げ、コートをラックに掛けた。鍛え上げられた筋肉は灰色のワイシャツの上からも顕だ。

「で、ボスが直々にか。何の話なんだろうな?」

彼はヴィーコの対面に座った。遅れてきたことは誰も咎めない。彼はボスに最も近いところにおり、他の『家族』と共有しづらい秘密を多々持っている。それゆえ少々の失態は斟酌され、いちいち事情を尋ねられることはないのだ。

「さあな。キム、お前は心当たりがありそうだが」

「ま、まあ。それはその。すみません」

キムは目を伏せた。先日の抗争で縫うことになったまぶたが痛んだ。彼はそれを勲章と捉えてもいたが、それでも痛いものは痛い。

「キムはそうかもですけど、アタシは心当たり無いですよ?」

アイシャが不思議そうに言った。エリックが無言で頷き追従する。

「そうだな。それに例の件なら少なくともお前とエリック、それにラルフは関係ないか」

「ああ、そうかもな」

ラルフが頷いた。ヴィーコは聞き咎めた。

「……歯切れが悪いな?」

ラルフは心の中で苦笑する。付き合いが長いとこういう時に敏感だ。

「気のせいだろ。まあ……」

「車の音」

唐突にアイシャが言った。瞬間、3人の目に剣呑な光が宿った。

「誰のだ」

「ボスのと同じ。たぶん4台目です。一応警戒しとかないと」

アイシャの手にはいつの間にか銃が握られていた。エンジン音が徐々に近づき、4人の耳にも微かに聞こえ始めた。エリックは杞憂を祈りながら、震える手で銃を構え、ソファの影に隠れた。

やがて車は停車。ドアの開く音。微かに聞こえる声。アイシャがハンドサインで安全を示した。警戒態勢が解かれた数十秒後、リビングのドアが開いた。

「おはよう、我が子らよ」

長身の老人は中折れ帽を取り、『子供たち』に和やかに声を掛けた。タリエイ・ゴルデル。クアドンの町を代々支配する『ゴルデル・ファミリー』の長。顔の皺からは既に老齢であることが窺えるが、ピンと伸ばした背筋と、トレンチコートを着こなす姿は、衰えをいささかも感じさせない。

「おはよう、親父」「おはよう」

ヴィーコとラルフが一礼し、他もそれに倣う。親父。その呼び名はゴルデル自身が己の部下に、つまりは子供たちに呼ばせているものだ。当然キムのような新入りは『親父』の権威とその呼称のギャップに戸惑うが、彼らのような幹部級ともなればこうして--実の家族のように--フランクに話すことすらできる。

……そして、その声に違和感を覚えることも。

「今日はお前たちに大切な話がある」

ゴルデルは厳かに言った。ヴィーコはその声に言い知れぬ不安を覚えた。


「ロシアンルーレットだぁ?」

市街地にほどよく面した、散らかった貸しオフィスの一室。アルベルトはそれを聞かされるやいなや、素っ頓狂な声を上げた。

「ええ、件の抗争の件でね。解決にと」

ミハエルは白衣を掛けた社長イスにもたれかかり、スマホを弄りながら言った。公的には小売業の店舗であるはずの室内は、数多のモニターと配線が部屋中に広がり、コミックの詰め込まれた本棚が立ち並ぶ、彼の王国である。アルベルトは空のペットボトルを踏み越え、相棒に近づいた。

「どういうこったよ?」

「落とし所、って奴ですよ。あの抗争は互いにやりすぎた。死傷者が出まくった上に、誰もがいきり立ってる。でもそのノリで共倒れしても困るでしょう? だから互いに適度な血を流して、そこで区切りをつけるんです。残虐性の誇示も兼ねてね」

「それで……それかよ」

アルベルトは眉間に皺を寄せた。

「これだから田舎のギャングってのは……命を何だと思ってんだ。もったいねえ。頭おかしいんじゃねえか?」

「提案したのは僕ですけどね」

「お前が?」

アルベルトは目を丸くした。

「最近、ウチは増えすぎてますからね。管理し切れなくなったら困るでしょ。間引くんですよ」

ミハエルは画面を大袈裟な動作でフリックし、ゾンビの胴体をまとめて寸断した。呻き声とともにリアルな腹わたが溢れ出す。アルベルトはスピーカー越しの嫌な音に顔をしかめた。

「そりゃそうだが……ハァ、にしても唐突だろ。俺に一言相談しろよな」

「すみませんね。研究も忙しかったもので」

「次から気をつけろよな。……ったく」

アルベルトが舌打ちし、窓のカーテンを閉じる。日の光が遮られ、スマホの明度が変わった。ミハエルは画面から目を離さないまま咎めた。

「開けてるんですよ」

「オイオイ、お前は俺たち『ブルーオーシャン』のリーダーだぞ。狙われてるって自覚ねえのか?」

「警戒し過ぎですよ。ここが一番高いんだ」

ミハエルは吐き捨てる。アルベルトは机に音を立てて手をつき、顔を近づけた。

「それでも念には念を入れろ。自覚が足んねえぞ。お前に死なれちゃ、俺たちどころか町の連中も全員共倒れなんだぞ。分かってんのか? ガキじゃねえんだぞ」

彼は語気を強めて叱責した。かつての上司と部下との関係は、今も名残を残している。ミハエルは苦々しげに答えた。

「……ええ、それは十分に」

銃弾がゾンビの頭部を砕く。アルベルトは大袈裟な『やれやれ』のゼスチュアとともに顔を離す。

「本当に分かってんのかね。で、詳細は?」

「互いに5人出して、ロシアンルーレットをさせるんですよ。交互にね。運が良ければ死傷者ゼロで終わります」

「悪ければ?」

「全滅でしょうね、そりゃ」

ブルーオーシャンの長は事もなげに言った。

「……誰を出すんだ?」

「適当に決めて、当日現地に来てもらうつもりです。内容は伏せてね」

「事前に伝えないのか?」

「逃げられたら困るでしょ?」

軽く画面をタップ。逃げ惑う生存者が背中から撃たれた。ミハエルは嬉々として死体からアイテムを剥ぎ取る。アルベルトはゴクリと唾を飲んだ。こういう人間とは知っていたが、それでも異常性を間近にするたび、鳥肌が立つのを感じるのだ。

「ま、そういうことで。一応伝えとこうかと」

「一応じゃねえっての。ハァ……まあいい。とにかく分かった。だが適当は止めろ。死んだらマズい奴のリストを送るから、その外から選べ。いいな?」

「ええ。相棒の言うことは聞きますよ」

「……いつもそのくらい素直ならいいんだがな」

アルベルトは肩をすくめ、空のペットボトルを拾ってゴミ袋に詰め、退室していった。

その十数秒後。ミハエルはスマホを放り出し、監視カメラのモニターの一つを見た。そこには当然、ぶつくさ言いながら降りていく相棒の姿がある。ミハエルは目を細める。

「……最期くらいはね」

小さくなった相棒の頭を、彼は静かにタップした。


クアドンの仄暗い歓楽街。その一角にある高級レストラン『ムーンブリッジ』は、そこで働くだけでも羨望の目で見られる、本当に特別な祝い事に使われる格式高い店だ。だが、その地下には地元の警察が100年近くにわたり『発見できなかった』特別な部屋、会合の間がある。

ここでは何が起ころうと、何を売り買いしようと、決して咎められることはない。金糸が薄っすら織り込まれた絨毯に散らばる黒ずみは、この部屋が辿ってきた歴史をそれとなく伝えている。

エリックもまた、その歴史をおぼろげながら知っていた。だがそれを真に理解したのは、彼の『対戦相手』だった甥っ子ティムの脳が絨毯にぶち撒けられた後だった。先鋒を買って出た勇気はいとも簡単に吹き飛び、そして、今、震えが、止まらなかった。

「ついてませんね、彼。もうほぼお終いですよ」

ミハエルはすでに、命を落とした……落とさせた部下を一瞥すらしようとしなかった。彼は『4』の目を指差し、敵を楽しそうに嘲笑った。

「なかなか良い目が出たじゃねぇか」

一方、ゴルデルは不敵に微笑んだ。ミハエルは蔑むような視線を向けた。

「良い目? 2/3で即死する出目がですか?」

「そんな数字に意味は……」

「それは……」

エリックには、2人のやりとりが遠い世界のことのように聞こえていた。確率は66%。当たりを引けば即死。天秤の片側、そこに乗せられたものの無限大の重さに見合った、無限大の恐怖が生み出されていく。視界が黒く染まりはじめる。無為な逃避のために、意識が遮られようとする。

(駄目だ!)

エリックは纏わり付く絶望を打ち払うかのように叫んだ。声帯は震えて動かない。その声は彼の心の中にしか響かない。それでも己を奮い立たせようとする。

(俺はファミリーの一員だ。今度こそ、戦うべき時に戦うんだ……!)

前日のやり取りを思い起こす。なけなしのプライドを振り絞り、先鋒を買って出た時のことを。柄に合わないことを言う俺を、みんな意外そうに見て止めようとした。だが結局、その意志を尊重し、認めてくれたじゃないか。

視界がわずかに復帰する。手元だけが映し出される。彼は震える手を銃に伸ばす。死にたくない。普段よりもずっと重い。弾丸ケースの中、黒いスポンジ状の保護材に埋まった弾丸を4つ取り出す。嫌だ。だが背中に仲間の視線を感じる。裏切りたくない。後輩も出来たんだ。今までの俺じゃいられない。

会計役の立場に甘んじ、仲間より一列後ろで待機するのはもう嫌だった。それでもいざ危険が迫ると臆病な体は勝手に隠れてしまう。だから勇気を出したんじゃないか。逃げられない状況に自分を追い込むために。でも……

「エリック」

無音の世界を力強い声が割った。視界が完全に復帰する。厳かで力強い親父の声だけが聞こえる。

「俺たちは昨日、お前の勇気を見た。単なるカッコつけじゃねえ。お前の中から出た、本物の勇気をな」

雑音は飛んでいた。己の心の声すら聞こえぬ集中の中、親父の言葉だけが心に染み入った。ゴルデルは静かに、だがはっきりと言った。

「お前は、俺の自慢の息子だ」

……エリックは振り返らなかった。4つの弾丸を危うげなく弾倉に込め、カラカラと回した。そして迷いなく、銃口をこめかみに突きつけた。

(エリック兄さん)

キムは祈るように見守った。彼だけではない。その場のほぼ全員が、固唾を呑んで彼を見つめていた。前方から注がれる侮蔑と哀れみの入り混じった視線に、エリックは父のように不敵な笑みで答えた。

そしてゆっくりと、引き金を引いた。






ガァン!






破裂音が空気をビリビリと震わせた。エリックの瞳孔が大きく見開かれた。その瞬間、既に彼の意識はなかった。命を失った体が椅子ごとゆっくりと後ろに倒れていく。床に転がっていた甥っ子と一瞬うつろな視線が交差する。こめかみを貫通した弾丸は脳漿と血液のドレスを纏い、壁に衝突。地に落ちてカラカラと乾いた音を鳴らした。

一拍遅れ、エリックの体が絨毯に叩きつけられ、ドチャリと大きな音を立てた。右に傾いた頭から倒れた水差しのように、ドロドロとした液体が溢れ出した。

「うっ……!」

誰かが呻いた。涙か、悲鳴か。あるいはその両方か。次にティムやエリックになるのが自分でない保証など、一片たりとも存在しないのだから。

キムは涙を堪えた。アイシャは目を閉じ冥福を祈った。ラルフは彼の口元を見て心の中で彼を讃えた。ヴィーコは殺意を湛えた目を後輩の仇へと叩きつけていた。

「……ついてねェな、エリック」

ゴルデルは目を閉じ、静かに彼を想った。その口元がわずかに震えた。


「はっはっは……あっはっはっはっは!」

大笑。集まる剣呑な視線。ミハエルは意に介さず、大げさに拍手する。

「ほら、悪い目だったでしょう? 幼稚な楽観論で気分をごまかそうと、確率は無慈悲です。所詮あなた方は精神論に拠った古典ギャングだ」

「……」

ゴルデルは歯噛みする。ヴィーコはその心中を察する。結果が目の前にある以上、何を言っても負け犬の遠吠えに過ぎない。

その後ろで、キムは怒鳴りつけたい衝動を必死に抑え込んでいた。故郷を汚染し、エリックを、頼りないが愛されていた先輩を奪った男。込み上がる怒りは喉を裂きそうなほどだ。だが今の彼は単なる下っ端に過ぎない。トップ同士の会話に口を挟める身分ではないのだ。

「さて、場も暖まったところで続けましょうか」

ミハエルが気取った仕草で指を鳴らすと『会合の間』の扉が開き、喪服めいて黒いドレスの女性と、台車を押した黒服の男たちが現れた。黒服はたじろぎながらも2人の死体を台車に乗せていく。女性はそれらを一瞥もせず、部屋に不釣り合いなホワイトボートへ近づき、上下5つづつ並んだ枠に『0』を2つ書き入れた。ティムとエリックは数字に変わった。

「で、次は……ヨハン。あなたですね」

ミハエルは指で示した。列の左から2番目に……今は1番だが……並んでいた長身の若者は、反射的に悲鳴を漏らした。

「お、俺?」

「ええ、あなたが。決まってたでしょう?」

「い、いや。でも。こんなの……」

ヨハンはたじろいだ。状況への理解はまるで追いついていない。『食事に付き合ってくれ』そう言われてこのレストランに来た。すると噂程度の存在だった地下階に通され、突然『2番目に来たから、あなたが2番で』と指名されたのだ。覚悟など決まっているわけもない。しどろもどろのヨハンに、ミハエルはにこやかに笑いかけた。

「それとも、この場で確実に死にますか?」

ヨハンの背筋が凍る。ミハエルの細めたまぶたの合間、薄っすら見える瞳に感情の色はなかった。コイツはやる。鶏の首を折るような気軽さで、俺を撃つ。実際のところ、両組織のけじめの場に銃など持ち込めるのかは不明瞭だが、ヨハンの思考はそこへは辿りつかない。

(そ、そうだ。所詮ダイスだろ。確率は……よく分かんねえけど、よっぽど悪くなきゃ死なねえはずだ。あの2人はたまたまだ……いや、あいつらが悪い運を引いた分、俺は運が良くなってるはず……!)

絶対的な恐怖に晒された理性は、ロシアンルーレットへの恐怖を、それが内包するリスクを低減することに努めたのだ。眼前の不安から逃げるため、理想的な結末を迎える前提に、理屈にならない理屈を積み立てていく。彼がいつもそうしていたように。

クアドンの落ちこぼれは、いくらかのモラトリアムの後にゴルデル・ファミリーの一員となる。誰が命じるわけでもない。他に行き場がないため、自然とそこへ行き着くのだ。ヨハンにはそれが嫌だった。上意下達の世界に溶け込めば自分が失われるような気がしていた。けれどもそこから逃れるための資質を、彼は何一つ持ち合わせていなかった。

(嫌だ、嫌だ、嫌だ……! 何で俺がこんな目に……!)

夜な夜な泣いて、叫んで、喚いて、暴れた。それで何が手に入るということもない。ヨハン自身もそれは分かっていた。それでも自分が何かになれる自信はなかった。審判の日が近づく中、彼はただ逃避に努め続けた。誰かが救い出してくれることを祈りながら。

そして出会った。外から来た組織に。別世界に。ドラッグに。『ブルーオーシャン』に。ヨハンは深く考えなかった。そして今、彼は死の淵に立たされている。

(大丈夫だ……! 俺は大丈夫だ。バンジージャンプとおんなじだ。度胸試しだ!)

心臓がバクバクと鳴る。胸を強く押さえ、痛みで紛らわせようとする。
ミハエルが笑いかける。

「で、どうするんです?」

「……分かったよ! 行きゃいいんだろ!」

ヨハンは吹っ切るように言った。汗が噴き出す。思ったよりも強い声が出た。ミハエルは驚きもせず振り返った。

「じゃ、さっさと済ませましょう。そちらは?」

「アイシャが行く」

ゴルデル・ファミリー側から小柄な女性が進み出ると、粛々とテーブルに向かい、着席した。彼女とヨハンには頭1つ分も身長差があったが、精神的優位は誰の目にも明らかだった。アイシャは静かに言った。

「じゃ、始めようか。どっちが……」

「当然俺からだ!」

ヨハンは引ったくるように、少し汗ばんだダイスを取った。冷えた命の残り香に根源的な恐怖が湧き上がる。彼は必死に見てみぬフリをする。

「振ればいいんだろ、振ればよ!」

ヨハンはミハエルを振り返り、叫んだ。同意を求めているのではない。不満をぶつけることで精神の安定を図っているのだ。

「早くしなさ……」

「こんなもんで、この俺がッ!」

カァン! 叩きつけるようにダイスを碗に落とす。ミハエルが肩をすくめる。ダイスは一度宙に跳ね、それから円を描くように碗上を回った。

(1だ、1だ、1が出る! いや、2でも……)

カラン、カラン……回転が止まった。ヨハンは食うように覗き込んだ。

『1』

その数字に、少年は快哉した。


血の勢いを確かめるようにヨハンは何度も手を握りしめる。対面のアイシャはそれを冷ややかな目で見ていた。気を抜くのが早い。これが後輩なら叱り付けていたところだ。

急げ。衝動が続いている間に。ヨハンは弾倉に弾を込めようとし、一度落とし、二度目で込めた。1。それは6分の1。つまり……

(ほとんど大丈夫だ……!)

少年は思考を打ち切る。あれこれ考える暇はない。逃げ切らなければ。弾倉を回し、銃口をこめかみに突きつける。わずかにこびり付いていた焦げた皮膚の感触が嫌なリアリティを放っている。だがこれは俺じゃない。絶対に俺じゃない。俺は絶対にそうならない! 引き金を引く!






カチッ……





「……!」

ヨハンは背中から滑るように椅子から崩れ落ちた。痛みではない。安堵によってだ。

「ははっ……はは、あははははっ!」

少年は笑った。今まで感じたことのない喜びが心の底から溢れ出した。嫌な音を立てながらズボンに暖かいものが染み出していくことすら、彼には祝福のように思えた。

「うわっ……」

『ブルーオーシャン』陣営の5番手、リーズがその愛らしい顔を露骨にしかめた。ヨハンは気にも留めなかった。狂ったように笑い、人生初めての勝利の喜びを噛み締めていた。

「見苦しいなァ」

ゴルデルが呆れたように言った。

「それに関しては同意です」

嘆息。ミハエルは指を鳴らした。黒服の1人が入ってきて、何事かと尋ねる。すぐにヨハンは椅子ごと運び出され、会合の間から姿を消した。

「で……こっちの番だね」

湿気った空気を割ったのは、アイシャの良く通る声だった。彼女はダイスを取り、指先で弄ぶ。その表情に笑みはない。敵が死のうが生きようが、やることは何一つ変わらないのだから。若干の腹立たしさは感じるが、それも心のうちにしまい込む。

いかなる時も冷静であれること。それがアイシャの数少ない強みだった。無論、彼女はロボットでもなければ、感情が無いわけでもない。家族や、気を許せる者の前では子供のように笑う。だがどこか、他の人間の持つ何かが。理性と感情を切り分ける妨げとなる、そんな何かが……磨耗し、欠落していた。


◆ ◆ ◆


アイシャは弱い。背は低く、力もないし、手先も不器用だ。だが子供の頃はそうではなかった。むしろ逆だった。常に誰かを虐げ、従えていた。けれども彼女の成長はそこで止まった。周りがだんだん彼女より大きくなり、立場が完全に逆転し、彼女が外に出られなくなるまでに、そう時間は掛からなかった。

自宅に取り残されている間も、時は流れ続ける。アイシャは世界を憎んだ。世界はアイシャを忘れた。アイシャもまた、憎しみを忘れていった。やがて父が死んだ時も、葬儀は母が行い、アイシャは自室に籠もっていた。だからその母が死んだ時、彼女にはどうしていいか分からなかった。齢30の少女は、放ったらかしにしたら蛆が湧きだした母を、ただ漫然と見つめていた。

「死んだらこうなるんだ」

アイシャはぼんやりと呟いた。父が死んだ時は、母が泣いていた。だから彼女も少し悲しかった。今は誰も泣いていない。だから何の感慨も湧かない。

「惨いなあ」

「そうだな、惨いもんだ」

後ろから男の声がした。彼女は振り返らずに言った。

「そうだね」

「お前は誰だ、とか聞かないのか?」

「じゃあ聞く。誰?」

「ゴルデル・ファミリーといえば分かるか」

「ゴルデル……?」

記憶をたぐる。家の外の光景はおぼろげで、褪せている。ゴルデル。顔のない誰かが言っている。あのクソども。クアドンの寄生虫。彼女はそのまま口に出す。

「クソどもで、寄生虫だっけ?」

「……間違っちゃねえかもな」

男は苦笑した。アイシャは振り返った。

「あなたは誰?」

「タリエイ・ゴルデル。寄生虫の親玉さ」

「何しに来たの?」

「迎えに来たんだ」

老年の男は膝を曲げ、手を差し伸べた。アイシャは迷わずその手を取り、立ち上がろうとして、よろけた。ゴルデルは抱きとめた。

「……と。大丈夫か?」

「うん」

人肌のぬくもり。包まれるような暖かさ。恋焦がれ、いつの間にか忘れてしまっていたもの。感情の枯れた瞳から、アイシャは何かが滲んでくるのを感じた。

「じゃあ行こうか。忘れ物はないか」

「ここには何もない」

「そうか」

亡骸を残し、2人は外へ出る。雲の晴れ間から日の光が差し込んでいた。十数年ぶりの刺激にアイシャは目を細める。軒先にはテレビの中でしか見たことのない、立派な黒い車が止まっていた。ゴルデルが近づくと独りでにドアが開き、2人を迎え入れる。

「ゴルデルさん、どうや……うぷっ!」

運転席の男、ラルフは反射的にえずいた。アイシャの臭いのせいだ。ゴルデルは咎めた。

「オイ、失礼だぞ」

「す、すんません、つい」

「どこへ行くの?」

平謝りするラルフに、アイシャは少女のようなトーンの声で尋ねた。彼は訝しみながらも、何とか冷静に答える。

「俺たちの家だよ」

「そうなの」

そこで会話は途切れた。ラルフは話題を探そうとした。

「ま、後は着いてからだ。住む場所なり何なりの手配もいるだろ。忙しくなるぞ」

「はい」

親父の言葉に、ラルフは車をゆっくりとスタートさせる。アイシャはガラス越しに、地球を眺める宇宙飛行士のように自分の家を見ていた。ラルフは強烈な臭いで頭がくらくらするのを根性で耐え、赤信号のわずかな待ち時間に黙祷した。

(アイシャさんのお母さん。娘さんのことは俺たちに任せてください。……安らかに)


それが彼らの出会いだった。ファミリーに迎えられたアイシャは、徐々に無くしたものを取り戻していった。彼女は積極的に危険なヤマに関わり、すぐに頭角を表した。皮肉にも感情の欠落こそが、感情を取り戻すための最大の武器となったのだ。

そして現在、彼女は死のゲームの2番手として堂々と席に着いている。その一方で、彼女を見守り続けたラルフの胸裡には、様々な感情がうずまいていた。誇らしさと喜び。そして疑念と後悔。本当にこれで良かったのか。

アイシャはダイスを投じる。弛み掛けた空気は一瞬で引き締まった。回転が止まり、『3』の目が出る。

「ま、そこそこでしょうね。可もなく不可もなく。でも半々で……」

ミハエルが煽る。アイシャは弾丸を込める。馬鹿な演説が続く中、こめかみに当て、引き金を引く。






カチッ……






クリック音。それで終わりだった。弾丸を抜き取り、席を立つ。安堵のため息と舌打ちの音が聞こえる。

「やれやれ、運が……」

ミハエルが背中に何か言おうとした。アイシャは振り返り、呆れたように言った。

「あんた、さっきの子と同じだね」

「何ですって?」

「少しは落ち着きな。いくらキャンキャン吠えたって、アンタは強く見えないよ」

女傑は笑った。それは後輩に接するような気安さだった。それがかえってミハエルの怒りを買った。

「……何だと」

彼女はもはや構わない。悠々と陣営に戻り、親父に一礼し、列に並ぶ。ミハエルは立ち上がり怒声を上げた。

「待て! このババア……」

「早く進めようぜ。時間がもったいないんだろ?」

老親分は、その怒声を静かに遮った。

「だが……!」

「アイシャ、謝っとけ。言い過ぎだ」

「はい。どうもすみませんでした」

彼女は深々と一礼した。いちいちその意味を問い質しはしない。親父の言うことは絶対だからだ。ミハエルは憎々しげに引き下がる。

「クッ……! ……覚えておくことです。あなたが私の怒りを買ったことを……!」

「申し訳ございません」

沈痛な面持ちを作り、心のうちで舌を出す。手慣れた仕草だ。ヴィーコは腹の底で冷笑した。やがてミハエルは言った。

「……次へ行きましょうか。確かに時間の無駄ですから。後で何とでもできることにね」

震える指先で眼鏡を直す。

「ああ、そうだな」

……スコアが更新される。2つ並んだ『0』の隣に『1』が書き足される。互いに1点づつの互角。両陣営の5番手、キムとリーズは唾を飲む。サッカーのPK戦のように、以降のゲームを行っても結果が覆されない場合、その時点でゲームは終了となる。無用な犠牲者を出さないための紳士的な取り決めである。

すなわち、ここに続くどちらかの2名が連続して当たりを引いた場合。なおかつその相手側が連続して外れを引いた場合。2点のスコア差がつき、次のゲームで1点得たとしても結果は覆らない。そうなれば5番手は馬鹿げたダイスに命を賭けずに済むのだ。

ゆえにゴルデル・ファミリーは良く話し合って順番を決めた。1番手は買って出たエリック。2番手は兄貴分より死んだ時の損害が少ない、と申し出たアイシャ。3番手にヴィーコ、4番手にラルフ。そして満場一致で、まだ若く、未来があると判断されたキムが5番手だ。一方、ブルーオーシャンは適当に決めた。3番手と5番手以外は。

「さて、こちらはヴィーコが行く。そちらは?」

「アルベルトくんが。構いませんね?」

「ああ、いつでもな」

アルベルトは不敵に笑った。ヴィーコは睨めつける。『ブルーオーシャン』の幹部。ミハエルの右腕。クアドンの汚染の実行者を。ヴィーコはサングラスを外した。研ぎ澄ましたナイフのように鋭い眼光が、振り返った怨敵に突き刺さった。アルベルトは一瞬、呼吸を忘れた。

(クアドンにたかる蛆蠅が……!)

狂犬は殺意を叩きつけた。


◆ ◆ ◆


「フーッ……」

スコアの更新を終えたシンシアは『会合の間』への大扉にもたれかかり、ため息を吐いた。部屋の中は息が詰まりそうな緊張感に満ちていて、ただひたすらに恐ろしかった。またこの中に入るかと思うと生きた心地がしない。

「お疲れ、シンシアちゃん」

「楽な仕事だがな」

同僚の黒服、日系のタグチが笑いかけ、ドレッドが余計なことを言った。タグチは即座に抗議を入れる。

「オイ、楽な仕事ってこたないだろ?」

「俺たちに比べりゃよっぽど楽さ。死体を運ばずに済むんだからな。違うか?」

「そりゃ、お前。でも……」

「いいんですタグチさん。ドレッドさんの仰るとおりですから」

シンシアは気丈に笑いかける。彼女は血と、争い事が嫌いだ。今回はその2つが合わさり、最悪の気分だった。初回の殺し合いが終わり、2人の死体に関わることになった時も、彼女はずっと目を逸らしていた。それでも流れてくる血の臭いを嗅ぐだけで気が遠くなった。

「ほら、愛しの彼女もそう言ってるぞ」

ドレッドはニヤニヤ笑った。タグチは慌てて弁解する。

「いと……! お、俺、俺はただ、新人の心配をだな……!」

「だとさ。まあ、こいつの言うことにも一理ある。仕事自体は楽でも、何かヘマをすりゃ何されるか分からんからな」

「……?」

シンシアは同僚の妙な様子を訝しんだが、興味がなかったので追求は避けた。代わりに、彼女は杞憂するもう1人の同僚に笑いかけた。

「そんなに心配なさらずとも。『ブルーオーシャン』の人はともかく、『ゴルデル・ファミリー』の方々は、クアドンの町の人々のために戦われてるんでしょう? 大丈夫ですよ」

「……ハァ?」

ドレッドは足を止めた。タグチは爆発の予兆に身震いした。


皮肉屋だった同僚の雰囲気が変わったのを、シンシアは鋭敏に感じ取っていた。彼女は怯え、口を挟めなかった。やがてドレッドは吐き捨てるように言った。

「……馬鹿言っちゃ困るぜ。連中が俺らの味方なもんかよ」

彼の瞳には不穏な怒りがふつふつと燃えている。タグチは慌てて2人の間に入った。

「あー、あー、うん。お前の言いたいことも分かる。大変だったもんな」

彼はドレッドに『抑えろ』と身振りで示しながら、シンシアの方を向いて言った。

「ごめんな、ドレッドの兄貴はファミリーの連中のせいで……」

「ちげえよ。兄貴が死んだのは連中のせいじゃねえ」

「え?」

タグチは素で聞き返した。ドレッドは述懐する。

「クソドラッグに手を出して、結局死んだのは兄貴の自業自得だ。そのことはいい。だがな、俺はその後が許せねえんだ」

「どういうこと……ですか?」

シンシアはおずおずと尋ねた。ドレッドの怒りを彼女はひしと感じている。だが恐怖を抑え込んででも、それを聞かずにはいられなかったのだ。

「……チッ。お前、何にも知らねえんだな。いいか、連中」

瞬間、ドレッドの口が手で覆われる。タグチだ。彼は指先で会合の間を示した。

「落ち着けドレッド。……俺が話す。ここで怒鳴り声なんか上げてみろ、間違いなく見咎められるぞ」

「……」

ドレッドは不遜に頷いて同意を示した。

「ありがとう」

タグチは安堵の笑いを向けた。シンシアは黙って彼に一礼した。クアドンの住民は、ゆっくりと語り始めた。

「……数年前まで、この町は平和だった。少なくとも表面上はね。でも今は違う」

タグチは遠いところを見るような目をした。

「ブルーオーシャン。今、中でドンパチやってる組織の名前じゃない。同じ名前のドラッグだ。奴らがそれを持ち込んで、クアドンで売り捌き始めたんだ」

「ドラッグ……」

「都会じゃ当たり前にあるみたいだけど、この町には無かった。ファミリーが取り締まってたからね。だから当然、ファミリーも黙っちゃいなかった。売人を見つけ出して……いや、詳しくは止そう。密売を止めさせたし、使用者を見つけては無理やりドラッグを抜いた。猿轡を噛ませて縛り上げ、禁断症状と戦わせてね。……当然、地獄の苦しみさ」

タグチの胸に遠い日の記憶が去来する。隣の部屋から聞こえてきた呻き声。数日が明けたのちに見た、隣人のげっそりと痩せ、落ち窪んだ形相。だがその恐怖が彼にドラッグの誘惑を断ち切らせた。

「……ドレッドの兄貴もそれで死んだ。でも、それでも汚染は止まらなかった」

「なぜ……?」

「若者も、中年も、老人も。みんな鬱屈としてた。いつまでも続く憂鬱な気分をブッ飛ばしてくれる何かが欲しかった。ブルーオーシャンはそんな気持ちに誰よりも的確に答えた。イジメよりも後腐れなくて、酒みたいに悪酔いしない。薬が効いてる間は天国にいられる」

タグチはドラッグを勧める同僚の姿を思い起こす。ヘラヘラとだらしなく笑う、堅物だった男の姿を。翌日会った時、彼は元どおりになっていた。それがたまらなく怖かった。

「それに手を伸ばすのが、ギロチン台に手を差し込むようなことであっても、みんな躊躇しなかった。やがて中毒者が増えてくると、組織は一斉にドラッグを値上げした。禁断症状の恐怖をネタに金を搾り取りに来たんだ」

「……そして奴らは裏切った」

ドレッドがポツリと呟いた。タグチは振り返る。

「ドレッド……」

「安心しろ。ちったあ落ち着いたさ。ファミリーの連中は、ブルーオーシャンの汚染を止めるために海賊版を売り出したんだ」

「海賊版?」

「組成がどうとか言ってたが……俺には仕組みは分かんねえ。ま、要するに劣化版さ。幸福感こそ薄いが、安い値段でブルーオーシャンの禁断症状から逃れられる。これを売り捌いて連中の資金源を断とうってな」

「禁煙剤のようなもの……ですか?」

シンシアはなるべく穏当に例えた。ドレッドは苦々しげに答える。

「ああ、そうさ。クアドンが金づるにならなくなれば、連中は勝手に逃げていく。そうなれば劣化版の供給を断ち、じきにクアドンは元の町に戻る……ラルフの野郎はそう言った。だが結果はどうだよ?」

拳を握りしめる。爪が立ち、血が滲むほどに。兄を奪われた男は声を震わせる。

「海賊版で禁断症状はごまかせても、脳にこびりついた快感は消えねえ。時が経ち、金が貯まってくれば、またブルーオーシャンを買い始める。今やクアドンの大部分がどちらかのドラッグの常用者で、税金みたいにギャングどもに金を払ってる。……これで汚染が止まったって言えるか? 解決したのか? ……兄貴を殺してまで進めた根絶策は……!」

「ドレッド!」

タグチが思わず叫んだ。そこまでだ。彼はそう続けようとして、己の声量に気づいた。

「おい、馬鹿……」

ドレッドが毒づいた。だが責めはしなかった。すぐに会合の間から短い金髪の偉丈夫が現れた。彼は後ろ手にドアを閉め、険しい顔で3人に尋ねた。

「……どうかしたのか?」

「い、いや、何でもないですよ。ちょっと転びそうになっただけで……」

「ええ。アンタには関係ないことですよ、ラルフさん」

タグチは愛想笑いした。ドレッドはまるで嫌悪を隠さずに言った。

「……ラルフ」

シンシアはその男を見上げた。ドレッドが、怒りと共にその名を口にした男を。彼は少しの間、辺りを警戒し、室内に「大丈夫だ」と一言告げ、ようやく彼女の方を向いた。2人の視線が一瞬交差した。男は彼女を指で示し、顔見知りの2人に尋ねた。

「……この子は? さっきも見たが、前からはいなかったよな。新しい従業員か?」

「へ、へえ。ジェシカ婆さんとこの姪っ子さんで。休学して見識を広めに……」

「つまり帰るのか? この場所のことを知って?」

ラルフの眼光が鋭く光った。

「えっ! あ、あ、いや、その……」

タグチは蒼白になった。フォローするつもりが、とんだ墓穴を……! だがそんな彼の横からシンシアが口を挟んだ。

「口外しません」

「口約束じゃあな」

ラルフは威圧的に詰め寄った。シンシアは物怖じしなかった。彼女は扉が閉まっていることを確かめると、声を潜めて言った。

「保証があります。……タリエイ・ゴルデルの」

「……なんだって?」

ラルフは静かに問うた。タグチとドレッドが息を呑む音が聞こえた。

「本気だな? もし嘘だと分かれば……」

「ええ、分かっています」

シンシアは厳かに言った。その声色には強い意思が宿っていた。ラルフは何かを言おうとし……やがて引き下がり、会合の間へと戻って行った。

「シンシアちゃん、君はいったい……」

タグチは彼女の変化に戸惑い、尋ねようとした。シンシアは小さく首を振った。

「仕事はまだ続きます。……話はその後にしましょう」

短いやり取りは一方的に打ち切られる。ドレッドは無言だった。表面上の冷静を繕いながらも、彼は激情を込めた瞳をもう1人の裏切り者へ向けていた。


10

ありきたりな話だ。ヴィーコは己の過去を語る時、決まってそう前置きをする。それは端的な事実であると同時に、そうあって欲しいという彼の願望でもあった。

ヴィーコが5つの時、母は家を出た。理由は良く分からない。おそらくクアドンの閉鎖性に嫌気が差したとか、まだ若い自分の可能性を試したいとか、そんな理由だろう。それからさほど日も経たぬ内に、父もこの世を去った。享年61。意気軒昂に生きてきたが、思わぬところで躓くと、そのままあっさりと死んでしまった。

父には金があった。ヴィーコにはその価値が分からなかったが、ともかくその大部分が彼の手に渡った。金に呪われた幼児に待っていたのは、当然ロクな運命ではない。ヴィーコは小切手帳に付属する、出来の悪いペンだった。

やがてたらい回しが始まった。祖父。叔母。従兄弟。隣人。そして叔父。程なくしてヴィーコは叔父の家を出た。先のことは考えていなかったが、2つほど分かっていたことがあった。1つ。金があれば生きていける。2つ。命は金よりもずっと重い。

やがて8歳の怪物は、誘拐という悪事に手を染めた。自身と同じような年頃の子を誘い出し、使われていない納屋に押し込み、その親に金品を要求したのだ。大人と戦っても勝てないことを、彼は嫌というほど知っていた。だから弱みを握った。単純な理屈だ。

犯行そのものも至ってシンプルだった。ゆえに特定も早かった。西日が差し込む、天井の壊れた廃工場。金を受け取りに行ったヴィーコが見たのはドル札の束ではなく、自身を取り囲む、叔父よりもずっと背の高い男の集団だった。


◆ ◆ ◆


「離せよ」

両腕を別々の男に持ち上げられたヴィーコは、そう吐き捨てて見せた。拘束者たちはこの少年を扱いあぐねているようだった。もし彼がもう一回り大きければ、彼らは遠慮なくヴィーコを殴り飛ばしただろうが、今の彼はどう見ても年齢1桁の、殴ればそのまま死んでしまいそうなほど痩せた子供だ。中折れ帽をかぶった壮年の男だけが、この小さな犯罪者を真っ直ぐに見据えていた。

「いいぞ。だがまず人質を解放してくれ」

「嫌だと言ったら?」

「言ってどうする?」

男はニヤリと笑った。ヴィーコは答えに詰まった。そこまで考えてはいない。

「そこまで考えてなかったんだろ? ただ素直に言うことを聞くのが嫌だった」

「うるさい」

「やはりガキだな。行動力こそあるが、後のことをまるで考えていない」

「うるさいって言ってるだろ!」

「それで黙ると思ってるからガキなんだ」

「……!」

少年はもがいた。激情のままに身を乗り出し、このいけすかない大人に噛み付いてやろうとした。だが敵わない。両腕の男に腕を抑えられ、足も頭も届かない。やがて彼は諦め、肩で息をした。

「そういう無駄なことをするのも、ガキにありがちなこったな」

男は楽しそうに笑った。ヴィーコは絞り出すように言った。

「……殺せよ」

「ハハハ、俺が殺したらお前、死ぬんだぞ」

「あのガキならエイゼル・ストリートの裏路地だ。緑の屋根の空き家は、パイプを伝って2階に入れる」

「ほう、それはいい情報だ」

男は取り巻きの何人かに指示を出す。彼らは頷き、すぐに人質の元へ向かう。廃工場には男とヴィーコと、それから彼を抑える2人の男が残る。

「もう用はないだろ。殺せよ」

「だから、殺したらお前が死ぬんだっての」

「関係ないだろ」

「関係あるさ。寝覚めが悪くなる」

男は葉巻を咥え、着火する。燻されたコイーバの匂いがヴィーコの記憶を刺激した。

(……これ、父さんの……)

「フーッ……さてヴィーコ。お前さんには2つ、選択肢がある」

パチン。男が指を鳴らすと、ヴィーコの体は地に落ちた。腕がじんじんと痺れる。困惑しながら見上げる少年に、男は続けて言った。

「1つはこのまま回れ右して、行き当たりばったりの生活に戻る道。2つ目は」

男は手を差し出した。逆光の下、力強い目と大きな手のひらがヴィーコの視界を占有した。

「俺たちの元へ来て、共に暮らす道だ」

「……」

ヴィーコは呆けたようにその手を見ていた。なぜ。

「なぜってか? ガキは大人に甘えるもんだぜ」

「でも」

「メシは食わせてやる。仕事も手伝わなくていい。ただし学校は行けよな」

「どうして」

「お前、親父にも同じこと聞いたのか?」

「……」

幼いヴィーコの中で混沌とした感情が渦巻く。言うことを聞けよ。願ってもない話だろ? 父が死んでから今までに溜め込んだものが、堰を切って溢れそうになる。でも。

「俺は……」

男は何も答えなかった。代わりに、黙って手を差し伸べ続けた。2分。3分。5分。10分。沈黙が続いた。やがて少年は、ゆっくりとその手を取った。

「……分かったよ。付いてってやる」

「そうしろ、そうしろ。……ああ、そうそう。俺のことは親父って呼べよ」

「何でだよ」

「気分がいいからだ」

「ぜってー呼ばねえ」

「ああ、そうしろ」

取り巻きがヴィーコを諌めようとするのを静止し、男は心底愉快そうに笑った。

「……アンタの名前は」

「タリエイ・ゴルデルだ」

「よろしくしてやるよ、ゴルデルさんよ」

ゴルデルはにんまりと笑うと、彼を引き起こした。少年の小さな手は、男の大きな手のひらに包まれた。それは暖かかった。ファミリーの事務所へ向かう車の後部座席。己の膝に顔を押し付けるようにして、ヴィーコは泣いた。それが彼らの出会いだった。


◆ ◆ ◆


(……色々あったな、俺も)

己の死を前に、ヴィーコは追憶する。先んじて碗の中に投じたダイスは『6』を示している。すなわち、込める弾数は6。確率は6分の6。

「ほらほら、ボーッとしてないで。早く弾を込めたらどうです?」

ミハエルが嬉しそうに喚く。まるで子供の頃の俺だな。ヴィーコは苦笑する。

「ああ、ちょっと待て。……キム」

「はい」

「お前はまだ若く、失敗も多い。だがそれに負けず、前を向き続けろ」

「はい」

「それと、こういう場では泣くな。……アイシャ」

「はい」

「お前は……まあ、普段から落ち着け」

「できる限りは」

「ああ、それでいい。……ラルフ」

「おう」

「先に逝く。後のことは頼む」

「……ああ」

「それと……この間、答えられなかった質問だがな。答えは……」

「イエス、だろ?」

「ああ。で、最後に……親父」

「……」

ゴルデルは黙ってヴィーコを見返した。息子は目線を合わせ、素直に笑いかけた。

「ありがとう。アンタに会えて良かった」

「ああ。……俺もだよ」

未練は無くなった。ヴィーコは手元の銃に、手入れをするような気安さで6発の弾丸を装填し、シリンダーを回転させた。無論、意味などない。気分の問題だ。……俺は存外、律儀なタイプなのかもしれないな。彼は苦笑した。

(エリック。俺も今行くぞ)

銃口をこめかみに当てる。一瞬、おぼろげになった実の父母の姿が浮かぶ。引き金を引く。一連の動作は滞りなく完了し、彼の意識は永遠の闇に消えた。


◆11

「クッ……!」

ゴルデルが唇を噛んだ。キムは歯を食いしばり、瞳の端から溢れるものを堪えようとしていた。アイシャの拳から一筋の血が垂れた。ラルフは静かに目を閉じ、親友の死に黙祷した。エリックと違い、ヴィーコには言い遺す間があった。それが余計に辛さを生んだ。

そして、対面のアルベルトは……出来の悪いドラマでも見ているかのようにその光景を見ていた。

(くだらねえな。実にくだらねえ)

喧嘩売ってきたハゲ頭のアホは、すでに足元で数回痙攣し、そのまま二度と動かなくなった。いいザマだ。だが、次にこうなるのは俺かもしれない……

(ンなことを考えてるんだろうな、この場のカスどもは)

前方から向けられる期待が籠もった目線を前に、アルベルトは静かに思った。

(この俺が死ぬわけねえだろ?)

不敵な笑いがこぼれる。彼はミハエルを振り返る。ミハエルは笑い返した。会合の間に入る直前のやりとりを思い出す。銃に細工済み。ゆえにアルベルトは絶対にこのゲームで死ぬことがない。当然だろう。ミハエルに彼は殺せない。殺せるはずがない。

大手製薬会社を退社し、ブルーオーシャンを立ち上げた当時から、いやそのもっと前から、彼はミハエルを支えていた。彼らの出会いは会社の研究施設だった。ミハエルは研究員の中でも飛び抜けて有能な男だった。しかし、コミュニケーション能力とプレゼン能力……社会人にとって何より大切なこの2つが致命的に欠けていた。

アルベルトはそんな彼の潜在能力を見抜き、すぐさま自身の研究チームに取り込んだ。そして上司と部下の関係でありながら、親友になった。

親友。然り。お互いに欠けているものを補い合う理想的な関係だ。彼はミハエルの苦手な人付き合いを代行し、代わりに研究成果の大部分を自分の手柄として社に発表し、上がった給与や報奨金をミハエルに分け与えた。

上司は部下が名を上げることを決して許さなかった。より有能な代行役に名乗り出られては困るからだ。部下も多少の不満こそあったが、爪弾きにされなくなったことには感謝していた。そんなある日、アルベルトは実験室で奇妙な物を見かけた……

「……何だ、この青色の粉は」

鉄色の空間。アルベルトは試験管に入った謎の粉を見て尋ねた。親友は目線を合わさずに答えた。

「ああそれ? ドラッグですよ」

「……合法だよな?」

「おそらくは。この構造はまだ出回ってないはずですからね」

「何だって? お前が作ったのか?」

「ええ。ニュースで見たんですよ。流行ってるって。で、余暇にやってみたら出来たんです」

まんまるな泥だんごを親に見せる子供のように、研究員は楽しそうに笑った。一方のアルベルトは肝を冷やす。コイツ、そのうちゾンビウイルスでも作り出すんじゃないか?

「んん……とりあえず誰にも言うなよ」

「何故です?」

「そりゃお前。企業イメージってのがあるだろ。立場上マズいんだよ」

「そうですか。……面白そうだと思ったんだけどなぁ」

ミハエルは机に頬杖をつくと、試験管を揺らしてため息を一つ。アルベルトはコーヒー用の湯を沸かしながら呆れた。

「やれやれ。とんでもないことを……これ、どんな気分になるんだ?」

「んー、そのですね。海です」

「海?」

「そう、こう、海をですね。広いでしょ? 広いですよね。海は地球に元々あったから、すごく広いんですよ。俺たちの祖先だって海から生まれたんです。だからイルカが賢いのは特段不思議なことじゃなくて、そのだだっ広い海に俺が1人浮いている、みたいな感じになるんですよ」

「さっぱり分からん」

上司は眉間を押さえた。毎度のことながら、翻訳機が欲しくなる説明だ。

「じゃあ主任、試されますか?」

「結構だ。俺はまだ死にたくないからな」

「体に害はありませんよ?」

「どうして分かるんだ」

「だって分かりますから」

説明になってないぞ。アルベルトはそう言いかけ、口をつぐんだ。説明を頼んだところで新たな暗号が増えるだけだ。

「はぁ……ん」

と、彼はふと可能性に気づく。

「どうされました?」

「これ、まだ作れるか?」

「まあ、材料費があれば」

「俺が出す」

「量によりますけど、結構掛かりますよ?」

「大丈夫だ。予算をちょろまかせばな」

「あらら」

そうして彼らは未知のドラッグの生成を始めた。快楽度。依存性。幸福感。禁断症状。アルベルトが求める数値を指定すると、ミハエルは即座に成果を出してみせた。天才。上司は舌を巻いた。彼とてそれなりに知恵の回る男であった。だが……いや、だからこそ……ミハエルが桁外れだということがわかった。

アルベルトは秘密裏に実験を繰り返した。強い快楽。低い依存性。幸福に満たされる感覚。そして果てしなく辛い禁断症状を持った新式のドラッグ。手軽な材料で量産可能な、無限に金の成る木を。次第に予算を使い込む額は増え、やがてコトは露見した。

「若返りの薬を作りたかったんです」

査問会の場。刺すような視線が全方位から突き刺さる中、アルベルトは臆面もなくそう言った。それに関わる偽の研究成果は既に仕立ててあった。彼らは製薬会社を穏便にクビになった。問題はない。むしろ辞表の文面を考えていたアルベルトにとっては渡りに船のことだった。

「この先どうするんです? 俺はアンタが作れっていうから作っただけなのに!」

酒の席。ミハエルは溜まりに溜まった不満を叩きつけた。成果物が何を引き起こすかには興味が無かったが、収入が失われるのは困る。弱々しい剣幕で詰め寄る元部下に、元上司は静かに言った。

「終わったことをゴタゴタ言うんじゃねえ。それにお前の次の職なら用意してある」

「次? それって何です?」

「ギャングだよ」

「はぁ?」

「計画は出来上がってる。お前はこれから好きなだけ研究ができるんだ」

アルベルトはにんまりと笑った。

……それからの行動は驚くほど上手くいった。カンザスを離れ、同僚から聞いた『ドラッグのない町』へ。住民を誑し込み、徐々にヤク漬けにしていく。なんちゃらファミリーがしゃしゃり出るよりも早く。そのための弾は無尽蔵にあり、駒も簡単に集まった。

違法行為を厭わぬ連中に対してもっとも効果的なのは、排除することにリスクを孕む存在になることだ。アルベルトはそれを心得ていた。ファミリーは所詮、違法な存在だ。住民の暗黙の支持を失えば瓦解する。海賊版を作られた時はヒヤリとしたが、それでも実験ネズミは『本物』の幸福感を、ブルーオーシャンを求め続けた。

組織は繁栄した。誰のおかげだ? 無論、俺だ。そう、上手くやったのはこの俺だ。いくら規格外の天才といえど、ミハエルは所詮ギークに過ぎない。ブルーオーシャンはこれからもっと大きくなる。それに俺のような有能な人材は必要不可欠だ。ゆえに、俺は守られる。

ただよう硝煙の香りも、酸鼻な血と脳漿の臭いも、手元で鈍色の光を放つ拳銃も、その何もかもがくだらない。……だがまあ、こういう役割を任された以上、演じないわけにもいくまい。

「じゃ、始めるぜ」

クールに決める。アホどもの羨望の眼差しが心地よい。彼は無造作にダイスを放った。


『4』


「ま、分の悪い賭けだな」

余裕の表情で口笛を吹き、机に足を載せて椅子にもたれかかると、彼はミハエルを横目で見た。相棒は薄ら笑いを浮かべている。釣られて笑みが浮かぶ。

(面倒なコトさせやがって)

居並ぶ低能どもに蔑みの視線を送り、彼は引き金を引いた。






ガァン!






……1セットのゲームが終わった。元上司は目を見開き、鼻血を垂らし、脳味噌を床にブチまけて死んだ。この上なく無様な死に様を見て、ミハエルは痛快な笑みをこぼした。

「……何を信じていたんでしょうね、あのバカは」


12

ミハエルが指を鳴らす。黒服の2人が台車を押して入ってくる。その後ろにシンシアが続く。

(だいぶん……減ったな)

タグチは何故か胸の苦しさを感じた。所詮は赤の他人。その上卑劣なギャング。悲しむ義理なんてないが、それでも何故か悲しい。

(……いや、きっと重いのが嫌なんだな)

そう考え、自身を納得させる。彼は不機嫌なドレッドとともに、名前も知らない死体を乗せていく。シンシアは睨み合う2者の間を通り抜け、スコアボードへ。ラルフは目で追わぬように努めた。

「1、0、1……」

ゴルデルが数字を数える。ミハエルは感心したように言った。

「綺麗に並んだものですね」

「フン……冷たいもんだな。奴はお前の右腕と聞いてたが」

「さて、何のことでしょう?」

ミハエルは目を細めた。この時点のスコアは互いに同じ。2人死に、1人が生き残った。これで生き残りは6名。義務を残すのは4名。

(嘘……)

睨み合うボスを他所に、リーズはスコアを見て顔を青くしていた。もしかせずとも、このままでは4人目で決着がつかないのでは? あたしが参加する? この狂ったゲームに? 血の気が引いていく。

「それで次は?」

びくりと身が震える。違う、まだ4人目。まだ無関係だ。まだ? いや、絶対に無関係だ。このあたしは。

「こちらはクラーク君を」

「ラルフが行く」

目配せ。ラルフは立ち上がり、絞首台へ向かう不遜な死刑囚のように堂々と席へ。対岸からは黒髪とメガネの青年。気の毒なほどに憔悴しきって……否。ラルフは違和感を覚える。おそらくは、薬切れ。

(哀れなものだな、お前も俺も……)

ラルフは平静を崩さない。独白が表情に表れるほど彼は若くなかった。

「で……どっちが先だ?」

代わりに、彼は対戦相手へと親しげに笑いかけた。


◆ ◆ ◆


死体を押している間、3人は無言だった。タグチはちらちらと目線を送り、無自覚に口火を催促する。1度目の頃はこうではなかった。だがそれは、彼らの立場が『嫌な役を押し付けられた同僚』同士だったからだ。今は少し、複雑になった。

「ヴィーコだ、こいつは」

1度目の角を曲がり、ドレッドが視線を落としたまま言った。

「知ってるのか?」

「アンタはどうなんだ?」

タグチを無視し、シンシアに問いかける。彼女はおずおずと振り返り、首を振って答えた。

「フン。おぼこのフリは止めないのか?」

「おい、やめろよ」

タグチが毒のある言葉を咎める。ドレッドは止まらず、憎々しげに続けた。

「こいつはな、アンタの仲良しさんとこの幹部だ。ガキの頃から組織にいて、成人してから仕事を手伝い始めた」

「……」

「俺はちょっとばかり調べた……あくまで趣味でな。問題は何故、そんな重鎮がバカな賭け事に命を投じているか……ってことだ」

「分かり……ません」

「分かりません、か。ハハ。少なくともフリは止めたんだな」

ドレッドは欠片も嬉しくなさそうに笑った。

「もういいだろ、この話はやめよう」

タグチが言った。心の底からの言葉だった。

「いや、ハッキリさせておく。口封じにズドン、なんてのは嫌だろ?」

「そんなことは……」

「それをハッキリさせたいってんだよ、俺たちは」

俺たちは。その言葉にタグチは口を挟まなかった。彼らはやがて階段に差し掛かる。面倒だが、死体は片方づつ上に運ばなければならない。そうして一階へ運んだ後は、食材運搬用のトラックに乗せる。ファミリーの事務所に死体を送るのはゲームが終わってからだ。

小さめのビニールシートを床に引き、2人は台車上のアルベルトの体をゆっくりと持ち上げた。頭部の下の血溜まりから、ねっとりとした何らかの……考えたくもない……液体が糸を引く。タグチは吐き気を堪える。その時、シンシアが一歩先へ進んだ。

「……先に駐車場へ行っています」

「話はまだ途中だぞ」

「お話できることはありません」

「それで済むと思うか?」

「思いません。だから……待ってください。この戦いが終わるまで」

「それで納得……」

返事を待たずにシンシアは一礼し、小走りで階段を上がっていく。ドレッドは舌打ちした。

「あの女……! オイ、後は任せたぞ!」

唐突に死体から手を離す。アルベルトの頭部が床に打ち付けられ、液体がさらに垂れた。

「ヒィ!」

タグチが反射的に悲鳴を上げる。構わない。ドレッドは女の後を追う。

「待て!」

背中に言葉を投げる。シンシアは足を早め、拒絶を無言で示すと駐車場へのドアを開けた。その裏から腕が伸び、彼女の体はドレッドの目の前から消えた。

「なっ……!?」

ドレッドは足を止める。女がもがいたのか、ドアに何かがぶつかる音。若い男の笑い声。ギリ、と歯噛みする。何が起きている? あの女の敵……すなわちブルーオーシャンの何者かが、彼女を始末しに現れた?

ギャングの争い事になど首を突っ込みたくはない。見て見ぬ振りをするのが賢い選択なのだろう。だが……まだ何一つ納得していない。奴らの間で何が起きている? あの女は何のために潜入している? 兄の死をもたらした連中が何故今ものさばっている? 自身の中でとうに折り合いは付けた。だがこれ以上秘密を増やされて黙っていられるか!

「誰だ!」

ドレッドは影に問うた。狂った笑い声が答えた。彼は駐車場に飛び出し、ナイフを持った男がシンシアの首を肘で締め上げているのを見た。

(こいつはさっきの……死に損ないか!)

「動くんじゃねえ! 動いたら殺すからな!」

口角から泡を飛ばし、ヨハンが怒鳴った。口をぱくぱくとさせ、シンシアが男の腕を掻き毟る。

「……何が目的だ?」

「車の鍵だ。鍵を寄越せ! 金もだ!」

「車だと? こいつの命じゃないのか?」

「何言ってやがる、早く鍵だ! こんなシケた町とはオサラバすんだよ!」

陰謀とは無関係ということか? ドレッドは舌打ちする。その時、廊下の奥から声。タグチだ。台車を放り出し、こっちへ……

「ドレッド! 何が起き……」

「馬鹿、来るな!」

ドレッドはそちらを向き、手で静止した。ヨハンはそれを好機と見た。ナイフを振り上げ、襲いかかる!

「ケヒィーッ!」

人質を捨て、目の前の男にナイフを振り下ろす! だが遅い! 即座に鬼の形相のドレッドが振り返る! 目を剥く暇もなく、怒りに満ちた拳が顔面を捉らえた!

「……ドレッド!」

忠告を受けたタグチは1分ほど待ち、それから恐る恐る同僚の後を追った。到着した時、駐車場には地にのびたヨハンと、舌打ちするドレッド、そして地に膝をつき必死に呼吸するシンシアの姿があった。

「シンシアちゃん!? オイ、ドレッド……」

「ただの馬鹿だ。馬鹿が暴れた」

ドレッドは唾を吐き捨てた。弱すぎる。アウトローと言えど、ヨハンは所詮引きこもりを卒業したてのガキに過ぎない。日常に鍛え上げられた労働者の拳を耐えられるはずもなかった。

「それより……重要なのはアンタだ」

「そうだ、シンシアちゃん!」

タグチは駆け寄り、彼女の背を撫でた。彼女の息遣いは次第に落ち着き、やがて自らハンカチで涙と涎を拭った。

「さて、思いもよらぬところでデカい借しが出来たが。……話せるな?」

シンシアは浅く呼吸し、首を振った。

「それ、だ、けは、死ん、でも……」

ドレッドは舌打ちした。強情な。だが、彼女はかすれた声で続けた。

「……でも、1つ、だけ。私たちの、計画が、成功、すれば……この町から、ドラッグは、無くなり、ます」


13

海。青い海。海にいきたい。にかえりたい。にはぜんぶがある。

クラークは椅子に自堕落にもたれかかったまま、涎を垂らした。途端に頭痛が襲った。

「ヒィーッ!」

頭が割れるように痛い。頭蓋骨の中をムカデが這い回ってるような不快感。脳を節足が刺し回すチクチクした痛み。跳ね起きた勢いでテーブルに頭を叩きつけ、ダイスが跳ねた。

「……誰ですか、あんなの選んだ馬鹿は」

ミハエルは嘆息したが、選んだのは彼自身である。せっかくのゲームだから、怯えていなければつまらない。そう思って薬を抜いておいたのだが……結果はこれだった。

「アルベルト君、薄いの……あ、死んだんでしたっけか。ははは」

クラークが身悶えする。ラルフはすでにテーブル上の銃を取り上げていた。万が一のことが起きれば全て台無しになる。

「売り物に手を出す売人は二流、って奴ですねぇ。……そちらの誰か、薬持ってません? 薄いの」

(ねえよ、あんなもん)

キムは心中で吐き捨てた。ゴルデルは落胆を隠そうともせずに言った。

「ない。……そのままやってもらうしかあるまい」

「仕方ないですねぇ。クラーク君、そういうわけですので」

ボスの声は彼には届かない。認識が甘かった。そう後悔する余裕すら、今の彼には残っていない。1度だけ。たった1度試すだけ。キツくなったらゴルデル・ファミリーの海賊版でいつでも止められるそうじゃないか。俺だって辛いんだ。ちょっとした気分転換さ。だから1度だけ。その1度だけで、彼の生殺与奪の権利は、全てミハエルの手に渡った。

海。海。青い海。おれがとけていくばしょ。いたい。おれをうけいれてくれるばしょ。だれにもきずつけられないばしょ。かゆい。いたみからすくわれる。わらいごえがきこえる。

クラークの思考は混濁する。過去と未来が倒錯する。景色がぐるぐると回る。彼は頭を覆うように抑え、幼子のような声を上げて泣き始めた。

(……あんな男じゃなかった)

キムは歯噛みした。同じハイスクールの同じクラス。意中の女の子がらみで喧嘩もしたこともあった。それでも翌日には気持ちの良い笑みを向けてきた、そんな男だった。

クラークが売人に堕ちるまでの過程を彼は知らない。それが余計に怒りを生む。人の心を狂わせる薬への怒りを。クアドンの住民を地獄の苦しみに突き落としながらも、他人事のように笑うあの男への怒りを。

(待ってろ。もうじきお前は終わりだ)

キムが義憤を滾らせていたその時、ミハエルが言った。

「クラーク君。薬ですよ」

中毒者の泥濘のような思考を、ミハエルの声が割った。ピタリと泣き声が止み、焦点の合わない目がミハエルを注視した。

「くすり」

「やるべきことをやれば、薬を差し上げますよ」

「くれるのか」

「ことの後、ですけどね。さ、銃を返してやってください」

ラルフは銃とクラークを交互に見た。

「……大丈夫か?」

「ははは、逆らえませんよ。そういう風に出来てますから」

研究者は楽しげに笑った。銃を差し出されると、クラークはそれを引ったくった。

くすり、くすり、くすり。青い海にかえれるくすり。しってる。ずつうはつよくなる。いそいでとめないと。

焦燥。クラークは銃口をこめかみに突きつけ、引き金を引く。カチッ。カチッ。乾いた音。当然何も起こらない。弾が入っていないからだ。

「まずダイスを振るんでしたよね?」

子供をあやすようにミハエルが言った。クラークはダイスを探した。ラルフは床に落ちていたそれを拾ってやった。

「う、うう……!」

ダイスを落とす。碗の外に涎が垂れる。『2』。弾丸を込める。

くすり。はやくおわらせないと。

震える手で銃口を頭に。引き金を引けば薬が貰える。

ひきがねをひけばくすりがもらえるんだ。

クラークは安堵した。そして引き金を引いた。






カチッ……






乾いた音が鳴った。カチッ。カチッ。続けて2度。3度。

「終わりましたよ」

ミハエルが言った。その声は、クラークの耳にはまるで聞こえなかった。

だってくすりがでてこない。

彼は4度引き金を引いた。






ガァン!






「……はぁ。失敗でしたねぇ」

馬鹿なクズだ。ミハエルは吐き捨てる。床に転がったゴミには目を向けようともしない。彼はゴルデルに笑いかけ、尋ねた。

「これ、どうします? 勝敗」

「そちらの勝ち、でいいだろう」

「締まりませんねえ」

「過程はどうあれ、奴はやった。そこは弁えねばならん」

「ははは」

ゴルデルは目を伏せ、ミハエルは苦笑した。ラルフは銃を回収し、哀れな男の見開かれた目を閉じてやった。


14

「ラルフさん、何か一言!」

「一警察官として、あなたが裏切った人たちに何かありませんか!」

「合衆国市民が見ているんですよ!」

「ラルフさん! 謝罪の言葉は!」

「ラルフさん!」

詰問とフラッシュの洪水に、ラルフは何も答えない。ただ黙ってその場を立ち去る。カーテンの奥、署内の同僚はこの不器用な男の今後を祈った。誰かが手を汚さなければならなかった。それだけだからだ。

正義には2つの線がある。1つは法。明文化され、極めて理解しやすい。もう1つは情。暗黙のうちに引かれ、形となって見えることはない。彼が踏み越えたのは前者であり、守ろうとしたのは後者だった。懲戒免職は法が与えて然るべき罰だ。彼はそう考えていた。

通りすがりの罵詈雑言を浴びながら、ラルフは故郷に、クアドンに帰っていった。他の行き先は思いつかなかった。誰とも会わぬまま、懐かしい帰り路を行き、背が伸びるたびに刻んだ傷の残る古木の隣を曲がり、実家の前に差し掛かる。何かが落ちているのが見える。拾い上げると、それはアルバムだった。どの思い出からも、彼の顔だけが切り取られていた。

「これは……」

視線。見上げる。2階の彼の部屋の窓、赤い目をした母親と目が合う。窓が閉ざされる。ラルフはゆっくりと踵を返した。よくよく周りを見ると、同じような目がいくつもの窓から向けられていた。帰る場所はなくなった。行く場所もどこにもなかった。


◆ ◆ ◆


「で、変えられたのか?」

野良犬のように歩き回ること8時間。気づけば彼は旧友の……正確にはその親父の自宅で夕飯をご馳走されていた。憧れだった暖色のシャンデリアの光は、今の彼には居心地が悪かった。

「いや、何も変えられなかった」

「だが、やるべきことをやったんだろ?」

「……ああ」

ラルフは水を飲む。ゴルデルはニンマリと笑った。よく笑う男だ。唇を湿らせると、ラルフは語り始めた。

「……悪党ほど法を活用できる奴はいない。アンタは昔、そう言ったな。本当だったよ」

「……」

「奴らは法を犯さなかった。誰かの体を借りて犯罪をやり続けた。つながりの証拠なんてなかった。少なくとも、手が届くところには。だから」

「違法捜査か」

「ああ。……仇は討ったさ」

それからラルフは、己の罪を静かに述懐した。それはギャングの親玉に話すにはあまりに似つかわしくない話題だった。けれども彼は友人であるヴィーコの義父であり、今のラルフに残された、ただ1人の目上の男であり、そして唯一の相談相手だった。

彼はラルフを肯定も否定もしなかった。目を見て話を聞き、ときおり頷いて見せる、それだけだった。それだけでラルフは、積み重なっていた感情が整理されていくのを感じていた。

「……これからどうする?」

ゴルデルは問いかける。互いの皿の上は空っぽだ。お手伝いさんが淹れてくれたコーヒーから湯気が立っている。

「分からない。でもほとぼりが冷めたら、どこかで働き口を探すさ」

「何をするんだ?」

「決まってない。スーパーのレジだとか、車を磨いたりだとか。選ばなければ仕事はあるさ」

ラルフは自嘲げに言った。

「ホントは選びたいんだろ?」

「……俺にその資格はないさ」

「なら俺が選んでやる」

ゴルデルは手の指を組み、ずいと身を乗り出した。

「ウチに来い、ラルフ」

思いがけぬ言葉に、ラルフは目を見張った。ゴルデルの顔は真剣そのものだった。乾いた笑いが口をついて出た。

「……本物の犯罪者になれって? 法を踏みにじれと?」

「それでも守りたいものがあったんだろ?」

「……」

ラルフは押し黙った。言い返す言葉は思い浮かばなかった。

「なあラルフ。この町には網が必要なんだ。法の網の目をくぐり抜けた悪を絡めとる、もう一つの網がな。だから俺は親父の後を継いだ」

「アンタ……」

「外に網を張るには、法の網から抜け出さなけりゃいかん……そういうことさ。ウチに来い、ラルフ。お前の正義が必要なんだ」

ゴルデルは手を差し伸べた。……ラルフは即答しなかった。それから3日ほど、彼から借りた部屋で悩み続けた。そして最終的にファミリーへ入ることを決めた。それが彼らの出会いだった。

彼はゴルデルを、親父を信じていた。親父の語る正義を信じていた。一般的に悪と呼ばれる行いにも、彼は喜んで従事した。そこには町を守るものとしての誇りすらあった。……それが変わったのは、いつ頃だっただろう?

ファミリーの庇護の下、初めて人の命を奪った頃から? 町で偶然出会った母から罵声を浴びせられた頃から? ドレッドの兄を衰弱させ、死なせてしまった頃から? ……正義のためとはいえ、忌むべきドラッグをファミリーが扱い始めた頃から?

「なあ、ヴィーコ。お前は親父を信じられるか?」

いつの日か、彼は親友にそう尋ねたことがある。その時は間が悪く、答えは得られなかったが、つい先ほど得られた。だが彼はヴィーコのように一途に親父を信じ続けることは出来なかった。だから彼のことを調べはじめた。町に張り巡らされた陰謀の糸をたどり、ただ一つの真実を追った。

そしてたどり着いた。けれどもそれは、あらゆる意味で遅すぎた。


◆ ◆ ◆


ラルフはほとんど無造作にダイスを放った。カラカラと冴えない音が鳴る。人生を締め括るには味気のない品だ。出目は『5』

見守るキムとアイシャは息を呑む。対照に、ラルフは安堵していた。彼にとっては『6』の次に良い出目だったからだ。

「最悪一歩手前ですか。ま、ほぼ確実に死ぬでしょうけど」

ミハエルが言った。ラルフは笑顔で答えた。

「そうだな。じゃあ言い遺す時間をくれないか」

「あまり長いのは困りますよ」

慈悲を掛ける快感に口元を歪め、ミハエルは許可した。ラルフは振り返った。

「さて……なあキム」

「……はい」

キムは突然の指名に驚きながらも答えた。

「俺はな、お前に期待してるんだ。お前の真っ直ぐさに。だから、ファミリーの……いや、この町のあとのことは頼んだ」

「いいえ」

「何?」

ラルフは意外な返答に目を丸くした。キムは真っ直ぐに彼を見て、唇を震わせながら言った。

「生き残ってください、ラルフの兄貴」

「はは……もしもの話さ。生き残ったら笑い話にでもしてくれ。で、次。アイシャ。お前はな、もう少し優しさを見せろ」

「もう見せてます」

そっけない言葉にラルフは苦笑する。すっかりファミリーに馴染んだ彼女だが、こういうところはまだ子供で、それが心残りだ。

「もっと分かりやすく頼む。大丈夫。今のお前ならできるさ」

「はい」

「そして……親父」

「……」

義理の親子は少しの間、無言のうちに向かい合った。ラルフはゆっくりと、最低限の言葉で告げた。

「残念だ。……アンタの下でもっと働いていたかった」

「……ああ」

ゴルデルは目を伏せた。ラルフの理性は、話をそこで終わらせるべきだと結論付けていた。だが道に迷ったあの日のように、気づけば彼は続きを口に出していた。

「もう俺もいい歳だけどさ。良い娘を見つけたんだ。その娘との子も……その子自身が望むなら……ファミリーに入れてさ。一緒に網の目の外を守る、そんな親子になってみたかった」

「そうか……どんな娘だ?」

「内緒だ。正式に紹介したかったからな。けど……そうだな。荒事の似合わない、優しい子だよ」

「お似合いの相手だな」

「ありがとう。……じゃあ、そろそろ始めるよ。そっちの兄さんも待ちくたびれる頃だしな」

ニヤリと笑い、振り返る。銃弾を込める手つきに迷いはない。俺は俺の信じるもののために、この命を使う。悔いは……ない。銃口をこめかみに当て、引き金を引いた。






ガァン!






弾丸が吐き出され、ラルフのこめかみを貫いた。誇りと祈りを遺し、彼の命は散った。


15

(ラルフ……)

回収の時。裏切り者の死体を前に、ドレッドは感情を持て余す。驚愕。哀れみ。怒り。困惑。自らの中に渦巻く感情のどれを彼に向けるべきなのか、皆目見当がつかない。

「どうしたんです? そういう趣味でもお有りで?」

ミハエルが嘲る。彼は噴き出しそうな殺意を堪えた。タグチが慌てて頭の方に回り、足側を持つように催促した。シンシアは指先の震えを精一杯抑えながら、スコアボードに『0』と『1』をそれぞれ書き込んだ。

……あの後、彼らは積載を済ませ、さらに2、3の言葉を交わした。シンシアは決して声を荒げなかったが、やはり頑なだった。彼女から何かを聞き出すには、それこそ命を奪うほどの暴力が必要だとドレッドは悟った。そして隣には守るべき同僚がいて、足元には罪を被せるための羊がいた。

だが……それでいいのか? 彼は自問自答した。シンシアは命を捨てる覚悟を示した。ラルフは遺族の前でドラッグを根絶することを誓ってみせた。ヴィーコもおそらくは、そのために命を散らした。結果は出ていないが、そこには確かな覚悟がある。だが俺は何をした?

遠巻きに連中を見つめて瑕疵を探しただけか? 組織内の立ち位置を計って何か分かったつもりになっただけか? クアドンがどのように変わったのか、何をすれば全てが終わるのか、考えてみたのか? 兄貴がなぜドラッグにのめり込んだのか、確かめてみたのか?

そのどれもが否。ここに至り彼はようやく、己が傍観者となっていたことに気づいた。ゆえに彼は決意した。激情を抑え、兄の仇たちが命を賭けた戦いの顛末を、ただ見守ることを。そしてその結果に納得がいかなければ、今度こそ彼自身が立ち上がることを。

タグチが心配そうに目線を合わせた。ドレッドは大丈夫だ、と微笑で答えた。3人は無言で一礼し、死体を連れて退室していった。

「ここに来て、ようやく差が出ましたね」

「ああ」

ミハエルは愉快そうに手を叩いた。ゴルデルは無言で頷く。次の撃ち手を指名する時間だ。

「さて、最後は……こちらはリーズ君ですね」

「こっちはキムが行く」

指名された両者はテーブルへ向かう。キムはアイシャに振り返る。アイシャは頷こうとして、止めた。彼女は代わりに言った。

「頑張んなよ、キム」

「部外者が不躾ですねぇ」

ミハエルが見咎める。

「そりゃ失礼しましたね」

アイシャは頭を下げた。キムは苦笑し、席につく。対戦相手の少女はまだ到着していない。何やらぶつぶつ言いながら、ふらふらした足取りで歩いてくる。

「どうした嬢ちゃん。アンタも薬切れか?」

ゴルデルの挑発にも彼女は答えない。ミハエルが催促し、それでようやく席についた。キムは努めてタフに問うた。

「やっと来たか。じゃあ、どっちから」

「アンタよ!」

リーズは目を剥き怒鳴りつけた。キムは呆気に取られた。少女はまくし立てる。

「アンタが! アンタが先にやって死になさい! それで終わり! 2点差ついて終わりなの! だから! 早く! 死になさい! 死ね!

「んな……!」

キムは絶句した。事前に覚悟を決めた俺たちと違い、ブルーオーシャンの連中は覚悟を決めていない。そう理解してはいたが、ここまでとは。彼は飛ばされた唾を拭った。

「……あれもアンタの部下かい」

ゴルデルが顔をしかめ、指で示した。

「や、お恥ずかしい」

ミハエルはヘラヘラ笑った。フーッ、フーッ……リーズは威嚇する猫のような音を立て、その目に薄っすらと涙を浮かべて荒い呼吸をしている。

「……やれやれ、分かったよ」

キムはダイスを手に取った。親指ほどの大きさのそれは、あまりに重く感じられた。エリック。ヴィーコ。ラルフ。尊敬すべき先輩たちは、この玩具に翻弄され、呆気なく死んだ。正直に言えば怖い。死ぬのは怖い。

(でもやる。やってやる。作戦を成功させるために、やらなきゃいけないんだ……)


◆ ◆ ◆


「単刀直入に言う。……ファミリーのために命を捨ててくれ」

集まりに遅れかけたあの日。テーブルを囲んだ5人は、親父の言葉に耳を疑っていた。

「えっ? ……えっ?」

エリックが2度聞き返した。アイシャは黙って頷いた。キムは何を言われたのか、いまいち分かっていなかった。

「親父、何があったんだ?」

ヴィーコが尋ねる。ゴルデルは重厚な声で答えた。

「ブルーオーシャン側から申し出があった。此度の抗争の決着を、ゲームで着けようとな」

親父は申し出の内容を語って聞かせた。ダイスと銃を使ったロシアンルーレット。互いに5人を選出し、交互に撃たせる。不正防止のため、その様子を互いの本部に中継し、構成員が見守る。室内が小さくどよめき、ラルフは眉間を押さえ、呻いた。

「……イカレてんのか? 連中は」

「分かり切ったことだ。だが、これは好機でもある」

「好機? 何のだよ?」

「我々と連中。此度の抗争だけではない。全ての戦いに決着をつける、好機だ」

ゴルデルは厳かに言った。

「……えっと。どういうこと、ですか?」

キムは意味を捉えそこねる。アイシャがその肘をつねった。ゴルデルはゆっくりと続けた。

「奴をゲームとやらの場に引き摺りだす。奴は自覚しておらんだろうが、組織の長は、上に立つことの責任から決して逃れられん。部下を駒のように殺し、山のように犠牲を出し、それでおしまいとはいかん」

ゴルデルは深く息を吸った。そして真っ直ぐに息子たちを見つめ、言った。

「決着はこの私が、一対一でつける。……そのためにお前たちには、くだらんゲームに命を賭けて欲しいのだ」


◆ ◆ ◆


願ってもない話だ。キムはそう思った。そもそも彼がファミリーの門戸を叩いたのも、生まれ故郷を蝕むドラッグと戦うための力を欲したからだ。欠陥だらけで鬱屈としていて未来のない、カビの生えた田舎町。それでも彼はクアドンを愛していた。

代わり映えないが穏やかな町並み。マズいが量だけは多い飯屋の油っぽい匂い。だだっ広い公園の、塗装の剥がれかかった年代物の遊具。彼とクラークを振ったあの子の笑顔。ダサい服屋に掛かる2周遅れのヒットソング。ハイスクールのボロっちい校舎……そういったものの全てを。

出来の良かった連中は、みなクアドンを旅立った。それが勝者の権利だとでも言わんばかりに。キムにも進学の話はあったが、断った。この町を受け継ぎ、良い方向に変えていく。その夢にヒビが入り始めたことを肌で感じていたからだ。だから彼はゴルデル・ファミリーのもとで戦う道を選んだ。幹部の2人には止められたが、ゴルデルは彼の決意を買い、仲間に迎え入れてくれた……

(……だから俺の番だ。俺が戦う番なんだ)

手の震えを、爪が食い込む痛みでごまかす。ダイスを宙に放る。賽はコインのようにきれいな弧を描き、碗上を回った。リーズが血眼になって碗を覗き込む。彼もまたダイスを注視する。

出目は『4』。エリックと同じ目。すなわち2/3での死。

3人の先輩は先に逝った。みな笑って逝った。その心情を理解するには彼は若すぎた。それでもおぼろげに、理由の輪郭は見えた。彼らには希望があった。家族という希望が。今の俺にもそれがある。もしも俺が死んでも、親父が連中を壊滅させてくれる。万が一でも犬死はしない。……でも。

(俺は生きたい。生きて、変えたい。ドラッグから解放されたこの町を。俺の手で。そして作るんだ。未来を!)

キムは目を見開き、歯を食いしばった。

(俺は……生きるんだ!)

震える指先が、トリガーを引いた。







カチッ……






乾いた音が一度だけ鳴った。キムは硬くこぶしを握った。リーズは悲鳴を上げた。


16

どうしてこんなことに? ひとしきりの絶望の後には、スーッと気を遠くする後悔が訪れた。あたしは上手くやっていた。この肥溜めを出て行った連中よりも、ずっと上手くやってきた。どいつもこいつも体で魅了し、頭で縛りつけてきた。

あの都会から来た男だって、童貞丸出しのバカだったから簡単に手なづけてやれた。この茶番から逃げなかったのだって、5番目は絶対にこないという言葉が本当だって確信があったからだ。

なのに。それなのに。どうしてあたしが銃を撃つことになっている?

「……さて、あんたの番だぜ」

青臭いガキが銃をよこしてみせた。

「ああ。これで最後だな」

ジジイが笑う。黙れ。横のババアも冷笑している。今すぐ撃ち殺してやりたい。このあたしに向かって!

「リーズさん? ほら、とっととダイスを転がしてくださいよ」

男が笑った。何を笑ってる。愛しいあたしがこんな目に遭ってるんだぞ。へつらって慰めてみせろ。目線に困惑と恐怖の色を乗せ、言外のメッセージを伝える。男はまだ笑っている。ふざけるな……と、ここで1つの考えが浮かんだ。

(……待て。このダイスや銃に細工がしてあるんじゃ……?)

なるほど、それなら緊張感の無さにも納得できる。あたしを揶揄っているつもりなのだ。あの男にはそういう幼児のようなジョークセンスがある。今までの付き合いでそれは十全に知っていた。

(脅かしやがって。後で見てろ。徹底的に心を痛め付けてから捨ててやるからな……!)

今までの連中のように、あの男が別れ際に泣きすがる様子を想像し、心を慰める。ガキが横柄に言った。

「早くしろよ。また泣き喚くつもりか?」

「誰が。いいわよ、振ればいいんでしょ? こんなの簡単よ」

「その簡単なことに散々手間取っといてよく言うぜ」

ニヤけるんじゃねえ、喉首掻っ捌くぞ。あたしは鼻を鳴らし、白魚のような指でダイスをつまんだ。振り返り、男を見る。まだ笑っている。……若干の不安が浮かぶ。違う、そんなわけがない。嫌な妄想をかき消すように、軽く放った。


『6』


「……え?」

人差し指で出目を隠す。離す。『6』だ。それは、つまり。

「おや、大変な目が出ましたね」

男の能天気な笑い声が鼓膜を揺さぶる。血の気が引いていく。銃に細工? いや違う。声色でわかる。こういう色をあたしはよく知っている。侮蔑だ。バカを見下す時に込める感情だ。ガキの視線に哀れみが混じった。激情が心を満たした。あたしは絶叫した。

「ああああああああああああああああああああああッ!」

騙した? 騙されたのか? このあたしが? あんなつまらない男に? 思考が白に吹き飛び、赤く染まる。胸元に手を伸ばし、振りかえる。谷間から隠し銃を引き抜く。あいつに渡された特注の銃を。椅子を蹴る音が2つ重なる。嫌な笑みが視界に入る。照準をクソ男に合わせる。肩に痛みが走る。掴まれた。直後。

「あっ……がはっ!」

体が床に勢いよく叩きつけられ、引き金に掛けていた指に強い痛みが走った。背中に強い圧力が掛かる。まさか、テーブルを無理やり乗り越えて。推測に答えるように、載せられていたダイスや銃が床に散らばっているのが見えた。

「クソがっ!」

背中の上に乗ったガキが吐き捨てる。こっちの台詞だ。だが空気が肺から絞り出され、声が作れない。

「やれやれ、面倒なことをしてくれますねぇ」

男が言った。指が折れており、引き金は引けなかった。背中の圧力が強まり、思考が痛みに塗り潰されていく。

「……い、たい、たいって……!」

辛うじてそれだけ声になる。圧力は消えない。退けよ。このあたしが痛がってるんだぞ。

「こんな……」

「……が……」

男とジジイが何か言い合ってる。ババアがあたしの銃を回収する。ケースと共に男の手に渡る。男は弾丸を詰めていく。嘘でしょ? あたしたち、あんなに愛し合ったじゃない。

「……ゃ……ぁ……っ」

声が出せない。やめて。どいて。助けてよ。なんだってしてあげるから。内心を読んだかのようなタイミングで、男がガキに言った。

「すみません、そちらの方。彼女の上から退いていただけます? ええ、手足は拘束したままで」

「……チッ」

ガキの舌打ち。背中の圧力が消えたが、手足を押さえつけられる。荒い呼吸で肺に酸素を取り戻す。男が歩み寄る足元が見える。ようやく後悔したのか? 鈍いんだよ、クソが。ガキとババアも退けさせろ。あたしは男の顔を見上げ、媚びた目で見つめようとして、その手に握っているものを見て凍りついた。

「な、に……それ」

「銃ですよ。ロシアンルーレット、もちろんやっていただきますよ」

嫌だ。その声が引きつって出ない。こめかみに硬いものが触れる。手足を動かせない。末路を想像する。嫌だ。嫌!

「い、いや、嫌……!」

必死に口を動かし、それだけ言えた。男は笑顔で答える。

「ははは、あれも嫌、これも嫌じゃ社会を渡っていけませんよ?」

「離して、離しなさいよっ、このクソどもがッ! 離せェッ!」

芋虫みたいにのたうつ。小便が溢れ、スカートに染みていき、太ももを濡らすが、既に恥も外聞も頭から飛んでいた。

「嫌だああァッ!」

「やれやれ、見苦しい。これなら先ほどの……名前はなんだったか。彼の方がマシでしたよ」

「離せ、離せェッ!」

「さっきも言いましたって、それ」

男が鼻で笑う。あたしは叫んだ。

「あんた……アンタたち、なんなんだよッ! 死ぬんだぞ! このあたしが! 人が死ぬんだぞ! なんで黙ってるんだよ!」

会合の間は静まりかえり、誰も答えない。それが余計に腹立たしくて、あたしは激昂した。

「おかしいんだよ! 狂ってんだよ! 人の命を、簡単に……!

「うるさいんだよ、この小便女がッ!」

べきり。右手側から嫌な音がした。あたしは痛みに絶叫した。ガキの怒鳴り声が続いた。

「今の今まで、ンなこと噯にも出さなかっただろうが! 自分だけ甘ったれてンじゃねえよ!」

「指……あたしの指がっ、2本も……!」

「エリックの兄貴も、ヴィーコの兄貴も、ラルフの兄貴も! クラークも! お前らの仲間だって死んだだろうが!」

「だから何なのよ! だったら人を殺していいって言うの!? あたしは死にたくない!

怒りと絶望が綯交ぜになる。思考がぐちゃぐちゃになる。論理なんてどうでもいい。感情のまま、思いついたことを捲し立てる。ガキの力が少しだけ弱まった気がした。ならもっと……

「キム、その辺だ。ミハエル。とっととやれ」

ジジイが無感情に言った。待て。待ってよ。まだ……

「はいはい。じゃ、さよなら」

「いやッ、嫌だッ! 死にたくないッ、嫌だッ! お母さん! 嫌! 嫌あああああああああッ!


ガァン!


金糸の混じった絨毯に、また1人の血が染み込んだ。黒服がリーズの死体を乗せ、外へと去っていく。この役目が最後であることに、安堵のため息を吐きながら。

「……やれやれ、お前さんの部下は厄介者ばかりだったな」

「面目ないですねぇ、ははは。ですがまあ、これで全部終わりましたね」

ミハエルの言葉に、キムは舌打ちする。出来ることなら、あの女に撃ち殺させてやりたかった。だがそれで奴を見殺しにすれば……『友好』の席で死人が出るのを見過ごせば……ファミリーの沽券に関わるのだ。

「結局、引き分けか」

ゴルデルはスコアを見る。どちらの手にも勝利はない。会合の間にいたのは12人。生き残ったのは5人。得られたものは何もない。

「……なあ、ミハエルさんよ。まだやるのかい?」

彼は唐突に尋ねた。ミハエルは訝しむ。

「ハァ? 何言ってんです。これで終わりですよ」

「違う。抗争のたびに、またこんなことをするのか? って言ってるんだ」

「ま、そうなるでしょうね」

何を当たり前のことを。暴君は鼻を鳴らした。カメラの向こう、両組織の構成員たちが震えた。女の惨めで無様な心からの叫び声は、誇りや意地というメッキを錆びつかせていた。熱狂が飛び、正気が戻った。次にあの場に立つのは俺かもしれない。その恐怖が心を満たし始めたのだ。

しかしゴルデルは肩をすくめて言った。

「馬鹿言っちゃいけねえな。これが効率的なもんかい。一番責任を取らなきゃならん奴らが野放しだろうが」

「ほう、それは一体?」

「俺たちだよ」

ゴルデルは豪胆に立ち上がった。彼は年齢を感じさせない鷹揚とした足取りで床に散らばった器具を集め、席についた。そして不敵な笑みを見せ、手招きした。

「俺もお前さんも組織の頭だ。若い連中を犬死にさせてお終いじゃ、下の連中は納得せん。そうだろ?」

その言葉は表面上、ミハエルに向けられたものだ。しかしその内実は、この場を眺めることしかできない、カメラの向こうのブルーオーシャンの面々に向けた言葉である。お前たちはそれで納得できるか? と。

「……」

ミハエルは沈黙した。彼がこの誘いを断るのは簡単だ。だがそれは間違いなく部下の反発を招く。部下がいなくなれば、振るう力がなくなれば組織の存続は叶わない。超然と振る舞ってみせたところで、結局彼は1人の人間にすぎないのだ。彼は不自然なほど冷静な口調で答えた。

「……なるほど。この状況に追い込むために提案を受けましたか」

「何のことだかな。で、お前さんはどうする? 尻尾を巻いて逃げ出すか?」

仇敵の挑発に、ミハエルは冷たい笑みで返す。

「まさか。これは私にとっても好機なんですよ? 散々邪魔してくれたゴルデル・ファミリーのボスを直接始末する、ね」

「いい度胸じゃねえか」

「勝てば死なない。それだけです。さて、さっさと済ませましょうか」

ミハエルは堂々と対面に座った。ゴルデルは口角を歪めて頷いた。キムは内心歓喜する。策は成った。奴は完全にこのゲームが公正であると信じ切っている。これで奴を葬り去ることができる。ブルーオーシャンの消失で生まれるヘイトを、奴自身に集める形で。

だが……同時に不安をも覚えていた。奴は余裕だ。異様なほどの余裕を見せている。まるで自分が死ぬ可能性など、欠片も存在していないかのように。


17

人の胸元のあたりに、服越しにハート型のアザが浮かんで見える。少年にとってそれは、目を閉じれば目蓋が見えるくらいに当たり前のことだった。むしろ、誰の視界にも同じように映っていると思っていたので、そうでないことに気づいた時は腰を抜かすほど驚いたほどだ。

アザの姿は様々だった。ピンク色のハートを基盤に、上の丸っぽい部分がウサギのように長く伸びていたり、下の尖った部分が陶器のように丸くなっていたり。色も真っ白だったり、真っ赤だったり。どこかが欠けていたり、そもそもハート型では無く、ダイヤやスペードのような形をしていたり。少年はそれを見るのが何よりの楽しみで、それはもう人懐っこい性格だった。

でも何より興味を引いたのは、そこそこの確率で見かける『欠け』だった。時折ハートの枠の中に、食べかけのチョコレートみたいに欠けた部分がある人がいる。そしてそういう人と関わっていると、どういうわけか欠けは埋まっていった。興味がなくなったので離れてみると、どういうわけか欠けがまたできていた。

この欠けは、誰にでもある心の隙間。満たされない欲望の象徴だ。でもそれが欠けとなって見えるのは、本当の本当に大きな隙間を持った人だけ。大半の人間は、髪の間にある肌の色が見えないのと同じように、見えるほどの隙間を持っていないのだ。この法則を発見したとき、少年の心にむくむくと好奇心が湧き上がった。

隙間を満たしてやるとみんな喜ぶ。それは分かる。でもその分、そこが再び欠けるのを病的なまでに恐れる。そこが不思議だった。だから少年は実験を始めた。そのためにどこまでやれるのかを確かめようとしたのだ。結果、ジュニアハイで彼に言い寄ってきた、特に大きな欠けを持つ2人の女の子は最終的に殺し合い、1人は施設送りとなった。

少年の心には2つの感情が湧いた。その1つは恐怖だ。彼女らには頼ろうとすれば頼れる家族も、勇気を出せば悩みを打ち明けられる友もいたのに、まるで合理性のない道に進み、未来を閉ざした。そしてもう1つは歓喜だ。自分にはこれほどのことを起こす力がある。この力を上手に使えば、もっと幸せになれる。それは少年の誇りとなり、年月とともに磨き上げた最大の武器となった。心の隙間をつき、安心を与えて籠絡してやれば、みな進んで首輪をつけた。

だから少年には……ファミリーを継いだタリエイ・ゴルデルには、なぜ組織がドラッグを禁じていたのかが分からなかった。麻薬と言葉の何が違う? 勇気、家族、正義……実態のないものに依存し、恐怖心をドーパミンで上書きして死んでいった連中と、ブルーオーシャン欲しさに恐怖心を麻痺させ、見苦しく死んでいったクラークとかいう小僧の間に、何の違いがある? 

否、違いなどありはしない。無意識に依存している世界を守るために、そう思い込んでいるだけだ。組織がドラッグを扱わないのは、そうした非論理的な怒りを買うのを避け、住民の支持を得るために過ぎない。恐怖で黙らせられる相手の支持を。タリエイにとって、それは唾棄すべき因習であった。

とはいえ、地位を守るためには伝統を破るわけにはいかない。タリエイの不満は長い日々の中に溶けていき、日常のささやかな不満に堆積し、見えなくなった。埋もれていたそれが引っ張りだされたのは、あのミハエルの小僧がクアドンに現れてからだ。年齢相応の倫理観を欠き、平然と他人を道具とする彼の姿に、ゴルデルは奇妙なシンパシーを覚えていた。

だから、秘密裏に支援してやった。アルベルトは確かに有能な男だったが、彼があれだけ爆発的に薬物を広められたのは、長い年月に培われたファミリーのコネクションの成せる技だ。やがてドラッグがクアドンに行き渡ると、タリエイは海賊版を……協力関係となったミハエルに作らせた劣化版を販売することを始めた。互いの利益となるからだ。

「もし中毒になっても、すぐにやめられる」

目先にぶら下がった幸せに飛びつくために、これほど適した言い訳はない。海賊版の発売により、ブルーオーシャンはますます中毒者を増やした。タリエイにとっても単純な利潤だけでなく、ファミリーの連中に本格的な密売を始めさせるための第一歩として、正当性を担保したドラッグの密売をさせることができるのは願ってもない話だった。

第一歩? 然り。これは組織でドラッグを扱うための土台作りだ。どの道タリエイは老齢だ。後継ぎを持つつもりもない。己の死後のことなど、そもそも微塵も興味がない。ならば死ぬ前に、自身を縛り続けたくだらない規範を破壊するのも悪くないな、と思っただけだ。

ロシアンルーレットの真の目的は、ミハエルの抹殺などではない。抗争の手打ちとし、同時にミハエルが……エリックに言わせれば『勇気』を……見せ、
こちら側の構成員の認識を『都会から来た卑怯者』から『自身の命を懸けられる強い男』にすり替える。すなわち、のちのち同盟関係を結ぶための迂遠な布石であり、それと同時にお互いの邪魔者を処分する、一石二鳥の策なのだ。

誰が死ぬか、誰が生き残るかは、ダイスと銃の細工により容易にコントロール可能だった。ダイスは望んだ目に転がり、シリンダーの回転は、弾の入っているところで確実に停止させられる。ミハエルはダイスを。タリエイは銃を操作し、事前に決めた人間を確実に始末していった。

ファミリーの帳簿を管理し、同盟の裏側に勘付きかねないエリックを。最近タリエイを疑い、密かに身辺を嗅ぎ回っていたラルフを。ラルフの親友であり、彼と密談をしていたヴィーコを。キムを始末するかは少しばかり迷ったが、万が一ミハエルが裏切った時のための鉄砲玉として残すことにした。アイシャは数合わせだ。

計画はつつがなく進んだ。あとは素知らぬ顔でこめかみを撃ち、互いが死を恐れぬ強い男であるとアピールするだけだ。厳かな表情の下に本性を隠しながら、タリエイは静かに言った。

「ルールは単純。今までと同じだ。ダイスを振り、銃を撃つ。先攻は……」

「お待ちを」

ミハエルが遮った。計画にない台詞。訝るタリエイに、彼は楽しげに続けた。

「今までと同じ。それでいいでしょう。ですが少しばかり趣向を変えましょう」

「どういうことだ?」

「私はこの銃を使います。よろしいですね?」

ミハエルは立ち上がり、リーズの持ち込んだ銃を拾い上げ、見せびらかす。タリエイの細工が行き届かぬ銃を。キムが顔を青くした。

「何……」

どういうことだ。タリエイには当然、家族の連中に説明したように、ミハエルを始末する気などない。策は苦々しくも失敗で終わる。彼もそれは重々承知しているはずだ。では何故、このタイミングで疑いを強調するような真似をする?

「いや、焦ったいなと思ってたんですよ。交互に撃つなんてスピード感が足りない。何事もスピーディーに済ませたい性分ですから」

「だが……」

「それとも私がその銃を使わないと、何か都合が悪いことでも?」

戸惑いの色を滲ませる老人に、若き悪魔はニタリと笑いかけた。


18

「ほら、ミハエルくん。フィリップくんに謝って」

クラスメイトが僕を取り囲む。先生がフィリップの肩を優しく抑えている。僕はただ、孤独に立たされている。

「謝れよ!」

「謝れ!」

「自分が何したか分かってるの!?」

分からない。僕はなぜ自分が槍玉に挙げられ、罵声に取り囲まれているのか本気で分からなかった。僕が何をしたっていうんだ。誰かを殴ったか? 何かを奪ったか? いや、何もしていない。フィリップのやつが勝手に傷ついたって言ってるだけだ。

「ミハエルくん」

「先生、僕は、何が」

「胸に手を当てて、自分で考えなさい」

そうだ! そうだ! 賛同の声が浴びせられる。自分で考えろ? 考えたって分からないから聞いてるのに。賛同の声はますます強くなる。先生は見ているだけだ。フィリップのやつは次第にニヤニヤしはじめた。何だよ。傷ついたんじゃなかったのかよ。

(ゴミみたいなグローブだな。そんなの捨てちまえよ)

あの日、確かにそう言った。でもそれが何だって言うんだ。事実を指摘しただけだし、それがあいつの親父の形見だなんて僕は知りようがなかった。なのに何で、僕が謝らなくちゃいけないんだ?

「前からムカついてたんだよ、コイツ! 余計なことばっか言いやがってよー!」

「空気読めてないよね」

「偉そうなことばっか言ってさ!」

3人が喝采を浴びる。賛同は罵声に変わり始めた。僕は何も悪くないのに。本当のことを言っただけなのに。目の前が滲んでいく。先生が無理やり顔を上げさせる。泣き顔を晒し上げられる。男子がダサいと笑う。女子がキモいと罵る。フィリップが笑っている。……結局僕は、頭を下げた。

サイコパス。本を読むのが好きだったから、僕はその言葉を知っていた。精神病質者。集団で弱いものを取り囲み、好き放題に虐め、それを正しい行いだと嘯く。正しさを問われると逆切れする。狂った行いだ。奴らはサイコパスだ。僕だけがまともな人間なんだ。

それからの日々は地獄だった。僕に何をしても連中は許されて、僕は何を言っても罰を受けさせられる。次第に僕は口数を減らし、誰とも関わらなくなっていった。

飛び級を繰り返すたび、僕を囲む顔ぶれは変わった。けれどもエンカウントはしつこく繰り返された。僕はどの集団においても敵と遭遇し、排斥される存在へと変えられた。ハイスクール。大学。ビデオ再生するように面接を受け、大企業の研究室へ。そこにも人間はいなかった。いや、1人いた。人間だと思えたやつが。アルベルト。

アイツは終始友好的だった。僕が普通に生きるために手を回してくれた。親友と、そう呼んでくれた。それがただ嬉しかった。アイツが僕の全てを理解してくれなくても構わなかった。でも『いつか彼も僕を裏切るのだろう』という恐怖はどうしても消えなかった。

だからドラッグが見つかった時、僕は嘘をついた。あんなものが適当に作れるわけがない。あれは密かに研究していた、僕の理想を実現するための試作品。つまりはサイコパスの治療薬だ。快楽と苦痛、飴と鞭の観点からのアプローチの産物。『自称』人間から、僕のような本物の人間へ矯正する。汚れた海を浄化し、青い海を取り戻す。そのための試作物なのだ。

しかし、アルベルトはそれのドラッグ的な効能に価値を見出した。だから僕は、彼が望むものを作ってやった。その過程で真のブルーオーシャンのためのデータ収集を行いながら。それで満足していた。仕事を失っても、夢のための研究費を提供してくれるならそれで良かった。あの男に……ゴルデルに会うまでは。


◆ ◆ ◆


「……騙されてる? この私が?」

ブルーオーシャンの本部。遮光カーテンに月明かりが遮られ、モニターの光だけがミハエルを照らす。彼は敵対組織のボス……タリエイ・ゴルデルと秘密の通話を行なっていた。

「そりゃな。ちっと考えりゃ分かるだろ。奴はお前さんを利用しているだけだぜ」

ゴルデルは呆れてみせる。ミハエルは食い下がった。

「それは……多少は分かってますよ。でも、それは、相互利益の……」

「違うね」

ゴルデルはピシャリと遮った。そして身を乗り出して言った。

「相互、じゃねえ。あるのは奴だけの利益だ。……言い方が温かったな。つまりは搾取されてんだよ、お前さんは」

う、とミハエルは呻いた。彼には社会経験がない。人と深く関わった経験もない。ゆえに彼は、言動の裏を読むことが致命的に苦手だ。対人技能は『仲良しの会』と称して吊し上げられた、あの頃とさして変わらない。その自覚もあった。だからこそ、その可能性をひしと感じ続けていたのだ。

「ですが……」

反射的な否定を、ゴルデルは強い言葉で断ち切った。

「認めな。奴は敵だ。お前さんを縛り続けている。何故か分かるか? ……お前さんに力があるからだ」

「力……?」

「金を生み出す力。ドラッグを生み出す力さ。だから奴はお前さんを飼い殺しにしてきた。これがどういうことか分かるか?」

「……何を言うつもりですか」

「お前さんは無力じゃない、ってことさ」

ゴルデルはじっと見つめた。カメラ越しの視線とはいえ、ミハエルはそれに吸い込まれるような錯覚を感じた。老人は厳かな声で続けた。

「お前さんは強い。自立するための力がある。だが奴はそれを隠し続けている。無力と錯覚させ、首輪を嵌めている。自分の利益のためだけに、な」

「……」

短い沈黙。ミハエルはいつでもこの会話を打ち切ることができた。だが、そうはしなかった。ゴルデルはやがて神妙な面持ちで言った。

「どうだい、ミハエル。……鞍替えしてみねえか」

「鞍替え……?」

「乗り換えるんだよ。いつまでも上司気取りのカスから、この俺にな。俺は奴よりももっと、お前さんに利益をもたらせる。対等な取引ができる」

対等。その言葉にミハエルの胸が高鳴った。だが。

「でも、あなたはゴルデル・ファミリーの。ドラッグを締め出し続けた一族の筆頭でしょう? それは家族への裏切りではないんですか?」

「ああ? ……ははは」

ゴルデルは笑い出した。彼は愉快そうに続けた。

「確かに、俺にはたくさんの家族がいる。……だがな。人間は俺、ただ1人だけなのさ」

その声はどこか陰気で、厭世的な色を帯びていた。……同じだ。ミハエルは思った。この男は僕に似ている。孤独であり続けている。彼なら。彼と一緒なら。僕は、普通の人間であれる。

それからしばらくは良好な関係が続いた。ミハエルはドラッグを作り、アルベルトが販路を広げ、ゴルデルが影からそれを支えた。この世界を、いや、社会を壊すために。でもその関係も今日を持って終わりだ。

彼はゴルデルの裏切り……暗殺計画の情報を既に得ていた。渡された音声データには、計画の一部始終が記録されていたのだ。

だからミハエルは追加で取引し、武器を手に入れておいた。持ち込みはリーズに任せた。あの女はアルベルトやゴルデル同様、僕を利用できていると信じている。だから護身用として渡した銃を、まんまと会合の間へと持ち込んでくれた。不発弾を詰め込んだ銃を向けられた時は、思わず笑ってしまいそうなほどだった。

この銃はファミリーが用意したものと同じ型であり、同じ改造が施されている。ただし結果をコントロールするのはミハエルだ。ダイスもまたミハエルの操作下にあり、必ず『3』を出す。『1』でないのは、胡散臭さを払拭するためだ。どの道シリンダーは弾のない部位で停止し、弾が発射されることはない。

一方、ゴルデルのダイスは必ず『6』を出す。それでもメンツで生きる奴は後へは引けない。だからヴィーコを『6』で殺しておいたのだ。腹心の覚悟を裏切り、醜態を晒せば奴は終わりだ。そして奴がどこでシリンダーを止めようが『6』であれば結果は変わらない。

勝つのは僕、ただ1人。ゴルデルは裏切りの代償を支払う。それが確実に訪れる未来だ。でも……苛立ちが募った。絶望的な状況を奴も察しているはず。なのに奴は、いつまでも不敵な表情を崩さなかった。


19(完)

なるほど、こういう手段に出たか。ゴルデルは黙想する。この場はあくまで手打ちのための非武装地帯。ミハエル自身が拳銃を持ち込めば、それは徹底抗戦の意思表示となり、抗争は収まらないのだ。ゆえにあの女を介した。

だが……何故だ。ゴルデルには理由が分からない。欲に駆られたか? 信用を失ったか? 確実なのは彼が敵になったことだけだ。ならば、始末せねばなるまい。

だが、あの二丁目の拳銃にはゴルデルの細工は行き届いていない。拳銃を検めさせるか? 否、奴もこちらの銃の細工は知っている。無駄に首を絞めるだけだろう。遠隔操作により彼を屠る……実行予定の皆無だった計画は、既に破綻した。少なくともこの場で、あの若造に落とし前をつけさせるのは不可能だ。

面倒な。ゴルデルは臍を噛む。キムというカードを切るのは、予定よりだいぶん早くなりそうだ。この場で生殺与奪の権利を握るのは、あの小さなダイスだ。あれもミハエルの用意した品であり、操作は行き届かない。にも関わらず、老練の男は不敵な笑みを崩さなかった。

(小僧。ギャングの用意した選択肢に『勝利』などあると思うなよ)

「さあ、そろそろ始めましょうか。何か言い遺すことがあるなら聞きますが?」

ミハエルが勝ち誇るように言った。ゴルデルは鼻で笑う。

「いや、遠慮しておこう。それはむしろお前さんに必要なことだろう」

「私は死にませんよ。死ぬのはあなたです」

「拳銃は同時。ならダイスはどちらが先に振る?」

ゴルデルは取り合わなかった。ミハエルは唇を噛む。裏切り者。対等と言いながら、僕を下に見ていた男。この男に舐められるのは我慢ならない。

「……では、私から。構いませんね?」

ゴルデルは無言で頷く。ダイスの破壊は選択肢にはない。そんなことをすれば、今までのゲームに不正があったことを暗に認めることになるし、何より無意味だ。この場で動かせる駒はキムとアイシャの2つだけだが、それも動かす必要はない。ミハエルは静かにダイスを滑らせる。『3』。予定通りの出目だ。ゴルデルがその後に続く。『6』。なるほど、こうなるだろう。

「ああっ!」

キムが思わず呻いた。アイシャは固唾を呑んで見守る。聞こえこそしないが、中継の向こうの構成員たちもまたどよめいた。

「はは……残念ですねぇ、タリエイ・ゴルデル。こんなところでお終いですか」

「……」

ミハエルはニタニタと笑った。さあ、お前の首を掴んだぞ。命乞いでもしてみせろ……とでも言いたいのだろう。こういう手合いに最も効果的なのは、意に介さないことだ。

「よもや、待ったとは言いませんね?」

「ああ。さて、弾を込めようか」

「……!」

ゴルデルはゆっくりとケースに手を伸ばし、開く。指先でわずかにフタの角度を変える。これは微調整だ。

先の落下から拾い上げる時、ゴルデルはケースの中がカメラに映らぬよう、角度から逆算して位置を決めた。ゆえにこうしてイカサマができる。

黒いスポンジに埋め込まれた弾丸、そのうちの1つを指先で押す。すると秘密の機構が働き、弾丸が下へ沈み込み、もう1つの弾丸が入れ替わりに現れた。入れ替わりの瞬間は手の甲に遮られ、誰の目にも映らない。ゴルデルはそれを何食わぬ顔でシリンダーに装填し、他の5つは普通の弾丸で埋めた。

中に仕込まれていたのは、不発弾。安っぽい奇跡を演出するための仕掛けである。ファミリーには代々こういう小道具が伝わっているが、その存在を知るのは当代のボスと、僅かな、ラルフのような最側近のみだ。最初から彼はこういう可能性を考慮していた。ゆえに準備をしておいたのだ。

「さ、お前さんの番だぜ」

ゴルデルは堂々とケースを押し、ミハエルに渡した。若造は舌打ちしながら弾を込めていく。3発。互いにシリンダーを回す。ゴルデルの拳銃は不発弾の地点で止まる。ミハエルはこめかみに拳銃を突きつける。

「それでは、さよならといきましょうか。哀れなご老人」

「ふ……」

ゴルデルは冷笑する。

「いいか若いの。人生は最期の瞬間まで、何が起こるか分からんもんだ」

「ほう、感動的ですね。散って行ったあなたのお子様たちにも聞かせてあげたいほどですよ」

「ああ、お前さんがあの世に行ったら、言伝よろしく頼むぜ」

不敵な笑み。冷笑。挑発。その全てが茶番。真摯な狂気を演出するための茶番に過ぎないのだ。生死を分かつ引き金に力を込める瞬間、ミハエルはゴルデル亡き後のファミリーをいかに制圧するかを、ゴルデルはミハエルを如何に始末するかを腹の底で算段していた。

そして二者は、同時に引き金を引いた。





  ガァン!

ガァン!  






「あっ……」

アイシャがぽかんと口を開けた。彼女の目の前で、鉛玉は父のこめかみを貫通し、半透明の赤い尾を引いて壁へ向かっていく。覚悟はしていた。そのつもりだった。だがそれは、あまりに受け入れづらい光景だった。

「えっ……?」

一方、キムもまた驚愕していた。憎き悪鬼の脳天を、鉛玉がぶち抜いた。夢にまで見た光景だった。だが、計画は破綻したはず。それを見られるのはもう少し先のはず。

彼らの困惑を待たず、二者の体は衝撃と重力に従い、床へと叩きつけられた。左右に傾いた頭から赤いドロドロとした液体が、倒れた水差しのように溢れ出し、絨毯に染み込んでいく。見開かれた目。即死だ。

「親父さん!」

「親父!」

だが2人は真っ先にゴルデルの元へと駆け寄った。体を揺さぶる。無意味であることは分かりきっている。それでも。この現実が現実でないと証明してほしかった。

「何があったんです!?」

黒服のドレッドが思わずドアを開け、中へと踏み込んだ。ドアの影から恐る恐る覗き込んだタグチも、その光景を見た。彼は息を呑んだ。思わず言葉が口に出ていた。

「死んでる……! 2人とも、死んでる!」

廊下のシンシアはそれを聞いた途端、膝から崩れ落ちた。動揺と混乱の声が会合の間から漏れ聞こえてきたが、彼女の耳には届かなかった。壁に背中を預け、放心したように口を開ける。終わった。何もかもが、終わったのだ。

(ああ、分かってる。成功にせよ、失敗にせよ。そこで俺は終わりだ)

歳の離れた恋人。ラルフの言葉を彼女は追想する。影も映さぬ暗闇の中。防弾曇りガラスに囲まれた狭い車内だけが、彼らが感情を表せる唯一の場所だった。決意を秘めた瞳が真っ直ぐに彼女を見つめる。愛した男の瞳が。止められるはずもない。

(親父はファミリーを、いや、クアドンを裏切った。2人のどちらが生きていても、この町はドラッグから解放されない)

ラルフは調査の果てに真実にたどり着いていた。無論、彼はミハエルとゴルデルの立てた計画の仔細は知らない。だが彼らの水面下の協力関係を考えれば、『ブルーオーシャン』の製法を握るミハエルを、ゴルデルが殺すはずがないことは明白だった。ならば、この狂ったゲームの本当の狙いはどこにある? 2人に共通する利益は? 彼はおぼろげな推測を行った。そして結論に基づき、行動を決定した。

(だから……?)

(2人とも殺す。……奴ら自身の計画を利用して)

ミハエルの計画を利用し、ゴルデルを討つ。ゴルデルの計画を利用し、ミハエルを討つ。彼らは緻密な計画を立てていた。だがそれは同時に、自らの行動を記した台本を作るようなものだ。それはラルフにとっては絶好の、そして最期の好機だった。

彼はまず、正体を伏せてミハエルに接触した。そして彼に録音した暗殺計画を聞かせ、不信感を煽った。情報の対価は『ブルーオーシャン』海賊版の製法。ファミリーの誰かがボスを裏切り、空いた椅子に座る……そういう実態のない、しかし分かりやすいシナリオを作り上げたのだ。

ミハエルは言動の裏を疑う力に欠けていた。だから姿を隠した協力者の真意を理解できず、まんまとシナリオを信じ込んでしまった。海賊版で利益を上げるには、本物が存在しなければ不可能だ。だからこの協力者は僕を害せない。彼はそう考え、取引に応じた。ラルフは会話の端々から推測の裏付けを取りつつ、細工した拳銃も提供してやった。

これは表向きはファミリーと同じ細工が施してあるが、遠隔スイッチ1つで停止点が逆になる品だ。ラルフは当然ながら、計画通りに進めばスイッチを押せない。その役目はシンシアが請け負った。恋人を危険な立場に立たせたくは無かったが、彼女はどうしてもと言って聞かなかった。

せめて結末を見届けたかったからだ。……とはいえ廊下でばったりと出くわした時は懸命に他人のフリをしたし、同僚に彼との繋がりを疑われないために会ったこともない、そして彼らがおいそれと真偽を確かめられない、危険な男の名まで出したのだが。

次にラルフは、ゴルデルがあの状況下で取りえる策を吟味し、いくつかの布石を打った。ケースの細工もその一つだ。安直なすり替え。ケースの下の銃弾を、不発弾から通常の弾丸へすり替える。欲を掻けば、彼は不発弾により自身が生き残る策を講じることもできただろう。だが彼はそうしなかった。当然、ゴルデルに油断させるためだ。

ゴルデルは当然、この土壇場でラルフが裏切る可能性を考慮していた。だが彼が行動を起こすことはなかった。ならば何か細工を? だが銃やケースに細工を加えるなら、ラルフ自身が生き残り、尚且つゴルデルを討つ、そういう策を取るはず。ラルフの死と同時に、彼は警戒を解いた。

自身とその命だけが絶対であるゴルデルには……家族を守るために死んだ息子を嘲笑う親父には……自らの命を捨ててまで敵の警戒を緩めさせる、そんな策を取る心理を、完全に理解することは出来なかったのだ。

計画は上手く行った。クアドンがブルーオーシャンへの依存から解放されるには時間が掛かるだろう。それでも町を裏から支配した狂人たちは討たれた。

ゴルデルの本当の顔を知るものは、もう彼女以外に残っていない。そして彼女は当然、それを伝えるつもりはない。ファミリーは志半ばで死した親父の後を継ぎ、ドラッグのないクアドンを取り戻すために奮闘するのだろう。キムが生き残ってくれるかどうかを、ラルフはしきりに気にしていた。この結末は、彼にとっては満足がいくものなのだろう。

(でも、そこに何の意味があるっていうの?)

シンシアはドレスの裾を握った。計画は上手く行った。ラルフは本懐を果たしたのだ。だがその代償として、彼は命を失った。

(あなたはそれで良かったでしょうね。正義を為せたんだもの。でも私はどうなるの? 私はもう2度とあなたには会えないのに。あなたが守ろうとした正義なんて、2人で静かに暮らす未来に比べれば何の価値もないって、そう思ってるのに)

それが自分の価値観だとは分かっている。止めても聞かなかっただろうことも分かっている。けれども彼女は嘆かずにはいられなかった。合理や必然、ましてやラルフのように、正義などという言葉に納得することはできなかった。

目の端からこぼれた涙が顎を伝い、ドレスに落ちる。喪服めいた黒は、染み痕すら滲ませることはない。喧騒の声を背中越しに、さざ波の音のように聞きながら、彼女は小さな声で述懐した。

「さよなら、ラルフ。さよなら、私の愛した……狂った人」


【サイコロシアン・ルーレット】


それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。