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選ばせる昼寝男の話

「これからお昼寝しに行かない?」
事の始まりはその言葉だった。

その日は二人で海が見える美術館に行った。
たまたまペア鑑賞券を入手し一緒に行く人を探していたら、誰も行かないなら俺が行く、と彼が名乗り出てくれた。
そういえば前に会った時も美術館に行った。
お互い絵画鑑賞が趣味ではないのに、二人で会うきっかけは美術館へと足を運ばせた。
その日はシャガールの絵を見た。
明るい色彩は作家から溢れ出た愛情をキャンバスへ流し込んでいるかのようだった。
今日で会うのが二度目の彼と見るには少し気恥ずかしくなるくらい、愛で満ちていた。
対して彼のほうは途中で私と別れ、早々に出口へ向かったところをみると、さほどシャガールに関心が無かったのだろう。
その頃にはすでに彼の選択肢は別の所に向かっていたようだ。

「俺はこれからお昼寝する以外は考えてないんだけど、どうする?」
美術館を出た後、人通りはあるものの静かに話ができるベンチに私達はいた。
近くの街路樹の葉が音を立てて揺れているのに、彼の静かな口調が鼓膜の奥を支配していた。
お昼寝?何が言いたいの?
ひとつの可能性に薄々気付いたものの、彼に限ってそんなことは有り得ない、私はその対象には成り得ないと高を括っていた。
高を括っていたにも関わらず、私は何も言い出せずにいた。
「言っている意味、分かってる?」
彼は指の間で燻らせていた煙草を靴底で揉み消し、私の目を覗き込んで確認してくる。
何かを見透かされそうな感じがして、思わず視線逸らせて、分からない、と小さく答えた。
「こういうことだって、分かる?」
急に顎を引き寄せられ、気がつけば唇の中に彼の舌が入り込んでいた。
思わず濁った声が出て、その声の揺めきに困惑して顔を背けるまで少し時間がかかった。
その僅かな間が、彼には否定的な態度だと思わなかったのだろう。
「さっきのでお昼寝したくなった?」
顔を伏せたままでいると、今度は私の手を取り、小指の爪から手の甲に向かってゆっくりと舌を這わせてきた。
白昼堂々と人の目を気にしない扇情的な行為に、動揺を通り越して唖然としていた。
どうすればいいの?
諦めさせるには?
諦めさせるって、なにを?
何故諦めさせるの?
私自身はどうしたいの?
どうしたいって、なにを?
最良の言葉が見当たらない。
「…ちょっとびっくりしちゃった?」
されるがままの私に、さすがにやりすぎたか、といった表情を見せながら、彼は着ていたTシャツで私の手を拭きだした。
「駄目なら帰ってもいいんだけど、どっちにする?」
新しい煙草に火を点けると、彼はまた私の顔を覗き込んできた。

何で私に選ばせるんだろう。
正直に言えば選ぶことは苦手だった。
自分が選ぶことにいつも自信がなかった。
だから誰かの選んだことを無条件に受け入れてきた。
違う、自分で責任を負いたくなくて、誰かのせいにしたかっただけだ。

彼の視線が私の心どころか背骨や足の裏まで射抜いている気がしてならなかった。
どっちにする?なんて聞かれても答えは無数に存在してどれも正しいと思えなかった。
「そんなの、私には選べないよ。」
「なんで?みんな何かを選びながら毎日生きてんだよ?俺とここに来たのも結果。こうして話してるのも結果。選ぶか選ばないかなんだよ。」
喉がカラカラになってきていた。
まだ初夏の手前だというのに、頭の奥が熱くてたまらない。
「だからさ、自分が後悔しないほうを選べばいいんだよ。俺はいつもそうしてる。」
今度は肩を抱えられながら下唇を吸われていた。
こんな場当たり的な結果がほしいわけじゃない。
ただ、後悔しない選択はここで身を退け反らせて走り去ることではないはずだ。
口移しされるニコチンの苦味で正常な思考は保たれていなかった。
「私にどう選んでほしいとかはないの?」
「さあ?俺はお昼寝したい。それだけ。」
これ以上何を聞いても堂々巡りだ。
繰り返される質問と舌の動きに、自分自身の輪郭が揺らぎだしていた。
何が後悔なの?
後悔はしたくない。
選ばないで逃げるのは嫌。
逃げる、って何から逃げるの?
ここまで来たのは何のため?
誰のためにここにいるの?

「…まだ帰りたくないから、行く」
そしたら行こっか、と彼は嬉々としてベンチから歩き出していた。

あとのことは朧げにしか覚えていない。
彼の目と口が絶えず歪んだ笑みを湛えていたこと、すごい大きな声になってるよ?と言われ我に返ったこと、彼の味がどこまでも苦かったこと、部屋を出た後のキスを完全に拒否したこと、嫌悪感を露わにしたにも関わらず駅まで送ってくれたこと、どの部分を切り取っても自分が望んだ結果になっていなかった。
後悔と言えるほどの現実味がどこにもなかった。

美術館の出口付近にあった、額縁の中の幸せそうな二人とは程遠い選択だった。

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